第七話 忍び寄るもの
クリスマス・イブ当日。
塾のバイトの休憩時間の間に用事を済ませようと、待ち合わせ場所であるコーヒーショップへと向かった。
「あなたから本当に連絡が来るとは思ってなかったわ」
待ち合わせの相手は小塚沙織だった。
「すみません。急なことで代わりを頼める人が他にいなかったので」
「いいのよ。いい経験をさせてもらえるんだもの」
母が請け負っていた英文の原稿を翻訳してもらうために通訳志望である彼女に頼んだのだ。
遊んでばかりいる印象が強いが、通訳になりたいという気持ちは本物らしく、この仕事の依頼をしたときも二つ返事で引き受けてくれた。
原稿を手渡して即立ち去るのも悪いと思い、話に付き合う。
「実はね、私……留学が終ったんじゃないのよ。逃げてきたの」
「逃げて……?」
「ええ、向こうでトラブルがあって……なんだと思う?」
同性には嫌われやすい彼女だが、処世術には長けていたと思うのに、何があったのだろうか。
「不倫、しちゃったのよ」
「は?」
「大学でね、私が師事していた教授の助手に告白されて付き合ってたの。私が大学を卒業したら結婚しようって言われたわ」
「はあ」
他に相槌のうちようがなくて曖昧に頷くと、小塚沙織は話を続けた。
「私もね、彼ならいいかなって思ったの。素敵だったし、とても優しかったもの。なのにね、彼……奥さんがいたのよ」
「え」
「結婚してたの。既婚者だったのよ、彼。彼とは半同棲みたいなことをしてたんだけど、私が住んでたアパートに彼の奥さんが乗り込んできたのよ。すごいわよね、向こうの人ってパワフルで。まるでテレビドラマのような経験しちゃったわよ」
なんと言うべきだろうか。
あっけらかんと話しているように見えるが、とても傷ついたのだろう。信じられないことだが、目の前の彼女の目には涙が滲んでいた。
「だから恐くなってしまって、とっとと逃げてきたの。そんなときにね、あなたを大学で見かけて思い出したの。あなたなら私を慰めてくれるんじゃないかって――」
でもだめだったわね、と彼女は笑った。
「しばらくは男はいいわ。大学院での勉強もあるもの。でもまた留学はしたいわね」
「いいことだと思いますよ」
「あなたこそ、無理はしないほうがいいわよ。で、どうなの? あなたの好きな子とはうまくいってる?」
興味津々というように身を乗り出してきた小塚沙織に苦笑して立ち上がった。
そろそろ休憩時間も終わりだ。
「大学卒業して、一人前に稼げるようになるまでは自制しますよ」
雅也は気づかなかった。
このとき、店の外から麻里子に見られていたことに――
年が明けて二月になっても母は退院することができなかった。
病院で完全看護のはずなのに、日に日に弱っていっているような気がする。
雅也まで気がふさいでしまって、それが体調に影響したのか風邪をひいてしまった。
ただでさえインフルエンザが流行する時期だ。
母の見舞いついでに診察してもらったのだが、幸いにもインフルエンザではなく一日家で寝ていれば熱も下がるだろうと言われた。
しかし、やはり熱でまともな判断ができていなかったのだろう。
どうにかマンションまでたどり着いたはいいが、ちょうどお昼時になって家に食べるものが何もないことに気づいた。
さすがに胃に何も入れずに薬を飲むわけにはいかない。
しかし、外に出るのが面倒くさい。
こんなときこそ持つべきものは友人で、近くに大学があって助かった。
早速携帯電話を取り出して電話をかける。
『おー、なんだ。どうした?』
楢崎とは学部が違うために顔を合わせないときは何日もある。
だから雅也が風邪で休んでいることも知らないはずだ。
「悪い、楢崎……今からコンビニ行って、何か食い物買ってきてくれ……」
『どうしたんだよ。なんか声が変だぞ』
「風邪ひいた……。薬飲みたいんだけど、胃に何か入れないとマズイだろ。だけど、家になんもないんだよ……」
楢崎はその説明で事態を理解したらしい。
『お、おし! わかった。ちょっと待ってろよ! 俺が行くまで寝てろよ!』
「はいはい、わかりましたよ」
とにかく動くのが面倒くさい。
自室に戻るとエアコンの暖房のスイッチを入れて、どうにか部屋着に着替えたあと布団の中に潜り込んだ。
どれくらい時間が経ったのだろう。
ドアホンが鳴る音に気づいて起き上がった。
オートロックのマンションにここまで入ってこれるのは楢崎に違いない。
少し眠っていくらかマシになったのか呼吸まで楽だ。
