『娘思いの理想の父親? いいえ、あなたが愛しているのはご自分だけです』 ~左遷された夫が娘を使って名誉を取り戻そうとしたので、妻として最後のお仕事をいたします~
第一話 夫が理想の父親になった日
「エレノア。君はもう少し、夫を敬うということを覚えた方がいい」
朝食の席で、アルヴィンが言った。
エレノアはパンにバターを塗る手を止めた。
「……はい?」
「昨日のことだ。私が帰宅したとき、君はまだ仕事から戻っていなかっただろう」
「昨日は月末の決算でしたから」
「それだ。夫より仕事を優先するとは、伯爵夫人としてどうなのだ?」
エレノアは夫の顔を見た。
結婚して六年。
この人は昔から少々自尊心の強いところがあったけれど、最近は本当にひどい。
「昨日は八時十分には帰宅しましたわ。あなたがお戻りになったのは八時でしょう?」
「そういうことではない!」
アルヴィンが銀のフォークを置いた。
「私が言っているのは、心構えの問題だ。妻というものは、常に夫を第一に考えるべきだろう」
「……そうですか」
「そうだ」
エレノアはため息を飲み込んだ。
反論したところで、朝から面倒なことになるだけだ。
向かいの席では、三歳の娘リリアが小さな口でパンをもぐもぐ食べている。
「おかあさま、いちご」
「はいはい。半分に切りましょうね」
「ありがと!」
娘の皿に苺を載せる。
リリアは両手で皿を抱えるようにして、嬉しそうに笑った。
エレノアはその笑顔を見て、少しだけ気持ちが軽くなった。
「リリア」
突然、アルヴィンが娘を呼んだ。
「はい?」
「今日はお父様と出かけるぞ」
「おでかけ?」
「ああ。王宮の薔薇園で茶会がある。お前も連れていってやろう」
「ばら?」
「綺麗な花がたくさんあるぞ」
リリアの目が輝いた。
「おはな! リリア、おはなすき!」
「そうだろう、そうだろう」
アルヴィンは満足そうに頷いた。
エレノアは少し驚いた。
夫が自分から娘を連れて外出するなんて、半年ほど前までは考えられなかったことだからだ。
「でも、今日は少し風が強いですわ。リリアは昨日、少し咳をしていましたし……」
「また君はそうやって、私のすることに口を出す」
「いえ、そうではなく」
「娘の体調くらい、父親の私がわかっている」
アルヴィンは胸を張った。
「近頃の貴族の父親たちは、子育てを妻任せにしすぎなのだ。私は違う。これからの時代、父親こそ積極的に子育てに関わるべきだと思っている」
「……」
「君も、もう少し感謝してくれていいんだぞ?」
「ええ。ありがとうございます」
エレノアはそう答えた。
娘と過ごす時間が増えること自体は、悪いことではない。
むしろ、これまで育児にまるで関心を示さなかった夫が変わってくれたのなら、喜ばしいことだ。
ただ。
「セシリア。リリアの外出着を用意してくれ。髪はいつもの倍くらい華やかに結ってやるといい」
アルヴィンは娘の世話係に命じた。
「それから、昼食の準備も頼む。私は茶会の前に仕立屋へ寄る」
「かしこまりました」
「リリアが馬車でぐずったら、何か食べさせておいてくれ」
エレノアは首を傾げた。
父親が積極的に子育てに関わる、という話ではなかっただろうか。
しかし夫は、そんな妻の疑問には気づかない。
「いやはや、父親というのも忙しいものだな」
そう言って、満足げに紅茶を飲んだ。
◇
アルヴィン・フォン・ベルンシュタインは、かつて将来を嘱望された近衛騎士だった。
家柄は良く、剣の腕も悪くない。
見た目も整っていて、若い頃は社交界でもそれなりに人気があった。
問題は、その性格である。
アルヴィンは自分より立場の低い人間を見下す癖があり、部下の功績を自分のものにし、失敗は他人に押しつけることがあった。
エレノアがその実態を知ったのは、結婚してからだ。
家では多少横柄でも、騎士団では立派に働いているのだろう。
そう信じていた。
ところが半年前、夫は近衛騎士団の第一部隊から、王宮の備品管理室へ異動になった。
備品管理室。
王宮内で使用する儀礼用の武具や旗、式典の装飾品などを管理する部署である。
もちろん必要な仕事だ。
しかし、将来の騎士団長を目指していたアルヴィンにとっては、屈辱的な左遷だった。
「私ほどの男を、あんなところに!」
異動を告げられた日の夜、アルヴィンは酒杯を床に叩きつけた。
「新しい隊長は私を恐れているのだ! 私が優秀すぎるから!」
エレノアは黙って床に散らばった破片を見た。
「……お怪我はありませんか?」
「私の心配をするなら、そんなことより人脈を使え!」
「人脈、ですか?」
「君のギルドには王宮出入りの商人が大勢いるだろう。誰かに口を利いてもらえ!」
「人事について、商人が口を出せるとは思いませんけれど……」
「役に立たない女だ!」
そのとき、リリアが泣き出した。
大きな音に驚いたのだ。
「うるさい!」
アルヴィンが怒鳴った。
「子供を静かにさせろ!」
エレノアは娘を抱き上げ、急いで部屋を出た。
それからしばらく、屋敷の空気はひどく重かった。
アルヴィンは毎日のように不機嫌で、仕事に行くのを嫌がり、帰宅すれば誰かの悪口を言った。
娘が近づいても、ほとんど相手にしない。
むしろ、
「お父様、おあそび」
「今は忙しい!」
と追い払うことの方が多かった。
そんな夫が変わったのは、ある茶会がきっかけだった。
◇
ある休日。
アルヴィンは渋々、エレノアと娘に付き添って、親戚の茶会に出席した。
その席で、リリアが転んでしまった。
「ふえ……」
小さな膝を擦りむいて、娘の目に涙が浮かぶ。
ちょうど近くにいたアルヴィンが、仕方なさそうに抱き上げた。
「ほら、泣くな」
それだけだった。
本当に、それだけだったのだ。
ところが。
「まあ!」
近くにいた侯爵夫人が、感激したように声を上げた。
