最終話 君が一番の特別
麻里子と夕食の約束をとりつけたのは実習が始まった週の金曜日だった。
第一週目の金曜日ということもあり、一日くらい部活を休んでもいいのではという他の教師たちの意見もあって、コーチ業から解放されたのだ。
急遽連絡を入れたにもかかわらず、麻里子は待ち合わせに応じてくれた。
とはいっても部活はなくても他の用事をしていると遅くなる。
学校で用事を済ませてから出ると、待ち合わせ時間ギリギリの到着になりそうだった。
(あいつ待たせておくとマズイ気がするんだよな)
麻里子の容姿だと人目を引くだろうし、よからぬ輩に声をかけられかねない。
できれば自分が先に行って待っているほうが無難なのだが、結局電車が到着したのは待ち合わせ時間の三分前だった。
急ぎ足で改札を出ると向こうから声をかけてきた。
「山沖先輩」
彼女は気づいているのだろうか。
嬉しそうに笑って小走りで近づいてくる姿がとても可愛らしく、どれだけ人の心を惹きつけるのかを。
一緒に晩御飯を食べようとは言ったものの、麻里子を連れていったのは居酒屋だった。
そこでは先日麻里子に告白したというサークルの後輩がバイトをしているのだ。
それをすでにリサーチ済みなのも中松朱莉が連絡してきたからだ。
楢崎から山沖の携帯番号を強奪したらしく、あの子は麻里子を諦めていないらしいからなんとかしてくれと直接電話をかけてきた。
そういうことならと牽制をするつもりで、この店を選んだ。
上原という後輩の少年は何度か山沖たちのテーブルにやってきた。これは明らかに麻里子狙いだとわかる。山沖を気にしているだろうに、視野にすら入れないようにしている。
そして空になった食器を下げようと来たところで麻里子に向けて言った。
「先輩、帰りは電車ですよね。俺が送っていきましょうか?」
「え…?」
「だって、先輩の家って遠いんでしょう? バイト終るまで待っててもらったら、俺が」
「瀬川は門限あるから今帰らないと駄目なんだよ」
雅也はそうさせてなるかと割って入った。
「え、門限?」
「上原、だっけ? 瀬川は俺が送っていくから心配するな」
「でも、山沖先輩は家がすぐそこだし、お酒…」
「俺は酒を飲んでないぞ」
そう言って空になったジョッキを持ち上げて軽く振る。
「これはただのウーロン茶。だよな、上原?」
それは嘘だなんて通じない。
レシートを見れば雅也が注文したものと麻里子が注文したものは違うのがわかる。
「そうですね」
悔しそうな顔をした上原を見て、雅也はなんとかなりそうかと安堵する。
「それじゃ、瀬川先輩をお願いします」
「言われなくても。今日は俺がコイツを誘ったんだからな。最後まで責任持つさ」
牽制は成功したようだ。
後日、それとなく話を聞いたが、その日以来、麻里子は上原に絡まれることもなくなったようだった。
K大付属第一高校では、数学教師の採用はないらしい。
教育実習期間中にそういう話を聞いていたので、教員採用試験を受けようと準備を続けてきた。
しかし、九月に入ったある日、携帯電話に見知らぬ番号がかかってきた。
番号からして固定電話のようだ。
見たことがあるような、ないような気がしたが、念のために出てみる。
「もしもし、山沖です」
『瀬川と申しますが、山沖雅也くんの携帯電話で間違いないでしょうか?』
「あっ、はい、そうですけど」
瀬川という名と聞き覚えのある声に自然と背筋が伸びる。
瀬川恭一郎理事長からの電話だった。
『突然申し訳ない。確認のために電話をさせてもらったんだが、今いいかな?』
「はい、なんでしょうか?」
『君、今年一高の教育実習に来ていたが、教師志望なのか?』
「ええ、そうです」
『そうだったのか。それはちょうどよかった』
ドキリとした、変な期待はすまいと思いながらも緊張してくる。
ドクンドクンと心臓が大きく脈打っているのがわかる。
『君さえよかったら、来年度から一高で数学教師として教鞭をとってくれないか?』
「本当ですか!? ………あ、でもなんで……確か数学教師は足りてるって聞いていたのですが」
『ああ、急なことなんだが、田口先生が実家の都合で辞められることになってね。今年度いっぱいは働いてもらうように頼んだんだが、来年度から教師が足りなくなる。そこで田口先生から君を採用したらどうかと推薦されたものだからね』
「そうだったんですか」
『君はずいぶんと生徒受けがよかったと聞いているし、もし君を採用するのであれば体育の藤堂先生が是非とも柔道部のコーチに欲しいと言われていてね』
「そ、そうですか」
