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第三話 せわしない日々

 

 

 

 大きくなったものだ。

 麻里子の弟だという和佐を見たとき、あのとき彼女の腕に抱きしめられていた小さな男の子だとは思ってもみなかった。

 彼女とあの小さな男の子の間にもう一人弟がいるのかと思ったのだが、歳を訊いて驚いた。

「小学五年!?」

 上から下まで視線が移動する。

 小学五年生といえば雅也の妹と同い年だ。妹はまだ小さくて、彼のお腹あたりにつむじが見えるような大きさだというのに、和佐の身長は雅也と比べても十センチしかかわらない。

 姉の麻里子も女性の平均身長よりも高いようだが、育ちすぎだろうと思う。

 しかしやはり子どもは子どもだ。声変わりもしていないし、手足は長いが筋肉がついていなくてバランスが悪い。それも背が伸びるほうへ栄養がまわっているためだろう。

 自分も日本人男性としては長身の部類だと思うが、このままだといずれ追い越されるのだろうなと思った。

 

 まだ梅雨も明けていないというのに、今日は朝からうだるような暑さだった。

 暑そうな様子を見せた麻里子が喫茶店に向かうのを見送ると、ひとりごちるように言った。

「大丈夫か? アイツ」

「姉ちゃんは暑いの苦手だから」

 和佐は慣れたように言う。

「色も白いし、体が丈夫そうに見えないな。君のお姉さんは」

「体力がないんだ。俺が生まれる前はしょっちゅう熱を出してたらしいよ。これじゃ激しい運動はさせられないって言われてたみたい。だからスポーツも苦手だよ」

「体が弱いってわけじゃないんだな?」

「え? そういうのは聞いたことないよ。最近は風邪もめったにひかないし」

「ふーん」

 成長するにつれて体が丈夫になっていったのだろう。

 そういう話をいくつか聞いたことがある。

 スポーツという言葉を聞いて話を切り替えた。

「君は何かスポーツやってるのか? それだけ背が高かったら何かやれって言われないのか?」

「うん、小学校に入ったときから柔道を習ってる」

「そりゃ偶然だな。俺も柔道やってるんだよ」

「え、ホント!?」

 どこか遠慮がちだった和佐もその話を聞いて顔つきが明るくなった。

「もしかして黒帯?」

「一応な」

「何段なの?」

「三段までは取ったよ。四段は…大学入ってからは時間がなくて道場に通えなくて取ってないな」

「あのさ、訊いてもいいかな?」

 憧れのような目で見ていた和佐は、急に神妙な顔つきになって上目遣いに雅也を見た。

 そうするとやはり姉弟なのか、麻里子とよく似た目をしている。

「なんだ?」

 学校の先生を目指している雅也としては少年の質問には答えてやりたい。

 快く返事をすると和佐は言った。

「中学に入ったら、柔道部に入ったほうがいいのかな?」

「う~ん、どうだろうな。君は部活をやりたいのか?」

 質問に質問で返すのはまずかったかと思ったが、和佐にはこう訊いたほうがいいだろうと思ったのだ。

「部活をやりたいわけじゃないんだ。ただ、柔道やってるのに柔道部に入らないのはどうかと思って……お兄さんはどうだったの? 部活やってた?」

「いや、全然」

 雅也のあっさりした答えに和佐は目を瞬かせた。

「俺は元々は行儀見習いと体を鍛えるために道場に通わされてたからな。今じゃ好きだからやってるんだけど、どうにも学校の部活動は苦手でな。中学に入って早々に辞めちまったよ」

「どうして辞めちゃったの?」

「時間をとられるから。他にもやりたいことがあるのに、部活に入ってたら毎日部活に時間をとられるだろ? 道場なら好きなときに通えるからな。だから、君もやりたいようにやればいいんだよ」

「うん、わかった。そうする」

 そんな話をしているうちに列が前に進む。

 どうやら販売され始めたらしい。

 話を変えて、他にも好きなゲームはあるのかなどと話がはずんでいたところで和佐が何かに気づいたように財布を取り出して青くなった。

「どうした?」

 不審に思って訊ねると和佐は姉が向かった喫茶店を見た。

「お金……姉ちゃんが持ってるんだ」

「君、全然持ってないのか?」

「うちでは高校生にならないと大きなお金を持たせてもらえないんだ」

「へぇ、今時しっかりしてる家だな……。じゃあここは俺が立て替えといてやるよ」

「え、い、いいよ! 俺、姉ちゃんにお金もらってもう一度…」

 こういう遠慮がちなところはやはり兄弟なのか。

 子どもらしくない遠慮だなと思いながら引き止める。

「いいからいいから。この暑いのに並びなおすなんて面倒くさいだろ? それに、別に買ってやるって言ってるわけじゃない。今度、君の姉さんから返してもらうから。それならいいだろ?」

 雅也が代金を立て替えると和佐はきちんと頭を下げた。

「どうもありがとう」

「どういたしまして。困ったときはお互い様ってやつだ」

 そう言ってから腕時計を見る。

 もうバイトの時間までギリギリだ。

「じゃあ俺はここで」

「え!? あの、姉ちゃんに…」

「あー、いい、いい!」

 もう本当に時間がない。断るように手を振ると、駅へと足を向ける。

「悪いけど、もうバイトに行かなきゃならないんだ。だからお姉さんに言っといてくれ!」

 和佐に背を向けて駅へ行き、ちょうどホームへ入ってきた電車に乗り込む。

 動き出した電車に揺られながら窓の外を見る。

 仲の良い姉弟だった。

 弟の和佐は今時の少年のようでもあるのに、初対面の赤の他人である雅也に対して敬語を使わないにもかかわらず、生意気には思えなかった。素直で擦れたところがないのが麻里子と同じだ。