「アルヴィン様、なんてお優しいお父様なの!」
「え?」
「最近の殿方は、お子様の世話を乳母任せにする方が多いでしょう? ご自分で抱き上げて慰めていらっしゃるなんて!」
別の夫人も頷いた。
「本当に。奥様もお幸せですわね」
アルヴィンは目を瞬かせた。
そして、少し背筋を伸ばした。
「……いや、当然のことですよ」
「まあ、素晴らしい!」
「父親とは、子供を守るものですから」
夫人たちが口々に褒めた。
その日、アルヴィンは久しぶりに上機嫌で帰宅した。
「エレノア」
「はい?」
「今日、侯爵夫人がおっしゃっていたことを聞いたか?」
「ええ」
「私ほど娘思いの父親は珍しいそうだ」
「……そうですね」
「やはり、見る目のある人間にはわかるものだな」
それからだった。
アルヴィンが積極的に娘を連れ歩くようになったのは。
茶会。
慈善行事。
貴族の集まり。
王宮の庭園公開。
子供連れの参加が歓迎される催しには、必ずと言っていいほど顔を出した。
そして、そのたびに娘を抱き上げる。
人前では優しく笑い、髪を撫で、頬に口づける。
「私にとって、娘以上に大切なものはありません」
そう言えば、貴婦人たちは感心した。
騎士団で失った名声が、別の形で戻ってくる。
アルヴィンはすっかり、その喜びに夢中になった。
◇
「おかあさま」
ある夜、リリアがエレノアの膝に乗ってきた。
「どうしたの?」
「おとうさま、リリアがないたら、おこるの」
エレノアは娘の髪を撫でる手を止めた。
「……そうなの?」
「うん」
「どうして泣いたの?」
「おかあさま、いなかった」
娘は小さな指で、エレノアの袖を握った。
「おかあさまに、あいたかったの」
「……そう」
「そしたら、おとうさま、こわいおかおした」
エレノアの胸が痛んだ。
「リリア。お母様はここにいるわよ」
「うん」
「怖かったら、ちゃんと言っていいのよ」
「……うん」
娘を抱きしめる。
リリアはしばらく母親にしがみついていたが、やがて小さな声で言った。
「おかあさま」
「なあに?」
「リリア、ばらのおはな、もういい」
エレノアは何も言えなかった。
薔薇園。
アルヴィンが娘を連れていくと、いつも貴婦人たちに褒められる場所だった。
◇
第二話 娘の熱より大切なもの
その日の朝、リリアは少し熱っぽかった。
「……三十八度二分」
エレノアは魔導体温計を見て、眉を寄せた。
幼児にとって、決して珍しい熱ではない。
だが、昨夜から食欲が落ちている。
咳も少し出ていた。
「今日はお家でゆっくりしましょうね」
「うん……」
いつもなら元気に返事をする娘が、ぐったりと枕に頬をつけている。
エレノアは世話係のセシリアを呼んだ。
「今日は外出させないで。水分を少しずつ飲ませて、熱が上がったらすぐ医師を呼んでちょうだい」
「はい、奥様」
「私も仕事を早めに切り上げるわ」
そのとき、扉が開いた。
「何をしている?」
アルヴィンだった。
今日は珍しく朝から礼装を着ている。
銀糸の刺繍が施された紺色の上着に、磨き上げられた革靴。
髪にも念入りに香油をつけていた。
「リリアが熱を出したんです」
「熱?」
「ええ。三十八度を超えています」
アルヴィンは娘を見た。
そして、顔をしかめた。
「……今日に限ってか」
「今日?」
「王妃殿下主催の慈善式典だ。以前から招待されていただろう」
「ええ。でも、リリアは行けませんわ」
「何を言っている?」
夫は心底驚いたようだった。
「今日の式典には、王妃殿下だけでなく、各家の当主や夫人たちも大勢集まるのだぞ」
「そうですね」
「私が娘と一緒に出席すれば、どれほど印象が良いか!」
「……」
「先日も、ラングレー侯爵夫人に言われたのだ。あなたのような父親が王国中に増えれば、どれほど素晴らしいでしょう、と」
アルヴィンは嬉しそうに笑った。
「近頃は、騎士としての武勲だけが男の価値ではないらしい」
エレノアは娘の布団を直した。
「ですから、今日は欠席なさってください」
「は?」
「リリアは病気です。子供の体調を優先することこそ、良い父親の務めではありませんか?」
アルヴィンの表情が変わった。
「……君は、私に説教するつもりか?」
「説教ではありません」
「私がどれほど娘を大切にしているか、君にはわからないのだろうな」
「でしたら、今日は休ませてください」
「君はいつもそうだ!」
夫が声を荒らげた。
リリアの肩がびくりと跳ねた。
エレノアは夫を睨んだ。
「声を落としてください。娘が怖がります」
「私を悪者にするな!」
「……アルヴィン様」
「もういい!」
アルヴィンは扉に向かった。
「私が判断する。父親としてな!」
乱暴に扉が閉まった。
エレノアは長く息を吐いた。
それから娘を抱き上げた。
「大丈夫よ、リリア」
「おかあさま……」
「今日はどこにも行かなくていいからね」
娘は安心したように頷いた。
エレノアはそのまま、しばらく娘の背中を撫でていた。
◇
午前十時。
エレノアは商業ギルドの執務室で、山積みになった帳簿と格闘していた。
彼女は王都商業ギルドの会計監査部門で働いている。
実家が商家だったこともあり、数字には強かった。
結婚当初、アルヴィンは妻が働き続けることを嫌がった。
「伯爵夫人が働くなど、みっともない」
そう言われた。
しかし、ベルンシュタイン伯爵家の財政は、見た目ほど豊かではなかった。
先代から引き継いだ借財があり、領地の収入も減っている。
アルヴィンはそのことをほとんど理解していなかった。
妻の仕事によって家計が支えられていることも。
だからエレノアは働き続けた。
娘に不自由な思いをさせたくなかったからだ。
「エレノアさん」
同僚のマリアンヌが声をかけてきた。
「今日はお嬢様、お熱なんでしょう?」
「ええ。帰ったらもう一度診てもらおうと思って」