がっくりと肩を落とすと、その気配が向こうにも伝わったらしく笑い声があがった。
『麻里子からはそういう話をちっとも聞いていなくてね。教育実習生の名簿の中に君の名前があったときには驚いたよ』
「あ、そうだったんですか」
そう答えはしたものの、麻里子であればそういう話はしないだろうなとも思った。
しかし続いた話にぎょっとする。
『妻や桜子たちとは君の話をよくしているみたいなんだがねえ。食事に行ったとか、車で送ってもらったとかとね。私の娘ではないが、男親には話してもらえないものなのかな』
「ど、どうなんでしょう……」
今度は別の意味でドキドキしてくる。
一体何を話しているんだ。というか、理事長が気がつくくらい頻繁に話題に出ているのか。
両親を亡くしている麻里子にとっては理事長夫妻が親のようなものだ。
あまり悪い印象を与えたくはないのだが。
『ああ、すまない。世間話みたいになってしまったな。君の人となりはわかっているつもりだが、一応面接をしておきたいので、大学の理事長室のほうへ顔を出してくれないかな?』
「わかりました。いつがいいでしょうか?」
指定された日時をカレンダーを見ながら確認する。
「問題ありません。ではその日に伺いますので。はい、失礼いたします」
電話を切ると思いっきり息を吐き出した。
「………やった!」
教師になれれば勤める高校はどこでもいいとは思っていたものの、本命に決まれば言うことはない。
麻里子に連絡しようと思ったが正式に決まってからのほうがいいかと携帯電話をしまった。
理事長との直接の面接の後、ほどなく採用が決まった。
ある意味ツテといってもよかったが、これで就職活動をせずによくなってバイトと卒論に集中できるようになった。
いつの間にか大学の卒業式になった。
あと一ヶ月もすれば社会人として働き始めるのだ。
アルバイトも辞めて、四月まではゆっくりと過ごすつもりだ。
いままで忙しかった分を休むという意味もあるが、体力づくりも忘れずにやらなければならない。
教育実習時のような体力不足にならないようにせねば。
しばらくは道場で練習させてもらおうか。
卒業式会場である大講堂を出ながら考えていると、声をかけてくる女子学生がいた。
これが最後の機会だからと告白されたのだが、受け入れることなどできない。
はっきりと断ったところで、「福天堂」の後輩たちが集まっているのが見えた。
楢崎たちもいる。
その中に麻里子がいた。
彼女に引き寄せられるように走り出すと、向こうもこちらに向かってきた。
麻里子が何か話があるのかと思っていたら、突然告白めいたことを言われ、思いつめたような、泣きそうな顔に何を言いたいのかすぐにわかった。
ダメだろ俺!
「そうだよな~…」
「………?」
頭を抱え込むようにしゃがみこんだ。
当たり前のように思っていたが、一歩も前に進んでいないではないか。
「わかるわけないんだよな~…いや、駄目なのは俺か」
とても大切なことを忘れていた。
「好きだ――ずっと好きだった。だから、付き合ってくれないか? 俺と」
「もちろん、恋人として」
「は、い…」
キスを受け入れてくれたから好かれているとは思っていた。
けれど、自分は何も伝えていないではないか。
抱きしめると麻里子は大人しく腕の中に納まった――
追い出しコンパの会場では強制的に麻里子と隣同士で座らされた。
「では本日めでたくカップルとなりました山沖くんから一言挨拶~!」
なぜか司会進行は楢崎になっていた。現代表がやるのではないのか。
囃し立てられて雅也は憮然とした顔つきになるが、隣の麻里子は真っ赤な顔を伏せている。
「何言ってんだよ。結婚式じゃあるまいし……とりあえず、カップル云々はおいといて、今日で俺たちも本当にサークル卒業となるわけだけど、今後もみんなで協力して『福天堂』を盛り上げていってください。学祭には来るからな! 気ぃ抜くんじゃないぞ」
「挨拶ありがとうございましたー! それじゃ、二人の馴れ初めなんぞを……」
「だからそれやめろって。このままだと麻里子が帰るぞ」
晴れて恋人となった隣の彼女の様子を窺うと、今にも帰りそうな雰囲気だ。
「聞きました? 『麻里子』だって!」
「ついさっきまで名字で呼んでたのにねー」
「ねー」
「だからやめろ」
こういうことでからかわれ慣れてない麻里子にとっては、からかわれるのではなくていじめられているようにも思えるのだろう。顔が真っ赤になっている。
「せんぱーい、せっかくの追いコンなんですから、先輩達が主役でしょう? こっちで勝手に飲み食いしちゃいますよー」
よし、よくやった中松!
