第2話 優先順位
ぼくっ……という鈍い音が泉の耳に届いたのは、ワーズの他意なきがゆえに残酷な感想にうなだれつつ階下まで辿り着いた時。
首を傾げるべきか、眉を顰めるべきか、本気で迷った。
「……シイ、ちゃん?」
「ぶべ……」
応えるような濁りは呼んだ名前の主から。
愛くるしい顔には現在、ボクサーグローブと思しき、赤い拳が埋まっている。
デニムのオーバーオールの下では、これを見舞った白衣が、押し倒された身を荒い呼吸で揺らしながら、己の無事を笑っていた。
「ま、全く、油断も隙もないネ。ちみっと傾眠した程度でコレとは」
「う、ううううううう……いいりゃないれふか、シュエのおいしゃん。死人は燃費がいいんれふから、ちょひっと血を吸わせてくらはいよぉ」
赤い拳からずり落ちても白衣に跨ったままの子どもは、顔を覆ってめそめそ泣きつつも牙を光らせる。
これを見た三白眼の、白衣以外小汚い男は、子どもの下で首をぶんぶん振った。
「じょ、冗談じゃないヨ。生きたまま啜られる方の身にもなるネ。第一、主に血を盗られてからまだ一ヶ月も経っておらん。燃費が良いというならまだまだ大丈夫なはずヨ!」
「おう? スエのおいちゃんのクセに気づいていましたか。シイ、一生の不覚です」
「……主」
ショックを受ける顔に涙の跡は見当たらず、嘘泣きだったらしい。
これに呆れ果てた面持ちのスエ・カンゲは、両脇に固定された小さな足首を掴むと、身を起こすついでに小さな身体を転がした。
「べっ!」
白衣から引っぺがされ、後頭部を思いっきり打ちつけた子どもは、蹲る暇もなく、ごろごろと後方へ二度回転して止まる。
「じゃ、泉嬢、朝飯はサンドイッチにしようか。すっごい高いのがいいな、ボク」
「え、あ、はい」
今のやり取りを完全に無視したワーズは、泉からの返事が為される前に店側へ降りていく。
タイミングがずれたことで、シイに駆け寄ったものかどうか迷ったなら、復活した子どもが泉に気づいた。
「あ、お姉ちゃん、お目覚めですね。おはようございます!」
「お、おはよう……ええと、大丈夫なの、シイちゃん」
「フン、平気ヨ。こやつの身体は娘御と違って死人の造り。心配するだけ無駄ネ」
どっこらせ、との掛け声で立ち上がった白衣は、子どもに押し倒された際、打ちつけたと思われる尻を擦り擦り、がりがり掻く。
いつぞや、ひと掻きで得体の知れない粉まがいを出していた身体からは何も出ず、咄嗟に身構えてしまった泉は小さく息を吐いた。
「スエさん……お久しぶりです。お腹でも空いたんですか?」
それでも少しばかり警戒してしまうのは、目の前の男の思いつきが切っ掛けで、幽鬼に追い回される一夜を味わったせいだろうか。あの後、シイから散々血を吸われたと聞いていたので、恨みどころか今では同情しているくらいだが、神経質そうな顔のスエは反して無神経な性格である。
なにせ芥屋の店主が人間好きなのを良いことに、二階隣の壁を打ち破っては飯をたかりに来たり、トラブルを持ってきたり――……。
「……ああっ! もしかして、あの時の笑い声ってスエさん?」
投擲から逃げる最中、泉の足を一時止めた不気味な笑い声。思い出しても薄気味悪いそれは、幽鬼から受けた怪我の療養中にも幾度か聞いていた。
「でもあの時ワーズさんいなかったのに。……よく無事でしたね?」
彼の笑い声は泉のみならず、住人にも不評で、それゆえ笑った後は必ずといっていいほど、舗装された壁を破ってスエと住人が現れる。その際、スエは殺気立つ住人への盾としてワーズを用いるのだが、今回、泉を探していた店主にそんな時間があったとは思えない。