「早退してもいいのよ?」
「ありがとうございます。でも、この報告書だけ終わらせてしまいたくて」
エレノアは書類を揃えた。
そのときだった。
小さな青い光が、机の上で弾けた。
魔法伝書だ。
セシリアからだった。
『奥様。申し訳ございません。旦那様がお嬢様を連れて、式典へ出発されました』
「……え?」
エレノアは椅子から立ち上がった。
続きがあった。
『お止めしたのですが、聞いていただけませんでした。お嬢様はお嫌がりになって……』
文字がそこで途切れていた。
エレノアはすぐに夫へ伝書を送った。
『リリアを今すぐ帰してください。熱があるのです』
返事はすぐに来た。
『大げさだ。少し熱があるくらいで騒ぐな』
エレノアの指が震えた。
『三歳の子供です。無理をさせないでください』
『君は過保護すぎる。外の空気を吸えば元気になる』
エレノアは目を閉じた。
怒鳴りたい。
今すぐ夫を捕まえて、何を考えているのか問い詰めたい。
しかし、その前に娘だ。
「マリアンヌ」
「どうしたの?」
「ごめんなさい。急ぎで外出するわ」
エレノアは上着を掴んだ。
「娘が、夫に連れ出されたの」
マリアンヌの顔色が変わった。
「えっ? 熱があるんでしょう?」
「そうよ」
「……信じられない」
「私もよ」
エレノアは苦笑した。
「本当に、信じられないわ」
◇
王妃主催の慈善式典は、王宮の大広間で開かれていた。
孤児院や施療院への寄付を募る、年に一度の催しである。
その年は、親子での参加が奨励されていた。
アルヴィンにとって、これ以上ない舞台だった。
「まあ、ベルンシュタイン伯爵!」
「ラングレー侯爵夫人。ご機嫌麗しゅう」
「今日もお嬢様とご一緒ですのね」
「ええ。娘がどうしても私と来たいと言うものですから」
アルヴィンは微笑んだ。
腕の中のリリアは、真っ白なドレスを着せられていた。
髪には大きな薔薇の飾り。
いつもよりずっと華やかだった。
しかし、その顔は青白い。
「まあ……お嬢様、少しお疲れでは?」
「ははは。朝から張り切っておりましてね」
「そうでしたの」
「リリア。ご挨拶しなさい」
アルヴィンは娘を床に下ろした。
リリアはふらりと身体を揺らした。
「……こんにちは」
「まあ、可愛らしい!」
侯爵夫人が微笑む。
アルヴィンは満足そうだった。
「どうです? 私の教育の成果ですよ」
「本当に立派なお嬢様ですこと」
「子供というものは、父親がきちんと導いてやれば、自然と良い子に育つものです」
リリアが父親の上着を引っ張った。
「……おとうさま」
「何だ?」
「ねむい」
「まだ始まったばかりだろう」
「……おうち、かえりたい」
アルヴィンの笑顔が固まった。
近くにいた夫人が気遣わしげに言った。
「あら、お疲れなら休憩室へ……」
「いえ、大丈夫です」
アルヴィンは娘の肩を抱いた。
「リリア。わがままを言ってはいけないよ」
優しい声だった。
しかし、その手には力がこもっていた。
「……でも」
「お父様を困らせるのかい?」
リリアは唇を噛んだ。
「……ごめんなさい」
「よし。良い子だ」
アルヴィンは満足そうに頷いた。
それから娘を抱き上げ、別の貴族へ挨拶に向かった。
式典が始まって、一時間ほど経った頃。
リリアは突然、父親の腕の中で吐いた。
「……っ!」
アルヴィンの礼装に、汚れが広がる。
周囲がざわめいた。
「まあ!」
「お嬢様、大丈夫ですか!」
アルヴィンは硬直した。
高価な礼装。
今日のために新調した上着。
銀糸の刺繍に、汚れが染み込んでいる。
「……何をしている!」
思わず怒鳴った。
リリアがびくりと震えた。
「ご、ごめ……」
「こんな場所で!」
その瞬間。
娘の身体から力が抜けた。
「……リリア?」
アルヴィンは腕の中を見た。
娘は目を閉じていた。
「リリア?」
返事がない。
近くの夫人が悲鳴を上げた。
「誰か! 医師を!」
式典会場は、一瞬にして騒然となった。
◇
エレノアが王宮へ到着したのは、それから二十分後だった。
娘が倒れたという知らせを受けたとき、心臓が止まるかと思った。
王宮の医務室へ向かう途中、魔法伝書が届いた。
夫からだった。
『お前のせいで、とんでもない恥をかいた』
エレノアは足を止めた。
『娘が式典の途中で吐いて、私の礼装を汚した。しかも大勢の前で倒れたのだぞ』
文字が続く。
『日頃から母親としてきちんと健康管理をしていないから、こういうことになる』
エレノアは黙って読んだ。
『王妃殿下にもご迷惑をおかけした。すぐに来て、皆の前で謝罪しろ』
最後に、一文。
『私がどれほど娘を大切にしているか、世間に誤解されては困る』
エレノアは伝書を閉じた。
しばらく、その場に立ち尽くした。
悲しかった。
怒りよりも先に、情けなさが込み上げてきた。
どうして、こんな男と結婚したのだろう。
娘が倒れたというのに。
心配しているのは、自分の評判なのか。
エレノアは目元を拭った。
今は泣いている場合ではない。
娘が待っている。
彼女は再び歩き出した。
◇
第三話 母親失格と言われましても
「リリア!」
医務室の扉を開けると、白い寝台に娘が横たわっていた。
小さな顔は赤く、呼吸が少し荒い。
「お母様……」
かすかな声がした。
エレノアは寝台へ駆け寄った。
「リリア……!」
「おかあさま……」
「ごめんね。遅くなってごめんね」
娘の手を握る。
熱かった。
こんなに熱い身体で、あの広い王宮を歩かされていたのか。
「おかあさま、リリア……」
「うん」
「おとうさまの、おようふく……」
リリアの目に涙が浮かんだ。
「よごしちゃった……」
エレノアは息を呑んだ。
娘が心配しているのは、自分の身体ではなかった。
「いいのよ」
「でも……おとうさま、おこった……」
「いいの」
エレノアは娘の手を両手で包んだ。
