第一話 雨の日の出会い
雅也が彼女に初めて会ったのは、高校三年のときだ――
九月下旬のある日、その日は台風の接近による大雨で窓の外は土砂降りだった。
「マーちゃん、そろそろ帰ったほうがいいんじゃない? 電車が動かなくなったら大変よ」
病室のベッドで母―梨津が言った。
「ん」
窓のサッシに寄りかかるようにして外を眺めていたが体を起こす。
「さっきも救急車で誰かが運ばれてきたでしょう? それも二台も。どこかで事故でもあったのよ、この大雨だもの。だからマーちゃん、早く帰んなさい」
「ああ、そうする」
面会時間が終るまでまだ時間はあったが、母親の言う通りだ。交通機関に支障が出ていたら困る。床に置いてあった学生鞄を持って軽く手を振って母親のベッドから離れる。
同室の患者たちにも軽く会釈をして廊下に出た。
「あら、山沖さん、お帰りですか?」
看護師が通りすがりに声をかけてくる。
「はい、この雨なんで早く帰れってうるさくて…あとはよろしくお願いします」
人好きのする笑みを浮かべて頭を下げると、若い看護師は満面の笑みを浮かべた。
これくらい軽いもんだ。
綺麗な顔立ちというわけではないが、自分の顔が女性受けしやすいことは知っている。
こういうときに役立てなくては宝の持ち腐れだ。
エレベーターに一人乗り込むと壁に背を預けて嘆息した――
雅也の両親が離婚したのは約一年半前。
若い頃から通訳として働いていた梨津は、外資系の会社で働いていた男性と結婚して雅也を生んだが、家庭に大人しくおさまる女性ではなかったらしく、ずっと外で働くことを望んでいた。しかし、そのうちに再び雅也の妹を妊娠、出産し、働きに出る機会を失っていた。この件については夫と意見が一致せず、結局は妹が小学校へ入学するのと同時に離婚したのだ。
雅也は母親に、妹は父親に引き取られた。
梨津の実家の山沖家では梨津が三姉妹の長女で跡取り娘だったにもかかわらず、他家に嫁いでしまったため、次女が継ぐことになっていたのだが彼女がなかなか結婚せずに独身、三女もいまだ独身だったために、結局は雅也が成人したのちに山沖の姓を名乗ることになっていた。
そのため山沖の姓を名乗ることに抵抗はなかったが、幼い妹が母と離れ離れになったことが可哀想でならなかった。
それが原因かはわからないが、一時的に素行が荒れていたことがある。
名門校といわれるK大学付属第一高校に通っていたが、高校二年生になってすぐのころ、制服姿のまま当時大学生一年生だった小塚沙織に街で逆ナンパされ、体の関係を持った。
今思えばただのセフレだったように思う。雅也にとって沙織は初体験の相手だったが、沙織は処女ではなかった。おまけに他にも関係のある男がいたようだ。
しかし、そんなこともどうでもいいと思っていた。両親の離婚の影響で男女の関係をあまり意識したくなかったのかもしれない。
それがきっかけとなって、以降は乞われるままに幾人かの女性と体を重ね、相手も割り切っていたので気が楽だったが、やはり一番回数を重ねたのは沙織だった。
彼女は通訳志望で将来は外国へ行って仕事をしたいと思っていたらしく、母が通訳をしていた雅也はなんとなく親近感を持っていたというのもある。
そんなことをダラダラと一年以上も続けていた高校三年の夏、梨津が突然倒れたのだ。
無理が祟ったのだろうと病院で精密検査をした結果、病状はかなり悪かった。
母の命がそう長くないと知って、雅也は動揺した。
雅也の学費は大学を卒業するまでは父親が負担してくれることになっていたが、生活費は母の稼ぎによるものだった。もちろん治療費もだ。
山沖家の祖父母も叔母たちもいるが、治療にはかなりの額が必要で全面的に頼れるわけがない。当然のことながら離婚した父にこれ以上頼るわけにはいかない。梨津もそれには反対した。
家庭の事情によるアルバイトなら学校に申請すれば許可が下りる。
そこで雅也はすぐにアルバイトを始めた。
当然のことだが、それが影響して学校の成績を下げるわけにはいかない。これでも雅也は学年でもトップクラスの成績優秀者だったのだ。大学進学のための学内推薦枠に入れなかったら困る。そのために体の関係のみあった女性達とは疎遠になっていき、沙織にも事情を話して会う回数が減っていったのだった――
そして十月の初旬、梨津の退院が決まった。これからは通院しながら治療を続けていくことになる。
今までどおりの仕事はできなかったので、梨津はすぐに在宅しながら仕事ができる翻訳の仕事に切り替えた。収入はこれまでのような期待はできないが、病院に入院しているよりはマシに違いない。