「ならさき…わりいな……あれ?」
そこにいたのは親友ではなかった。
大きな黒目がちの目に長い睫、色白の頬は火照っているのか淡い桃色に染まっている。
「瀬川……なんで?」
「楢崎先輩に頼まれたんです。先輩はどうしても教授のところに行かなきゃならないとかで……」
「あいつ、単位でも落としたんじゃないのか? ……ったく……まあ、入れよ」
「はい」
楢崎と麻里子は同じ学部だ。
きっとタイミングよく出会ったから彼女に頼んだに違いない。
それがいいのか悪いのか。
「あの、お母さまが入院されたって聞きました」
「ああ…」
楢崎め、余計なことまで言ったな。
そうは思ったものの、怒る気力もない。
「先輩、ちゃんと寝ててください。いまからご飯作りますから」
「料理できるのか?」
「できます! 凝ったものはできないですけど、おかゆくらいは作れますから」
「悪いな。あと頼む」
再び布団に戻ると目を閉じる。
先ほどとは違い、ドアの向こうに人の気配を感じる。
しかし、麻里子の気配はちっとも邪魔に思わなかった。
どうせ眠るのなら、彼女を抱きしめて眠ろうか。
普段なら考えそうもないことが頭に浮かぶ。
それもご飯を食べたあとにしよう。
目を閉じて三分もしないうちに雅也は眠りについた。
そして麻里子手製のおかゆを食べ終えると、一旦自室に戻る。
思い切って机の引き出しから捨てられずにいるシルバーのリングを取り出して、リビングに戻ると彼女に手渡した。
指輪を受け取った麻里子は驚愕で目を見開く。
明らかにその指輪を見知った者の反応だった。
どこで拾ったのかと問われたので正直に告げた。
「せ、んぱい…あのとき、びょういんに…?」
ああ、やっぱりちっとも気づいていなかったのか。
それも当然かと思いながら説明した。
「ぶつかったんだよ、病院の玄関で。俺にぶつかったおまえがものすごい勢いで床に倒れたんで引き起こした。だけどおまえはすぐに走っていったからな」
「す…すみませんでした……私、あのあたりの記憶がなくて…」
「しょうがないだろ…あのときは。俺も気持ちはわかる」
あのとき、本当はかなり怒っていた。
けれど、今ならきっと麻里子の気持ちが理解できる。
周りのことなんて気にしていられなかっただろう。
「も、しかして…先輩、入学式のときも私のこと…?」
「ああ、すぐにわかったよ。綺麗な子は忘れないもんで」
「こ、れ…お母さん…の、なんです。な……なくした、と思って…お、お守りだからって…」
麻里子は泣き出してしまった。
大切なものだったのだ。
こんなことならもっと早く確認して返してやればよかった。
後悔先に立たずだが、確証がもてなかったのだからしょうがない。
泣いている麻里子をなんとか宥めると彼女がしゃくりあげながら言った。
「ほ、本当にありがとうございました。あの、何かお礼をさせてください」
「礼? ……礼なんて別に……」
礼というよりは欲しいものがある。
けれど今言うべきことではないだろう。
でも、これくらいはいいかと血色のよい柔らかそうな唇に口づけた。
初めは触れるだけ。
二度目はたっぷりとその柔らかさと甘さを味わうとわざとらしく音をたてて唇を離した。
どんな反応を示すのか。
そう思っていると、麻里子はこちらが思っていた以上の反応をした。それも思わぬ方向へだ。
「あのさ……もしかして、初めてだった?」
まさかと思いつつ訊ねてみると、ぎこちなく頷かれて妙に焦った。
(やばい。なんだこれ)
麻里子のファーストキスの相手が自分ということになるのか。やたらとドキドキして落ち着かない。思春期の中学生か! と自分で突っ込みたくなる。
落ち着けと自分に言い聞かせて、照れくささを誤魔化すために麻里子の頬を撫でた。
しかし麻里子は再び雅也を揺さぶるような反応を見せた。
右耳が弱いらしい。
触れただけで過敏な反応をするのでわざとらしく耳元で囁く。
「耳のココ、弱いんだな?」
「やぁ」
初心な反応に口の端がもちあがる。
味わいたい。
もっと深いところまで。
「口開けて」
唇に触れたときにも拒絶されなかった。
今見せた反応だって感じているからこそだ。
味わいたい。
すべてをあますところなく。
恐る恐るといった感じに開きかける唇にかぶりつきたいという欲求を必死に抑えていたところへ電話が鳴った――
読んでいただきまして、ありがとうございます。
「Close to You」の男性視点のお話です。
改稿でき次第UPしています。