この中で唯一の味方といってもいい中松朱莉が卒業生たちを放って飲み物を注文しはじめた。
「待ったー! それはナシでしょ、シュリちゃーん」
楢崎が慌てて注文するために立ち上がった。
それを機に雅也たちは解放される。
「麻里子、大丈夫か?」
「え? あ、はい」
泣きそうな顔がぎこちなく笑った。
雅也はアルコールの入っていないウーロン茶を一口飲む。
麻里子を送っていくためには酒など飲んでいられない。
「今日も二次会出れないのか?」
「はい。今、ちょっと家がゴタゴタしてて……」
「ゴタゴタ? 理事長たちに何かあったのか?」
「あ、違います。そういうことじゃなくて、あの……先輩には言おうと思ってたんですけど……」
「雅也」
「は?」
「雅也って呼べって言っただろ」
ちょっとイタズラっぽく見つめると、麻里子はすぐに赤くなった。
彼女も今日はアルコールは一切口をつけていないはずだ。
「ま、雅也、さん、……私、引っ越すんです」
「はぁ!? いったいどこへ!?」
素っ頓狂な声が出た。
確かに理事長の家は通うには遠すぎるところだが、通えないわけではないし、防犯の面でも安全のはずだ。
それに弟の和佐もいる。
二人きりの兄弟なのに、何故理事長の家を出ねばならないのか。
そう思っていると、その答えは麻里子が教えてくれた。
「えっと、税金対策だとかいって、和佐の名義でマンションを建てているんです。私が二十歳になったらそうする予定だったみたいで、もうすぐ内装工事も終るので和佐と一緒にそこで二人暮らしをすることになってて……」
「あ、ああ、そういうことか」
四月からは和佐もK大付属第一中学に通うことになっている。それならば理事長宅から通うよりも近いところへ引っ越したほうがいいだろう。
「それにしてもさすが瀬川家だな。税金対策か~。和佐君名義なのはなんで?」
「え? そ、それは、その……私は、その、お、お嫁にいってしまうかもしれないのでっ」
これ以上ないくらい真っ赤になった麻里子はきゅっと目を閉じて言った。
「な、なるほど……」
なんとなくこちらまで気恥ずかしくなってしまって、無意味に咳をした。
「それで、引越し先はどこ? 近いのか?」
「近いです。えっと……」
何故か雅也の顔色を窺うように麻里子はポツポツと住所を口にした。
「俺んちの一ブロック隣じゃないか!」
思わず声をあげたが、そういえばと思い当たった。
確か近所に建築中のマンションが一棟あった。
つい先日防護シートが取り外されて外観が露わになっていた。近日中には入居できるのだろうなと思っていたが、まさか瀬川家のものだったとは。
「そうなんです。私も伯父さんに聞いたときにはびっくりしてしまって……」
麻里子もどこに建てられているのか全く聞いていなかったらしい。
「和佐が小学校を卒業したら、引越しする予定なんです」
「そうか。わかった。引越しする日が決まったら教えてくれ。手伝いに行くから」
「はい。でも、業者に頼むのでそんなにお手伝いは必要ないかと……」
「いいの。行きたいの。わかった?」
「は、はい」
追い出しコンパを一次会だけで切り上げて、雅也は麻里子を家まで送った。
「いいんですか? 先輩、いつもなら二次会までいくのに」
「いいんだよ。おまえを送っていくのは俺の特権。それに、また集まることもあるだろ。しょっちゅう呼び出されるからな」
「そうだったんですか?」
麻里子を追って雅也も車を降りる。
「今日はありがとうございました」
「うん、でも今度から俺も飲めそうだな。車で送る必要がなさそうだし」
「そうですね。もう少ししたらご近所さんになるんですね」
「ああ、楽しみだな、いろいろと」
「はい、私も嬉しいです」
きっと自分と麻里子の「楽しみ」とか「嬉しい」とかの意味はちょっと違うんだろうなと思ったが、そこはあえて黙っておこうか。
「ところでさ」
ご近所という言葉で思い出したことがある。
「理事長とか理一郎さんは引っ越し先が俺んちの近くだって知ってるのか?」
「え? いえ、まだ話してませんけど」
「しばらくは話すな」
「どうしてですか?」
「どうしても」
なんとなくではあるが、釘を刺されそうな気がする。
いろいろと。
付き合い始めたなんて聞いたら絶対にだ。
触れるだけのキスをすると車に乗り込んだ。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
車を発進させてバックミラーを見ると、麻里子はまだこちらを見ていた。
見えなくなるまでいるつもりなのだろう。
まだ寒いのだから早く家の中に入ればいいのに。
そう思いながらも顔がにやけてくる。
こんな顔は彼女には絶対に見せられない。
ようやく手に入れた大切な女性。
大切にしよう。
悲しませないようにしよう。
いつまでもそばにいよう。
君が一番の特別だから――
読んでいただきまして、ありがとうございました。
これにて本編は完結です。
この後、後日談が二話ありますので、もうしばらくお付き合いください。