「お洋服なんて、どうでもいいの。リリアが無事なら、それでいいのよ」
「……ほんと?」
「本当よ」
娘は安心したように目を閉じた。
そこへ、白衣を着た年配の医師が近づいてきた。
「お母様ですね」
「はい。娘は……」
「かなり高い熱が出ています。脱水も進んでいました。今は治療魔法と薬で落ち着いていますが、数日は安静が必要です」
「……ありがとうございます」
「もう少し遅ければ、危険な状態になっていた可能性もあります」
エレノアの背筋が冷えた。
「……そう、ですか」
医師は厳しい顔をした。
「今朝から熱があったと伺っていますが」
「はい」
「なぜ、外出を?」
「……夫が」
エレノアは唇を噛んだ。
「私が止めたのですが、夫が連れ出してしまったのです」
医師は眉をひそめた。
「そうでしたか」
「娘は……本当に、大丈夫でしょうか」
「今は容体が安定しています。しっかり休ませてあげてください」
エレノアは何度も頭を下げた。
そのときだった。
「エレノア!」
勢いよく扉が開いた。
アルヴィンだった。
「ようやく来たか!」
エレノアは振り返った。
夫は上着を着替えていた。
どうやら王宮で予備の礼装を借りたらしい。
「アルヴィン様」
「まったく、君はどこまで私に恥をかかせれば気が済むんだ!」
医務室に大きな声が響いた。
リリアの肩がびくりと動いた。
エレノアは立ち上がった。
「声を落としてください」
「何?」
「娘が寝ています」
「そんなことより!」
アルヴィンは妻に詰め寄った。
「王妃殿下がお見えになるそうだ」
「……王妃殿下が?」
「そうだ。私の娘が式典で倒れたことを、たいそう気にされているらしい」
アルヴィンは焦ったように髪を撫でつけた。
「だから君には、きちんと説明してもらわねば困る」
「説明?」
「娘の健康管理を怠ったことについてだ」
エレノアは夫を見た。
何を言われているのか、一瞬わからなかった。
「……私が、ですか?」
「当然だろう」
「今朝、私はリリアに熱があるから外出させないよう、お願いしましたわね」
「その程度で休ませていたら、子供は弱くなる」
「三十八度を超えていたんです」
「だから何だ!」
アルヴィンは苛立たしげに言った。
「君が普段から娘を甘やかしすぎなのだ。少し具合が悪いくらいで大げさに騒ぐから、あの子もすぐに弱音を吐く!」
寝台から、小さな声がした。
「……ごめんなさい」
エレノアは振り返った。
リリアが目を開けていた。
「リリア……」
「リリア、よわいこで……ごめんなさい……」
その瞬間。
エレノアの中で、何かが切れた。
「……アルヴィン様」
自分でも驚くほど、静かな声だった。
「何だ」
「もう、結構です」
「……は?」
「あなたのお話は、十分に伺いました」
エレノアは娘の布団を直した。
それから、ゆっくりと夫に向き直った。
「私たち、離婚しましょう」
アルヴィンは口を開けた。
「…………何?」
「離婚です」
「……は?」
「聞こえませんでしたか?」
エレノアは微笑んだ。
「私は、あなたと離婚いたします」
アルヴィンは数秒間、固まっていた。
そして。
「馬鹿なことを言うな!」
怒鳴った。
「こんなときに、何を考えている!」
「娘のことを考えています」
「離婚など認めん!」
「そうですか」
エレノアは頷いた。
「でしたら、法廷でお話しいたしましょう」
「……法廷?」
「ええ」
彼女は夫をまっすぐに見た。
「あなたがどれほど素晴らしい父親なのか、裁判官にも聞いていただきましょう」
アルヴィンの顔が引きつった。
◇
「離婚ですって?」
その声が響いたのは、医務室の扉の向こうからだった。
エレノアは驚いて振り返った。
そこには、深い青色のドレスをまとった女性が立っていた。
王妃クラリッサである。
「で、殿下!」
アルヴィンは慌てて膝をついた。
エレノアも礼を取ろうとしたが、王妃は片手を上げて制した。
「お子様の側にいてあげなさい」
「……ありがとうございます」
王妃はゆっくりと寝台へ近づいた。
「リリアちゃん。具合はいかが?」
「……こんにちは」
リリアが小さく頭を下げようとした。
「いいのよ。寝ていてちょうだい」
王妃は優しく微笑んだ。
「今日は大変だったわね」
その声を聞いた途端、リリアの目から涙がこぼれた。
「……ごめんなさい」
「どうして謝るの?」
「リリア……おようふく、よごして……」
王妃の表情が変わった。
「……お洋服?」
「おとうさまの……」
アルヴィンが慌てて口を挟んだ。
「いや、殿下! 娘は少々、気が弱いところがありまして!」
王妃は振り返った。
「ベルンシュタイン伯爵」
「はっ!」
「私は、あなたに尋ねておりません」
静かな声だった。
それだけで、アルヴィンは黙った。
王妃は再びリリアへ向き直った。
「大丈夫。お洋服は洗えば綺麗になるわ」
「……ほんと?」
「ええ。それに、もし綺麗にならなくても、新しいものを作ればいいのよ」
「……」
「でも、リリアちゃんは一人しかいないでしょう?」
リリアは小さく頷いた。
王妃はその頭をそっと撫でた。
「だから、元気になることだけ考えてちょうだい」
リリアは目を閉じた。
その小さな手は、母親の指をしっかり握っていた。
◇
王妃が夫婦に話を求めたのは、それからしばらくしてからだった。
医務室の隣にある小さな応接間。
エレノアは娘が眠ったことを確認してから、そちらへ移った。
「さて」
王妃は椅子に腰掛けた。
「まず、確認したいことがあります」
「はい!」
アルヴィンが勢いよく答えた。
「本日は私の娘がご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません!」
「……」
「妻の健康管理が行き届かず、このような事態に……」