エレベーターを降りると、すでに診察時間を終えた受付ロビーを通り過ぎる。
いつもなら患者が溢れかえっているソファーにも人一人座っていない。
しかし、やはり病院らしく誰かが動き回っている音がする。
先ほど緊急搬送されてきた患者の治療が続いているのだろうか。奥のほうはざわめいていた。
だが、自分には関係ない。
今日はアルバイトは休みだから家に帰ったら家の中を片づけなくては。部屋が散らかっていて、洗濯物も溜まっている。
母が元気なときはずいぶんと楽をしていたのだといまさらながらに思い知った。
少しでも雨の勢いがおさまればいいのにと思いながら傘を広げる準備をしつつ出口へと向かうと、反対に自動ドアから飛び込んでくる人影があった。
勢いが余ったのか、その人物は雅也の肩から腕にぶつかった。
「痛っ!」
ズダダンッ!
あまりの痛さに文句を言おうと思ったが、ぶつかった人物はそのまま床に倒れこんだ。
「お、おいっ!」
受け身すらとれていなかったように思う。一体どんな無茶をする奴だ。
怒るのも忘れて雅也は慌てて倒れた人物を引き起こした。
「大丈夫か?」
「ごめんなさいっ!」
可愛らしい声に目を瞠った。
雅也が掴んでいる腕は細く、そして服はびしょ濡れだった。否、服だけではない。全身がびしょ濡れだったのだ。
髪の毛からしたたり落ちる雫を払いもせず、【彼女】は顔をあげた。
雅也は一瞬見惚れた。
それくらいに可愛い少女だった。
濡れた髪が張り付いた頬は白く、睫は長い。ふっくらとした唇は普段ならもっと血色が良いのだろうが、雨に濡れたためか紫色に変わっていた。
「いや、いいけど、膝とか」
「ごめんなさいっ!」
ぶつけなかったかと訊こうとしたのに、彼女は雅也の腕を振り払うように立ち上がり、奥へと駆けていった。
「なんだよ…」
せっかくぶつけられたのも怒らずに心配してやったのになんて奴だ。
可愛いと思って情けをかけてやろうと思ったのが仇になって返ってきた。
腹立たしく思いながら、もう帰ろうと足を踏み出したところで何かを蹴ったらしく金属音がした。
何かと思って拾ってみたら、携帯電話につけるストラップのようだった。
紐が切れているので落ちたのだろう。
さっきの少女が落としたものだろうか。
拾って届けてやる義理はない。あんな失礼な奴。
けれど。
どうしてももう一度彼女を見てみたかった。
何故かはわからない。
ただ気になっていたのだ。
ストラップを手にして少女が向かった奥へ向かう。
これを手渡してきっかけとなればと。
しかし――
悲痛な叫び声に思わず横に伸びた通路の影に身を隠した。
「うああああああっ!! とうっ……とうさんっ……かあさあああんっ!」
甲高い少年の声が廊下に響いた。
そっと奥を窺うと先ほどの少女が泣いている少年を抱きしめていた。
「おねえちゃんがいるからっ……まだ、おねえちゃんがいるからね…」
気丈なことを言う彼女の頬にも涙が流れていた。
駄目だ。
あんなところへノコノコと行って「落としましたよ」なんて言えるわけがない。
ぎゅっとストラップを握りしめて俯いた雅也の横を男性数人が走り抜けた。
「兄貴! かずっ…和志は!?」
「恭兄!」
壮年の男性は少女と少年の肩を抱きしめたまま首を振った。
「嘘だろう!?」
まだ若い青年の声が届く。
自分が今ここにいるべきじゃない。雅也はその場から逃げるように立ち去った。
母が退院した数日後。
リビングのソファでストラップをしげしげと眺めていた。
彼女はどうしているだろうか。
あれからかなりの日数が過ぎたが雅也が考えているのはそのことばかりだった。
このストラップが彼女のものかどうかすらわからない。
日々を過ごしていくとどんどん確証が薄れていく。
「マーちゃん、そのストラップどうしたの?」
「ん?」
退院した母はどこが病気なのかと思えるほどに元気がいい。倒れる前よりは痩せ細っているが。
「それ指輪じゃないの?」
「え、指輪?」
ただのアクセサリーではなかったのか。
紐で輪っかに編みこまれてはいるが、その下は金属のようだ。
ボロボロになっていたので、遠慮なく紐を切って中身を取り出した。
「ホントだ」
シルバーの指輪だったらしくくすんでいたが、それなりに高級なもののようだ。
内側には「K to S」と彫られている。
「なかなかの品ね。でも、どうしたの、これ?」
「拾ったんだよ」
「まあ…落とした人は困ってるんじゃないの?」
「…だろうけど」
その指輪を上に掲げてしげしげと見る。
(S…あの子の名前か?)
