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03.アイドルは夢を壊せない

 現実とはかくも無情なものなのか。はたまた夢から覚めていないだけなのか。


「……まぶしい……」


 睡眠と言う名の束の間の平穏を破ったのは、カーテンの隙間から差し込む明るい陽射しだった。

 意識が浮上するとともに吸い込んだ空気は少し埃っぽく、木の香りが強い。明らかに自室とは異なる匂いに、実琴は改めて現実を思い知らされた。

 不快な寝汗をかくでもなく、寒さに震えるでもない目覚め。こんな時でなければ、きっと爽やかな朝だと素直に思えたことだろう。


「夢じゃ……なかった……」


 ぐるぐると、頭の中で昨夜の光景が繰り返される。

 ムーサ、女神、召喚術、一座――あぁ、夢なら早く覚めてほしい!

 窓から差し込む陽射しから逃げるようにして頭を抱えた。このまま何事もなかったかのように眠りについて、そして自宅のベッドで目覚めたい。

 逃げるように目をつむった実琴を現実に引き戻したのは、ドアをノックする軽い音だった。


「女神さま、起きてらっしゃいますか? 朝食はお食べになりますか?」


 ドア越しに聞こえる声はややくぐもっているが、昨夜聞いた遠慮がちな若い男のもので間違いない。

 突きつけられた現実に、無駄な足掻きは止めるべきかと瞼を開いたところで空腹を覚えてげんなりする。お腹が減るなんて、いよいよもって夢ではない。

 実琴は観念してベッドから起き上がると、努めて平静な声でドアの向こうへ話しかける。


「……着替えますので、少し待ってくれますか」

「それなら、着替えと水桶を廊下に置いておきますね」


 言葉が終わると同時、ドアの向こう側でゴソゴソと何かが動く音が漏れ聞こえてくる。


「何かあったら遠慮なく呼びつけてください。俺は下の階で待ってますけど、聞こえますから」

「わかりました。ありがとうございます」


 遠ざかる足音が聞こえなくなったのを確認して、実琴はベッドからゆっくりと抜け出した。そっとドアを開け、用意されていたものを部屋に引き入れる。

 先ほどの男が言った通りに用意されていた水桶で顔を洗い、クラシカルなデザインのロングワンピースに着替えた。サイズの合わない靴は妙に柔らかくて落ち着かない。

 いつもならスキンケアにメイクに予定の確認にニュースのチェックに……とそれなりに忙しいはずの朝の準備も、あっという間に終わってしまう。

 ノーメイクの顔を他人に見せるのは気が重いが、さすがにそこまでの我儘は言えなかった。


(すっぴんで誰かと会うなんてどれくらいぶりだろ?)


 それも昨夜会ったばかりの異性となると、さすがに人生初ではないだろうか。


(化粧水とかもないんだよね。どうしよ、あんまりサボりたくないんだけど)


 せめて、と日課のストレッチをいつもより入念にこなす。

 スキンケアだけではなく、髪の手入れに日焼け止めに……頭に浮かぶのは、そんなことばかり。

 ここが本当に異世界なら、気にするべきはもっと他にたくさんあるはずだ。ただ、あまりにも話が突飛すぎて実感がない。

 今はまだ、目の前に差し出された状況を飲み込むだけだ。


「よし、っと」


 いい感じに体が温まったところでストレッチを終え、空腹に鳴く胃袋をなだめながら階下へ降りることを決める。

 ドアを開けるときのためらいは一瞬だった。


(引きこもってても、何も変わらないんだから)


 ――進むのならば自分の足で。決めるのならば自分の意思で。


 常々、自分に言い聞かせていることだった。

 ドアを開ければすぐそこに階段があり、実琴は迷うことなく階下へと降りることが出来た。

 昨夜は分からなかったが、どうやら一軒家と言うよりペンションのような造りの家であるらしい。木造で、あまり大きくはない家のようだった。


「お待たせしました」


 リビング(多分)に入った実琴が声を掛けると、青年は穏やかな微笑を浮かべながら振り返った。


「待ってなんていませんよ。それより何か不備はありませんでしたか?」

「ええ、大丈夫です」


 とりあえずは、という言葉を飲み込んで完璧なほほえみを向ける。青年は安心した様子で椅子を引き、実琴も案内されるがまま食卓に着いた。


「こんなものしかご用意できず、申し訳ないのですが」


 そう言って指し示されたテーブルには、パンやベーコン入りスクランブルエッグ、サラダにスープに果物と、一通りの物が並んでいた。

 実琴の普段の朝食より、数倍は豪華である。


「これは、フィースさんが?」


 驚きを含んだ実琴の問いに、青年はどこか不思議そうに頷く。もしかすると、彼にとってこの朝食は当たり前のことなのかもしれない。

 実琴が感心している間に、青年は反対側の椅子に座った。彼の方にも、まったく同じものが並んでいる。


「どうぞお食べください。それと女神さま、俺……私のことは、フィースと呼んでください」


 実琴は曖昧に微笑んで答えを濁した。昨夜聞いた彼の年齢は二十四歳。年上の異性を一日二日で呼び捨てにできるほど、実琴のコミュニケーション能力は高くない。いや、そんな、低くもないはずだけど。