「ベルンシュタイン伯爵」
王妃が遮った。
「私は、あなたのお嬢様が倒れたことを迷惑だとは思っておりません」
「は……」
「むしろ、あれほど具合の悪い子供を連れてきたことに、たいへん驚いています」
アルヴィンの顔が強張った。
「い、いえ、それは……」
「お嬢様は、式典が始まる前から具合が悪そうでしたね」
「……」
「私の侍女が、休憩室を使うよう勧めたそうですが」
「それは、その……」
「あなたは断ったそうですね」
アルヴィンは口をつぐんだ。
王妃は続けた。
「さらに、お嬢様が吐いたとき、あなたは怒鳴った」
「そ、それは!」
「大勢の前で、娘を叱りつけたと聞いています」
アルヴィンの額に汗が浮かんだ。
「誤解です!」
「誤解?」
「私は娘を心配して……!」
「心配していた?」
王妃は首を傾げた。
「それなら、なぜ最初に医師を呼ばなかったのです?」
「……」
「なぜ、汚れた礼装を気にされたのです?」
「……それは」
「なぜ、倒れた娘を抱き上げるより先に、周囲の人々へ弁解なさったのです?」
アルヴィンは青ざめた。
エレノアも驚いた。
王妃は、そこまで見ていたのか。
「私はね、ベルンシュタイン伯爵」
王妃は静かに言った。
「あなたが素晴らしい父親だという噂を、何度も耳にしていました」
アルヴィンが顔を上げた。
「は、はい!」
「ですから、今日お会いするのを楽しみにしていたのです」
「……ありがたき幸せにございます!」
「けれど」
王妃の声が冷えた。
「今日拝見したのは、娘の苦しみよりも、自分の評判を気にする父親でした」
アルヴィンの顔から血の気が引いた。
「で、殿下……」
「私は、見ていたのですよ」
王妃は真っ直ぐに夫を見た。
「あなたのお嬢様が、何度も帰りたいと訴えていたことを」
沈黙が落ちた。
エレノアは膝の上で手を握りしめた。
「……殿下」
「何でしょう、伯爵夫人」
「一つ、お願いがございます」
「申してみなさい」
エレノアは深く頭を下げた。
「私と娘が、この人から離れるための手続きを進めることを、お許しください」
アルヴィンが椅子から立ち上がった。
「エレノア!」
「私はもう、娘を危険な目に遭わせたくありません」
「黙れ!」
「黙りません」
エレノアは初めて、夫の言葉を正面から遮った。
「今まで、あなたが何を言っても、私は我慢してきました」
「……」
「仕事で嫌なことがあった日も、私を罵ることで気が済むのならと思っていました」
言葉が止まらなかった。
「私の仕事を見下されても、家族のためだからと働き続けました」
「エレノア、やめろ!」
「でも」
エレノアは夫を見た。
「娘を傷つけることだけは、許せません」
アルヴィンの顔が歪んだ。
「私が娘を傷つけただと?」
「ええ」
「私は誰よりも娘を愛している!」
「そうですか」
「そうだ!」
アルヴィンは胸を張った。
「私は毎日のように娘を連れて出かけ、貴族たちにも紹介し、立派な教育を施してきた!」
エレノアは静かに尋ねた。
「アルヴィン様」
「何だ!」
「リリアの好きな食べ物は、何ですか?」
夫は固まった。
「……は?」
「娘の好きな食べ物です」
「そんなこと……」
「嫌いな食べ物は?」
「……」
「夜、眠るときに抱いているぬいぐるみの名前は?」
「……エレノア」
「最近、リリアが一人でできるようになったことは?」
アルヴィンは何も答えなかった。
エレノアは微笑んだ。
「では、もう一つだけ」
「……」
「リリアが今、何を一番怖がっているか、ご存じですか?」
夫は黙っていた。
エレノアは答えた。
「あなたです」
アルヴィンが目を見開いた。
「……何?」
「娘は、あなたを怖がっています」
「馬鹿な!」
「あなたに怒鳴られるのが怖くて、具合が悪くても言えないんです」
「そんなはずがない!」
「娘は今も、自分が倒れたことを謝っています」
エレノアの声が震えた。
「三歳の子供が、熱で苦しいときに、自分が悪いと思っているんです」
王妃は何も言わなかった。
ただ、静かに話を聞いていた。
アルヴィンは口を開いたり閉じたりした。
やがて、吐き捨てるように言った。
「……君がそう教え込んだのだろう」
エレノアは目を閉じた。
ああ。
もう、本当に。
この人は駄目なのだ。
◇
第四話 理想の父親の正体
王妃の取り計らいにより、エレノアとリリアはその夜、王宮の客室で休ませてもらえることになった。
アルヴィンは帰宅を命じられた。
ただし、王妃から一つだけ条件をつけられた。
「明日、正式に事情を伺います。それまで、お嬢様に接触することは控えなさい」
アルヴィンは不服そうだったが、逆らえなかった。
王妃の前では、いつものように妻を怒鳴りつけることもできない。
「……わかりました」
そう答えるのが精一杯だった。
◇
翌朝。
エレノアは王宮の一室で、商業ギルドの上司と向かい合っていた。
「……事情はわかった」
白髪交じりの男性が、深いため息をついた。
王都商業ギルド監査部門の責任者、グレイである。
「まったく、君の旦那は……」
「申し訳ありません」
「君が謝ることではない」
グレイは机に書類を置いた。
「それより、こちらの件だ」
「……?」
「君が先月、提出した調査報告書だよ」
エレノアは目を瞬かせた。
それは、ベルンシュタイン伯爵家の家計についてまとめたものだった。
「……はい」
「君が離婚を考えているなら、役に立つかもしれん」
エレノアは書類に目を落とした。
結婚してから六年間。
彼女は家計簿をつけ続けていた。
夫がどれだけ浪費しても、家を維持するために必死で帳尻を合わせてきた。
最近は、特にひどかった。
茶会用の新しい礼装。
娘のドレス。
高級菓子。
貴婦人たちへの贈り物。
慈善行事への寄付金。
アルヴィンは、理想の父親として振る舞うために、次々と金を使っていた。