そんな泉の問いかけに、スエは鼻を鳴らして悪態をつく。
「全くネ。娘御が呑気に攫われなんだら、シイに襲われることもなかったヨ」
「い、言いがかりです! 結局はスエのおいちゃん、今みたいに袖から網出して、シイに血を呑ませてくれなかったじゃないですか!」
「言いがかりはどっちヨ! 網に引っかかった団子状の主に安堵して寝れば、次の日、首元が血だらけなぞ……吸うなら吸うで、もっとスマートにできんのか!」
論点が多大なズレをみせたところで、仲の良い二人を眺めていた泉の足元へ擦り寄る気配。視線を下に向ければ、猫が泉の無事を喜ぶように喉を鳴らしていた。
「猫……」
「大体、猫も猫ヨ! 店主の代わりに助けるなら助けるで、住人だけでなくシイもぱぱっと追っ払うネ!」
体毛の黒い靄を散らすその身を抱き上げれば、学者は突然泉の腕の中で甘える猫をびしっと指差した。コレを嫌ってか、金の目を細めた猫が首を伸ばし、不躾なその指をぱくっと口にした。
「ぎゃあっ!?」
途端、指を引き抜いては無事を確かめ、黒い眼に涙を溜めて荒い息をつくスエ。
台所まで後ずさり、びくびく怯える珍しい姿を呆気に取られて見ていたなら、シイがやれやれと肩を竦める。
「猫に指差すなんて……スエのおいちゃんも耄碌してしまったものですね」
「ぃやかましいヨ! ううう……ワシの大切な指がぁ…………いや、これも良い研究材料になるかもしれん」
転んでもただでは起きないらしい学者は、白衣から綿棒を取り出し、なるべく地肌につけないよう、猫の唾液を綿へ無心に染み込ませている。採取に没頭するのは結構だが、やるならこれから朝食を作る台所ではなく、部屋の隅っこでやって貰いたいものである。
しかし訴えたところでスエの耳に入るとも思えず、泉はなんともなしにため息をつき、前足を肩に置いた猫が頬ずるのを受けては、あやすようにその背を撫でた。
「それにしてもお姉ちゃん、災難でしたね。シウォンのおっさんに攫われるなんて。猫がお留守番している訳ですよ」
「おっさんって……」
見積もれば確かに、シイくらいの年齢の子どもがいてもおかしくない外見の美丈夫だが、シイの言い方にはもの凄い年季を感じてしまう。
「それに、猫がお留守番って?」
「にゃ」
肩の温もりを見やれば、腕からするりと降り立ち、ソファで未だ眠る少年の顔を軽く踏んで背もたれへ。「ぐっ」と呻いた少年を小馬鹿にするように寝そべった猫は、尻尾で彼の赤い髪を揺らす。くすぐったいのか顔を顰める少年を余所に、近寄るシイが答えを持ってきた。
「えとですね、シウォンのおっさんって、住人がほとんど感知できない猫を察せる厄介な能力を持っているのです。ですから、猫が探すと、最悪、虎狼公社まで連れてかれる可能性があります。なので、ワーズの人がお姉ちゃんを代わりに探しに行ったのですよ」
「代わり……」
コロウコウシャって何、と聞きそびれた口が呟いたのは、空虚な響き。
猫が探しても問題ない相手なら、泉の想像通り黒一色の男は――。
やはりと納得する反面、腑に落ちない点がある。最初に奇人街を彷徨った時、幽鬼から逃げ回った時、確かに彼は自分を探してくれたのに。
ふと見たなら、ソファには少年と猫の姿。
「そっか……」
人間の彼がいたから、ワーズは生死も不明な自分よりそちらを優先し、猫が留守番をしたから、泉を――人間を探すことにしたのだろう。
するり呑み込めた考えに感慨もなく頷けば、
「泉嬢、よろしくね」
「あ、はい」
店側からのほほんと現れたワーズへ向けるのは、曇りのない晴れやかな笑顔。