「……ご飯、いただきますね」

「! あ、はい、どうぞ!」


 控えめに笑って見せる青年に、実琴もなるべく穏やかな表情を返す。

 自分がどんな状況に置かれているのか。その一割だって理解できてないが、今はとにかく目の前の食事に集中する。腹が減っては戦は出来ぬ、というし。

 いただきます、と手を合わせ、まずは温かな湯気の立つスープに口をつける。すると、玉ねぎの香ばしさと甘みが口いっぱいに広がった。


(おいしい!)


 お世辞でなく、そのスープは美味しかった。続けて手を伸ばしたロールパンも、スクランブルエッグも同じく。


(これを、この人が作ったのか)


 実琴の周りにいる男性(父とか兄とか)は基本的に料理をしなかったので、プチカルチャーショックだった。

 ちら、と見上げた先にいるのは金髪緑眼の青年。昨夜は暗くてよくわからなかったが、整った顔立ちをしているように思う。

 フィース・ハンプトン、二十四歳。

 実琴を呼んで、劇団を作ろうとしている人。

 昨夜、彼は自分のことをそう説明した。


(なにがなんだか、わからないや)


 実琴はいつも通り自宅で就寝したはずなのに、目を覚ませば見知らぬ男。おまけにこちらには理解できない話をまくしたて、女神だなんて言い始めて。


(まぁ、乗っちゃった私もどうかと思うけど)


 内心で溜息をつきつつ、実琴は昨夜の出会いに想いを馳せた。


 ***


 明々と輝く月だけが光源の室内。土下座の体勢から顔だけを上げた男と、壁を背にしたままの実琴は無言で見つめ合っていた。


 ――あなたの女神に、なってあげる。


 裸足の足裏から這い上る奇妙な興奮に身をゆだね、そんな言葉を吐いた自分に、心のどこかで嘲笑が聞こえた。

 そんなドラマみたいな台詞、いったいどこから引っ張り出してきたのだろう。自分で言っておいて意味が分からない。


(もしかして寝起きドッキリ? 冗談じゃないわ! でもドッキリに使われるほどの知名度はないし、なにより若い女を一人っきりで男の前に放り出すような悪質な企画に所長が乗るとは思えない。いくらサプライズが好きだって言っても限度があるし……いや、うん、さすがに信じたいさすがに)


 お世辞にも冷静とは言えない思考の嵐にもみくちゃにされながら、表面上は落ち着いた顔をして男の反応を待った。

 実琴の言葉を受けて呆然としている様子の男の顔は若い。月が余程明るいのか、窓から差し込む光でその人相を把握することは簡単だった。

 日本人ではないが、欧米人とも言い難い顔立ち。いわゆるハーフと呼ばれる人に近いだろうか。はっきりとした年齢は分からないが、少なくとも二十代に見える。月光に薄くきらめく金髪は耳が隠れる程度には長く、サラサラと小さく揺れている。大きく見開いた瞳の色を正確に判じることはできないが、それでも日本人にはないであろう色素の薄さだけは見て取れた。

 よく見ると「人畜無害そうなイケメンだな」という感想を抱くだろう。しかし、生憎と今の実琴にそこまでの余裕はなかった。

 次のアクションに悩んで無言のまましばらく見つめていると、男はようやく実琴の了承に処理が追いついたのか、その表情をぱっと明るいものへと変えた。


「あ……ありがとうございます女神さま!」


 言うが早いか立ち上がった男に、実琴は思わず「ヒッ」と悲鳴を上げて身体を硬くする。身長150cmそこそこと小柄な実琴にとって、180cm近い成人男性――それも見知らぬ上に下手したら誘拐犯かもしれない――に不用意に近づかれるのは単純に恐怖だった。

 握手会だってテーブルを挟んでやるのに、今二人の間を隔てる物はないのである。

 怯えた実琴に男は慌てて「失礼しました!」と謝罪すると、その場に片膝をついて頭を下げた。胸に手を当てて、まるで騎士のように跪く体勢だ。


「私の名前はフィース。フィース・ハンプトンです。麦刈座アークトゥルスの座長をやっています」

「……私は、実琴です」


 とっさに偽名なんて出てこないので、とりあえず下の名前だけ口にする。

 フィースと名乗った男はゆっくりと顔を上げ、小さく微笑んだ。「素敵なお名前です」なんて言っているが、この名前に込められた意味なんて分かってないだろうに。


「私は神職ではないので、正式な作法ではないかもしれませんが」


 跪いたままのフィースが、胸に当てていない方の手を一瞬こちらに伸ばしかけて、やめる。こちら見上げる瞳がほんの少し困ったように揺れたが、フィースはまた頭を下げてしまったので、彼の行為の意味を実琴は結局知らないままだった。