さちこ、さよこ、さえ、さおり…いや、それだけは勘弁。しずか、しおり、しほ…すずこ…なんていう名前だろう?
ふと眉根を寄せた。
(馬鹿か、俺)
たった一度会っただけの少女のことを考えている。
しかも高級な指輪を贈れるような彼氏つきだ。
あの子の学校はわかっている。あの制服はS女子高のものだ。
S女子高へ行けばいいだけのことだ。
それだけのことができない。
あいたいのに――
「え」
俺が?
ぎゅっとその指輪を握りしめた。
S女子高へ行くのはよそう。
彼女に会って何を言えというのか。
彼女の指輪はここにある。返さなければ彼氏と切れるわけでもないというのに。
梨津は自宅療養を続け、雅也は無事に高校を卒業して大学へと進学した。
昔から子ども受けがいい雅也は教師志望で、一番得意だった数学の教師になろうと教育学部の数理コースへと進んだ。
高校よりも少し余裕ができたからか、アルバイトも変更して叔母が経営する塾の講師になった。
沙織に誘われて「福天堂」に入って活動をしていたが、相変わらず何故か女子学生にモテた。付属中学からの友人である楢崎には羨ましがられ、他の男子学生からは嫉妬されるなど日常茶飯事だった。
それが大学一年を終えようとしていた冬のある日、沙織が留学すると言い出した。
「ふーん、そうか」
ホテルの一室で裸のまま雅也は沙織の言葉をすんなりと受け止めた。
「それでね、雅也とはこれっきりにしたいのよ」
「いいよ、別に」
ベッドから降りると手早く衣服を身につける。
「え、ちょっと、雅也?」
「沙織、通訳になりたいんだろ? がんばれよ」
それだけ言うと部屋を出た。
なんの感傷もおきなかった。
やはり自分にとって彼女はセフレでしかなかったのだ。
正直に言えば彼女に対して悪いと思うが、最近では食指さえほとんど動かなかった。
どうしてもという欲求そのものが薄れていって、今では別に必要がなくなっているほどだったのだ。
そして沙織と別れたという噂があっという間に広がって、次から次へと告白された。
断ったら中には体だけでもいいからと関係をせまられたが、そういうのには辟易していたので全員を振った。
もしもこれが【彼女】だったらと思わずにはいられない。
あれから何度彼女に会いに行こうと思ったかしれない。
しかし、当時の彼女が何年生だったのかもわからない。もしかしたらもう高校を卒業しているのではないか。
それに自分は忙しいのだ。
アルバイトもあるというのに、サークル活動までしている。これからますます忙しくなっていくだろう。
何かと理由をつけて会いに行こうとしないのは、一度会っただけの男がいきなり会いに来たって警戒されるに決まっているからだ。
それに彼氏つきなんて面倒は御免被りたい。
そう思ううちにズルズルとここまできてしまった。
でももう、【彼女】以上に惹かれる存在が現れない限り、きっとこのままなのだろうと思っていた。
そしてまた一年が過ぎる。
前任者の指名によって、「福天堂」の代表となっていた雅也は忙しい身にもかかわらず、友人達のフォローもあってなんとかサークルを運営してきた。
そして代表として最初で最後の春。
雅也は【彼女】に再会した――
ようやく男性視点の話です。
女性視点の話と読み比べてみてください。