「……この半年で、これだけ?」
改めて計算すると、エレノア自身も驚く額だった。
グレイが頷いた。
「君の給与の大半が、そちらに流れているな」
「……ええ」
「しかも、伯爵家の領地収入はほとんど増えていない」
エレノアは黙った。
「君は今まで、よく支えてきたよ」
「……」
「だが、もう限界ではないか?」
その言葉に、エレノアは顔を上げた。
グレイは続けた。
「君は優秀な監査官だ。仕事に困ることはない」
「……はい」
「王都で暮らすなら、住居の相談にも乗ろう。君の実家にも連絡した方がいい」
エレノアは唇を噛んだ。
「……ありがとうございます」
「娘さんを大切にな」
その一言で、涙がこぼれそうになった。
◇
アルヴィンが事態の深刻さを理解したのは、その日の午後だった。
「……何だと?」
伯爵家の執務室で、彼は家令から渡された書類を見つめていた。
「奥様からの通知でございます」
「……別居?」
「はい」
「勝手なことを!」
アルヴィンは書類を机に叩きつけた。
「妻が夫の許可なく家を出るなど、許されると思っているのか!」
家令は静かに答えた。
「王妃殿下のご許可をいただいております」
「……王妃殿下?」
「はい」
アルヴィンは言葉を失った。
家令は続けた。
「また、今後の生活費について、奥様からご説明がございます」
「生活費?」
「奥様の個人収入から支払われていた費用を、今後は伯爵家の会計に戻すとのことです」
「……どういう意味だ?」
「奥様の給与は、今後、奥様とお嬢様の生活のために使われます」
アルヴィンは鼻で笑った。
「好きにすればいい。私には伯爵家の収入がある」
「……はい」
家令は少し間を置いた。
「ただし、旦那様」
「何だ」
「現状の領地収入では、今まで通りの生活を維持することは困難です」
「……は?」
「すでに、仕立屋への支払いが三件滞っております」
「何?」
「宝飾品店への未払いもございます」
「……」
「さらに、来月の舞踏会に向けてご注文なさった礼装についても……」
「もういい!」
アルヴィンは怒鳴った。
家令は口を閉じた。
「金など、どうにでもなる!」
「……かしこまりました」
「エレノアが払わないなら、別の方法を考えるまでだ!」
アルヴィンは苛立たしげに椅子へ腰を下ろした。
そして、ふと思いついた。
「……そうだ」
家令が顔を上げる。
「娘だ」
「……はい?」
「娘を連れ戻せばいい」
アルヴィンは笑った。
「エレノアは娘に甘い。あれをこちらへ戻せば、必ず帰ってくる」
家令の表情が固まった。
「旦那様……」
「それに、娘を連れた私の姿を見れば、世間も味方してくれるはずだ」
アルヴィンは立ち上がった。
「私は理想の父親なのだからな!」
◇
三日後。
王都の貴族たちの間で、一つの噂が広まっていた。
ベルンシュタイン伯爵夫妻が離婚するらしい。
しかも、原因は伯爵の育児放棄だという。
「馬鹿な!」
アルヴィンは怒り狂った。
「育児放棄だと? 私ほど娘のために尽くした父親が、ほかにいるものか!」
彼はすぐに反撃を始めた。
まず、親しい貴族たちへ手紙を送った。
『妻は仕事に夢中で、家庭を顧みませんでした』
『私は父親として、寂しい思いをする娘を支えてきました』
『それなのに妻は、私から娘を奪おうとしているのです』
手紙には、娘と一緒に参加した茶会や慈善行事の記録も添えた。
アルヴィンは勝利を確信していた。
これほど熱心に育児に関わった証拠があるのだ。
誰もが自分を支持するだろう。
実際、何人かの夫人から同情の返事が届いた。
『なんてお気の毒なのでしょう』
『伯爵様ほどお優しい父親はいらっしゃいませんのに』
アルヴィンは満足した。
やはり、世間は正しい。
自分の価値を理解している。
しかし。
その日の夕方、別の手紙が届いた。
差出人は、ラングレー侯爵夫人だった。
『伯爵様。先日の式典について、王妃殿下からお話を伺いました』
アルヴィンは眉をひそめた。
『私は長い間、あなたを理想の父親だと信じておりました』
そこまでは良かった。
しかし、続きは違った。
『けれど、熱のある幼子を連れ回し、倒れた際にも礼装の汚れを気にされたと知り、たいへん残念に思っております』
アルヴィンの顔が強張った。
『しばらく、我が家の茶会へのご招待は控えさせていただきます』
「……何だと?」
アルヴィンは手紙を握りつぶした。
その直後、別の家からも手紙が届いた。
さらに、もう一通。
また一通。
すべて同じような内容だった。
これまで彼を褒め称えていた貴婦人たちが、次々と距離を置き始めたのである。
アルヴィンは愕然とした。
「……なぜだ」
彼は呟いた。
「私は、何も悪いことをしていないのに……!」
◇
第五話 あなたが愛していたもの
離婚の審理は、王都の家事法廷で行われることになった。
エレノアは、必要な資料をすべて揃えた。
家計簿。
娘の医療記録。
使用人たちの証言。
夫との魔法伝書の記録。
そして、王妃主催の式典で起きた出来事についての報告書。
アルヴィンは最初、それらを見て笑った。
「こんなものが何の役に立つ?」
彼は代理人に言った。
「妻は感情的になっているだけだ。少し脅せば、すぐに謝ってくる」
しかし、代理人は笑わなかった。
「……伯爵様」
「何だ」
「こちらの資料は、かなり不利です」
「不利?」
「特に、お嬢様の医療記録と、王宮医師の証言が……」
「馬鹿を言うな!」
アルヴィンは机を叩いた。
「私は父親だぞ!」
代理人は深いため息をついた。
「……それが問題なのです」
◇
審理の日。
エレノアは淡い青色のドレスで法廷へ向かった。
華美な装飾はない。
仕事へ行くときと同じように、髪をきちんとまとめていた。
アルヴィンは豪華な礼装を着て現れた。