「我がムーサ、ミコト。貴女に……心からの感謝を」


 見下ろす形になった実琴からは、月明かりを浴びて柔らかに輝く、ややくすんだ金髪しか見えない。

 まるでおとぎ話のお姫様になったかのようだ。


(いや、お姫さまじゃなくて女神さまか)


 ファンタジーじみた状況を前に、実琴の中で何かがストンと胸に落ちた。


(私は今、女神さまなんだ)


 何かしらの役を求められることには慣れている。実琴は紛うことなきアイドルで、常に「キャンディ☆ポップの皆塚実琴」というキャラクターを求められていたのだから。


(それが、今は「芸術の女神さま」を求められているだけで)


 そう考えると、急に頭の中の嵐が収まったような気がした。

 求められているなら、やるべきことはただ一つ。


(「女神」を、演ればいいんだ)


 実琴は神話や宗教などにあまり詳しくないが、演じるべきキャラクターはこれからすり合わせていけばいいだろう。

 現段階でできる精一杯の「女神らしい」微笑みをその顔に浮かべ、跪いたままのフィースにゆったりと声を掛ける。


「……末永く、よろしくお願いしますね」

「女神さま……!」


 顔を上げて視線を合わせたフィースは輝かんばかりの笑顔だった。

 どうやらあの態度で正解だったらしい。

 ゆっくりと立ち上がった彼を前にしても、実琴は今度こそ震えなかった。――胸元で組んだ両手は、氷のように冷たかったけれど。


 ***


 昨夜は結局、夜も遅いという事でそのまま客室へ案内された。

 最初にいた部屋の真向かいにある、少し埃っぽいベッドとシンプルな机が窓際に置いてあるだけの部屋だった。

 女神に宛がうには狭いかもしれないが、落ち着いて眠れる場所があるだけでも感謝するべきだろう。

 現に、昨夜は思っていたよりもすんなりと眠ることが出来た。


(いや、ここが異世界だとか、多分帰れないとか、突拍子もない話ばかりで頭がショートしたのかも)


 黙々と朝食を口に運びながら、少しだけ胸が痛んだのを自覚する。

 女神を演じた実琴は、昨夜のうちにフィースにいくつかの質問をした。

 ここはどこで、今はいつで、いったいどうやって実琴を連れてきたのか――。

 返ってきた答え、全てが聞いたことのない地名や言葉だった。もちろん色々と疑ったが、案内された客室を見回して無理矢理納得するしかなかった。

 部屋にはあってしかるべきのコンセントが一つもなく、天井には照明もなかったのだ。少なくとも、日本では考えられないだろう。

 最後に「元の場所に帰れるのか」と聞いた実琴に、フィースはただ口ごもるだけで――その態度が答えだと思った。

 もしかしたら帰る手立てはあるのかもしれないが、少なくともそう簡単なことではないのだろう。

 戻れないという事実を前にしても、実琴は取り乱さなかった。諦めたとかそういう事ではなく、ただあまりにも実琴の知る現実とかけ離れていて実感がわかない。どこかふわふわとして地に足つかない心地だった。

 その後の記憶は曖昧だが、なんとなく目の前の彼が部屋から出ていくのを見送ったような気がする。


 ちら、と再び視線を上げた先には、やはりどうしたって日本人には見えない青年。

 くすんだ金髪に、柔らかな印象を与える緑色の目。見慣れない顔立ちなので判別しづらいが、割合整っている方だと思う。少し日に焼けた様子の肌は健康的で、意外と大きい手は節くれだっていて男らしい。


(テレビ映えは……どうかな。背が高いしモデルの方がウケるか)


 職業病じみた目で分析していると、思いっきり目が合った。

 ニコリ、と笑顔を返される。


(うーん、そのスマイルがちょっと胡散臭い気がしなくもない)


「女神さまのお口に合いましたでしょうか?」

「えぇ、とても美味しいです。ありがとうござます」


 内心などおくびにも出さず、実琴も笑顔を返した。


(信頼できるかって言われるとNoだけど、常識はわきまえてるっぽいんだよね)


 例えば、実琴が怯えているのを見て距離を取る所とか、そういう配慮はひしひしと感じているのだ。

 だからといって全面的に他人を信頼できるほど、実琴は子供ではない。

 しかしながら、今すぐここからの脱出を検討するほど、差し迫った状況でもないと思う。


(雰囲気にのまれたとはいえ、「女神になってあげる」なんて約束もしちゃったし)


 しばらくはこの朝食を作った青年――フィースの望むままに動こう、と実琴は改めて決意した。




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