 歳が近いと喧嘩してしまいそうだが、あれくらい歳の離れた弟がいたらきっと可愛がるだろうなと思う。

 時間があったら、今は離れて暮らす妹を遊園地にでも連れて行ってやろうかと思った――

 

 

 夏休みに入っても雅也には休みがない。

 大学の講義がないのが幸いというべきだが、その分アルバイトのほうが忙しかった。

 夏の特別講習で、普段は塾に通ってこない生徒たちが短気集中講習に参加するのだ。

「マーくん、特別合宿には参加しない方向でいいのね?」

 塾を経営している叔母の由紀ゆきは母のすぐ下の妹だ。

 もうすぐ四十に手が届こうとしているのに、結婚もせずに働いている。バリバリに仕事をし、塾もそれなりに繁盛しているため結婚しようという気がないらしい。

「ごめん、由紀叔母さん。さすがに泊り込みでつきっきりはできないんだ。それに俺はバイトなんだからいいだろ?」

「そうなんだけどねえ。マーくんは生徒たちに人気があるからできれば参加してもらいたかったのよね……。ああ、いいのよ。大学の方が忙しいのはわかってるから」

 子どものころから「マーくん」と呼ぶ叔母は割り切るのも早い。雅也が働きやすいように都合をつけてくれているので、断るのは非常に申し訳ないとは思っている。

「それにしても、これだけ忙しいとデートする暇もないわね。彼女とはちゃんと会ってる?」

「何言ってんの。今はそんなのいないよ」

「あらっ、そんなもったいない。せっかくの男前がフリーだなんて!」

 そういう言い方をすると母とは本当に姉妹だなと思う。口調がそっくりだ。

「たとえ付き合っていたとしても、叔母さんの言うとおり、デートなんてしてる暇がないんだから、逆に彼女に申し訳なくなるだろ。今は別にいいよ」

 今は時間があればとにかく寝たいという欲求が一番強い。

 少なくとも今年の大学祭が終るまでは時間もありそうにないことだし。

 午前の授業が終ったので今日のバイトは終わりだ。

 これから大学へ向かわねばならない。

 教室を出たところで懐かしい顔を見つけた。

「吉野じゃないか。久しぶりだな」

「先生、こんにちは。これからお昼ですか?」

 廊下にいたのは昨年教えていた生徒だった。今年の春、見事に第一志望の高校に入学し、今は大学受験の勉強をするために高校一年のクラスに通っている。

「今から大学に行かなきゃならないんだ」

「大学は休みじゃないんですか?」

「勉強しに行くわけじゃないけどな。大学生だって暇じゃない奴だっているんだぞ」

 じゃあなと手を振って講師の控室に行こうとしたのだが、シャツの裾を引っ張られる。

「待ってください! あの、お話が…」

「どうした? 何か困ったことでもあったのか?」

 廊下の一番端にある人気のない階段の踊り場まで引っ張ってこられると、かつての受け持ちの生徒を見下ろした。

「デートとかじゃないですよね?」

 どうして誰も彼もがそういうことを言うのだ。もうそろそろそういう話題は聞き飽きた。

 そうは思ったのだが、彼女にその苛立ちをぶつけるわけにはいかない。

「あー、違う違う。サークルの活動だよ。十月に学祭があるからその準備でな。そうだ。学祭に来るか? うちのはけっこう面白いぞ」

「いいんですか!?」

 パッと顔を明るくした彼女は嬉しそうに言った。

「来い来い。うちは入場制限してないからな。誰だって入れるぞ。まあ、俺は当日は忙しいし、どこにいるかわからないけど」

「……先生が案内してくれるんじゃないんですか?」

「悪いな。俺は学祭の三日間はサークルの仕事で忙しいから、どうせなら友達誘って…」

 すると首を横に振って、自分を見つめてくる。

 なんとなく予想はしていた。

 頭のどこかで警報が鳴り響く。

 これはたぶん――

「私を先生の彼女にしてください! 彼女になったら学祭を案内してくれますか!?」

「……ごめんな。それはできないよ」

「私がまだ高校生で、教え子だからですか?」

「違うよ。……俺もさ、大学に好きな子がいるんだ」

 そう告げると彼女は黙り込んだ。

「好きな子がいても今は付き合えない。付き合ったとしても、今、俺は彼女を大事にできない。大事にできるって自信がついたら告白して付き合ってもらおうと思ってる。だから、今は誰とも付き合う気がないんだ」

「そう…ですか。羨ましいです。その人が…」

 ありがとうございましたと言って彼女は塾を出て行った。

 告白の返事にも慣れたものだが、やはりどこか心苦しいものが残る。

 そう思うのだが中途半端な返事はできない。ここははっきり断るのが一番いいとわかっていた。

 

 塾を出ると大学内の食堂で簡単な昼食をとるとサークルの仕事に入る。

 

 そしてそこで雅也はある事件に巻き込まれるのだった。

 

 


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