以前のように堂々とした態度だった。
「エレノア」
彼は妻に近づいた。
「今なら、まだ許してやってもいい」
エレノアは顔を上げた。
「……何をですか?」
「離婚などという馬鹿げた騒ぎを起こしたことだ」
「そうですか」
「君が私に謝罪し、娘を連れて屋敷に戻るなら、今回のことは水に流してやろう」
エレノアは少し考えた。
そして尋ねた。
「リリアが熱を出した日に、あなたは何を間違えたと思いますか?」
アルヴィンは顔をしかめた。
「またその話か」
「ええ」
「私は何も間違えていない」
即答だった。
「君がもっとしっかり健康管理をしていれば、娘は倒れなかった」
エレノアは頷いた。
「……わかりました」
「ようやく理解したか」
「はい」
彼女は微笑んだ。
「やはり、離婚して正解でした」
アルヴィンの表情が凍りついた。
◇
審理では、次々と証拠が示された。
まず、娘の医療記録。
高熱のある幼児を長時間連れ歩いたことで、症状が悪化した可能性が高いという王宮医師の所見だった。
次に、使用人たちの証言。
「旦那様は、お嬢様が泣かれると、しばしば大声で叱責なさいました」
「お嬢様のお食事や入浴、就寝の世話は、奥様と私どもが担当しておりました」
「茶会の準備も、すべて使用人が行っておりました」
アルヴィンは不満そうに鼻を鳴らした。
「使用人が働くのは当然だろう!」
審理官が顔を上げた。
「ベルンシュタイン伯爵。発言は許可を得てからお願いします」
「……失礼」
続いて、家計の資料が提出された。
ここで、アルヴィンは初めて青ざめた。
「……何だ、この金額は」
妻の給与から、六年間でどれほどの金銭が家計へ投入されていたか。
さらに、夫がこの半年間、社交活動のためにどれだけ浪費したか。
すべてが数字になっていた。
「……こんなはずはない!」
アルヴィンは叫んだ。
「私の家だぞ! 伯爵家の金だ!」
エレノアは静かに答えた。
「ええ。伯爵家の収入もございました」
「ならば!」
「ですが、あなたの支出は、その収入を大きく上回っていました」
「……」
「不足分を、私の給与で補っていたのです」
アルヴィンは何も言えなかった。
「あなたが新しい礼装を注文したときも」
「……」
「茶会のために高価な菓子を買い込んだときも」
「……」
「娘に、着る機会もないほどたくさんのドレスを買ったときも」
エレノアは続けた。
「支払っていたのは、私でした」
法廷が静まり返った。
アルヴィンの顔が赤くなった。
「……だ、だから何だ!」
彼は叫んだ。
「妻が夫を支えるのは当然だろう!」
エレノアは頷いた。
「ええ。私も、そう思っていました」
「ならば!」
「だからこそ、ずっと支えてきたのです」
彼女は少しだけ笑った。
「でも、もうやめます」
◇
最後に提出されたのは、魔法伝書の記録だった。
『お前のせいで、とんでもない恥をかいた』
『娘が式典の途中で吐いて、私の礼装を汚した』
『私がどれほど娘を大切にしているか、世間に誤解されては困る』
審理官が一通ずつ確認する。
アルヴィンは俯いた。
「……これは」
彼は苦し紛れに言った。
「妻に送った、私的な言葉です」
「そのようですね」
「夫婦の会話を、こんな場所で公開するなど……!」
審理官は冷静に答えた。
「お嬢様が倒れた直後の、あなたのお考えを示す重要な資料です」
アルヴィンは唇を噛んだ。
「……私は」
彼は顔を上げた。
「私は、ただ……」
言葉が続かなかった。
傍聴席には、何人かの貴族がいた。
かつて茶会で彼を称賛した人々もいる。
アルヴィンは、その顔を見た。
誰も微笑んでいなかった。
誰も感心していなかった。
彼は急に、ひどく心細くなった。
「……私は、娘を愛しているんです」
声が震えた。
「本当です」
エレノアは夫を見た。
「……そうですか」
「そうだ!」
アルヴィンは必死だった。
「私は娘のために、何度も茶会へ行った! 式典にも連れていった! 誰よりも娘を誇りに思っていた!」
「アルヴィン様」
エレノアは静かに尋ねた。
「娘は、茶会に行きたがっていましたか?」
夫は黙った。
「リリアは、あなたと一緒にいるとき、楽しそうでしたか?」
「……」
「熱がある日に、出かけたいと言いましたか?」
「……」
「あなたは一度でも、娘に何がしたいか尋ねましたか?」
アルヴィンは答えられなかった。
エレノアは続けた。
「私は、あなたが娘を愛していないとは言いません」
夫が顔を上げた。
「ただ」
彼女は言った。
「あなたは、娘に愛されている立派な父親として、褒められることが好きだったのでしょう」
アルヴィンの顔が歪んだ。
「……違う」
「そうでしょうか」
「違う!」
「では、どうして」
エレノアは夫を見つめた。
「誰も見ていない屋敷の中では、娘に優しくしてあげなかったのですか?」
アルヴィンは何も言えなかった。
◇
法廷の判断が下されたのは、それからしばらく後だった。
離婚は認められた。
リリアの養育については、エレノアが主たる保護者となることが決まった。
アルヴィンには、娘の生活を支えるための費用を負担する義務が課された。
また、当面の間、娘との面会には第三者の立ち会いが必要とされた。
判決を聞いたアルヴィンは、しばらく動かなかった。
「……そんな」
ようやく、声が出た。
「……そんな馬鹿な」
彼はエレノアを見た。
「……君は」
怒鳴ろうとした。
しかし、言葉が出なかった。
傍聴席には、人がいる。
かつて彼を褒め称えた貴族たちが。
今は、冷たい目でこちらを見ている。
アルヴィンは唇を震わせた。
「……私は」
誰も何も言わなかった。
「……私は、理想の父親だったはずなのに……」
エレノアは答えなかった。
もう、彼に説明してあげる必要はないと思ったからだ。
◇
最終話 お母様、今日はどこに行くの?
それから三ヶ月が過ぎた。
エレノアとリリアは、王都の南区にある小さな屋敷で暮らしていた。
伯爵家の本邸に比べれば、ずっと小さい。
使用人も、セシリア一人だけになった。
けれど、エレノアは今の暮らしが気に入っていた。
朝、娘と一緒に食事をする。
仕事へ行く前に、娘の髪を結う。
帰宅したら、その日にあったことを聞く。
たったそれだけのことが、驚くほど楽しかった。
「おかあさま!」
ある休日の朝。
リリアが元気よく駆け寄ってきた。
「おはよう、リリア」
「おはよう!」
娘は満面の笑みだった。
最近は、夜中に泣いて起きることも減った。
以前のように、誰かの顔色を窺うことも少なくなった。
「おかあさま」
「なあに?」
「きょう、どこいく?」
エレノアは笑った。
「今日はお休みだから、どこへでも行けるわよ」
「ほんと?」
「ええ」
「じゃあ……」
リリアは一生懸命考えた。
そして、小さな声で言った。
「……おうちに、いたい」
エレノアは目を瞬かせた。
「お家?」
「うん」
「お出かけしなくていいの?」
「うん!」
リリアは嬉しそうに頷いた。
「おかあさまと、あそぶ!」
エレノアは娘を抱き上げた。
「そう。じゃあ、今日は何をしましょうか」
「おままごと!」
「いいわね」
「それから、おえかき!」
「ええ」
「それからね……」
娘は指を折って数え始めた。
「おひるね!」
エレノアは思わず笑った。
「まあ。お昼寝まで予定に入っているの?」
「うん!」
「それは忙しい一日になりそうね」
「いそがしい!」
リリアも笑った。
エレノアは娘をぎゅっと抱きしめた。
誰かに褒められる必要なんてない。
誰かに立派だと言われる必要もない。
この小さな子が、安心して笑っていられるなら。
それだけで、十分だった。
◇
一方、アルヴィンの生活は大きく変わっていた。
王宮の備品管理室では、彼の評判がさらに悪くなっていた。
王妃主催の式典で起きた騒動は、すでに王宮中に知れ渡っていた。
以前は、彼が娘の話をすると、周囲は感心したものだった。
しかし今では、誰もその話を聞きたがらない。
「……また、娘に会えなかった」
ある日、アルヴィンは同僚に愚痴をこぼした。
「面会の申し込みをしたのに、娘の体調が悪いと言われたのだ」
「そうですか」
「どうせエレノアの嫌がらせだ」
「……」
「娘は私を慕っていたのに」
同僚は困ったように笑った。
「そうでしょうか」
アルヴィンは顔を上げた。
「何?」
「いえ……」
同僚は少し迷ったあと、言った。
「以前、茶会でお嬢様をお見かけしましたが」
「……」
「あまり楽しそうには見えませんでしたよ」
アルヴィンは固まった。
「……何だと?」
「失礼しました」
同僚は仕事に戻っていった。
アルヴィンは一人、椅子に座っていた。
机の上には、儀礼用の剣の点検記録が積み上がっている。
昔は、こんな仕事など自分にふさわしくないと思っていた。
もっと大きな仕事を任されるべきだと。
誰かに認められるべきだと。
そして、娘と一緒にいることで、ようやくそれが叶ったと思ったのだ。
貴婦人たちに褒められた。
立派な父親だと言われた。
尊敬された。
それなのに。
「……私は、何を間違えたんだ」
アルヴィンは呟いた。
答える者はいなかった。
◇
その日の夕方。
エレノアのもとに、一通の手紙が届いた。
アルヴィンからだった。
『リリアは元気か』
珍しく、短い手紙だった。
『最近、娘が好きだったものを思い出そうとしている』
エレノアは少し驚いた。
『だが、よくわからない』
その続きに、ぎこちない文字が並んでいた。
『あの子は、何が好きだったんだろうか』
エレノアはしばらく手紙を見つめた。
そして、静かに封を閉じた。
今さら。
本当に、今さらだ。
けれど、初めて娘自身に関心を向けたのかもしれない。
エレノアは少し考えたあと、返事を書いた。
『リリアは苺が好きです。けれど、酸っぱいものは苦手なので、甘い苺を選んであげてください』
『最近は、お花の絵を描くことに夢中です』
『それから、怖い声が嫌いです。大きな声で叱らないであげてください』
そこまで書いて、筆を止めた。
最後に、一文を加えた。
『娘と向き合うつもりなら、まずは娘の気持ちを聞いてあげてください』
エレノアは手紙を封筒に入れた。
そして、窓の外を見た。
庭では、リリアがセシリアと一緒に花を摘んでいた。
「おかあさまー!」
娘が手を振った。
「みてー! おはな!」
「まあ、綺麗ね!」
「おかあさまに、あげる!」
エレノアは笑った。
「ありがとう!」
リリアは嬉しそうに駆け寄ってきた。
その小さな手には、黄色い花が一輪。
「おかあさま、だいすき!」
エレノアは娘を抱き上げた。
「私もよ」
頬に口づける。
「世界で一番、大好き」
娘が声を上げて笑った。
エレノアは思った。
もう二度と、この笑顔を誰かの見栄のために使わせたりしない。
誰かに立派な母親だと褒めてもらわなくてもいい。
仕事と育児を完璧にこなせなくたっていい。
疲れた日は、娘と一緒に寝てしまえばいい。
失敗したら、謝ればいい。
大切なのは、誰かにどう見られるかではなく、この子が何を感じているか。
そんな当たり前のことを、これからも忘れずにいたい。
「おかあさま!」
「なあに?」
「きょうのごはん、なあに?」
エレノアは少し考えた。
「そうねえ。リリアは何が食べたい?」
「……おにく!」
「あら、昨日もお肉だったわよ?」
「きょうも!」
「ふふっ。じゃあ、今日は特別ね」
「やったー!」
娘は両手を上げて喜んだ。
エレノアも笑った。
その笑顔を見て、セシリアがそっと目元を拭った。
小さな屋敷に、明るい笑い声が響いた。
もう、誰かの機嫌を窺う必要はない。
誰かの名誉のために、無理をする必要もない。
ここには、立派な父親も、完璧な母親もいない。
ただ、お互いを大切に思う母と娘がいるだけだった。
それで十分だった。
――おしまい。




