第13話 酔っ払いの地雷
柵を背に、たっぷりキフとの距離を置いた泉の服は、朝焼け色からくすんだ白いシャツへと変貌を遂げていた。
「いや……すまないね、お嬢さん。おじさん、本当……」
「……もういいですよ。酔っ払いなんて……。まともに心配するだけ無駄って分かりましたから。ですから――」
キッと目を吊り上げ、柵にもたれてれてうずくまる中年の、その顔を睨みつけて吼えた。
「いい加減、人の服で口拭くの止めてくれませんか!?」
「いいじゃない。汚れちゃったんだしぃ」
身をくねり、分厚い唇を突き出したキフは、吐き出した不快を拭うために汚した朝焼けの衣へ、白くなった顔を埋める。対する泉は、この光景に全身を粟立たせ、両腕でしっかり自分の身体を抱き締めた。
「汚れたんじゃなくて、汚したんでしょう!? 急にしゃがみこんだから、こっちは本当にびっくりして心配したのに! 裾掴むから、すっごく辛いんだなって思ったのに!!」
「うぅ……お嬢さん、もう少しトーンを落としてはくれまいか。酒は大方吐いたが、まぁだアルコールの後遺症がおじさんを直撃してだね……」
「自業自得です! 呑んだら吐くな! 吐くくらいなら最初から呑むもんじゃありません! 人の裾汚した挙句、服剥ぎ取って……。ワーズさんの言葉通り、変態じゃないですか!」
「むむむ……。そこで店主の名が出てくる辺り、おじさんとしては非常にビミョーなんだが……いや、そもそも服はお嬢さんが勝手に脱いで」
「やめてください。人を露出狂みたいに! 心外です! 大体、どこの世界に人の吐いたモノ付いた服、嬉々として着続ける人がいますか!」
「いやいや、分からないよぉ? 世界はなんたって広いからねぇ。もしかしたらそういう類の輩が幾人も」
「碌でもない想像しないでください。って、言ってる側から拭わないで、もう捨てて!」
最後にはヒステリックに叫ぶ泉。
それでも構わず泉の服へ顔を摺り寄せるキフは、えもいわれぬため息を吐いて後。
「はあ……お嬢さん、なかなかイイ匂いがするねぇ、この服」
「――――!!」
ぞわわわわっと這い上がる悪寒から、泉は咄嗟に地面へ目を走らせるが、手頃な凶器は石一つ見当たらない。有り余る害意を持て余し、結い上げられた髪を掻き乱そうとした手に、憶えのない硬質な感触が触れた。
歪な形をずるり引き抜けば、精巧な細工と華やぐ色彩の宝石を散りばめた優美なかんざしが、弱々しい街灯の中でも鮮やかに煌めく。
あまりの美しさに一瞬止まる思考。
だが、泉に憶えがない以上、このかんざし本来の持ち主は泉の髪を結い上げたシウォンに違いない。途端に、人を抱き枕扱いした人狼がもたらしたモノ、とまで思い至ったなら、これほど最適な凶器はなかった。
そのままキフへ投げつけようとした矢先。
「うぅん、そそる匂いだねぇ。この色香混じりの男臭さは、シウォン・フーリのものだろう? やるね、お嬢さん。その調子じゃ、奴のところから無事逃げおおせた――って、ああっ!?」
「へっ? あっ、いや、あの、これは」
今まさに投擲しようとした凶器を指差され、慌てた泉は背後に隠そうとするが、それより早く、キフが酔いを感じさせないスピードで手を掴んできた。
「わっ、汚い!」
反射でそう言う泉へ、キフは少しだけ傷ついた顔をする。
「ちょっぴり酷いぞ、お嬢さん。おじさんのお手ては、口と違ってとっても綺麗なのに」
確かにキフの手は、拭いたところで汚れの残る口元より綺麗だが、直で肌に触れられたなら言いようのない怖気が走る。そんな思いのまま身を捩って嫌がれば、キフが更にショックを受けつつ、かんざしを奪ってきた。
「あ」
美しかろうが執着のない品。
それでも拍子で上がった声に対し、中年は珍妙な表情を向け、泉の身体が硬直した。呆れとも怒りともつかない、普段のおどけからは想像だにできない、不可思議なソレ。
しかし一瞬のこと。
見間違いのような顔つきから一転、かんざしを興味深そうに眺めるキフ。
戸惑う泉を余所に、角度を変え、街灯の反射を楽しむ風情で「ふむ」と数回繰り返す。
「シウォンから、かね? 実にあの子好みのデザインだ。しかもお嬢さんに非常によく似合うな。……逆を言えば、お嬢さん以外が付けるのはあんまり好ましくないほどのオーダーメードっぷり」
「はあ……」
デザイン一つで誰がかんざしを寄越したか分かるキフの、数値を計るばかりではない青の慧眼を知って、泉の口から感嘆の息が零れた。
が、次の瞬間。
「とおっ!」
何を思ったのか、キフがあらぬ方向へかんざしをぶん投げた。一度だけ、放物線上をきらりと煌いたかんざしは、闇に喰われ、遠く水音を響かせる。
突然のことに、寸前までこれを髪に挿していた泉は、
「うわ……もったいない。売ったらイイお金になりそうだったのに」
「お嬢さん……」
柵から身を乗り出して残念がれば、キフが感心した口振りで言う。
「こういう場合、おめでとうと言うべきかな? ずいぶん、街に染まっちゃったみたいだねぇ。仮にも贈り物でしょ、あれ。売ったらって」
言われた内容を理解するのに時間を要し、気づけば全力で否定する。
「えっ!? そ、そんな染まるなんて全く! 心外です! 別に私、自分のためにお金欲しいとか思ってません! ただ、お世話になってる分、芥屋の足しにと。あ、あのかんざしだって、言ってみれば迷惑料みたいなもので」
「貢がせた物で金を作り、本命に投じる、か。……うぅーん、お嬢さんて意外に悪女ね?」
「み、貢がせ、本命――って、私はワーズさんのこと、そんな風に!」
「ほうほう。おじさん、店主とは一言も言ってないけど?」
にやにや底意地の悪い笑みを浮かべるキフへ、泉は酸欠の金魚よろしく口をパクパクさせるばかり。何も言えないでいれば追いつめるが如く、更に重ねる。
「猫もいるでしょう、芥屋には。お嬢さんは猫に気に入られている節があるし、あの子の助けは甚大だろう? それが何の因果か、出てくる名前はあの店主。いやぁ、世も末だねぇ」
しみじみ語る様から出せる反論もなく、好奇の目から逃げるように、ぐるりと回るこげ茶の眼。
対抗する術のない頭は、無意識に掴まれた手を擦り、はたと別の話題を浮べた。
あの時掴まれた手は、自分ではなく相手のモノで、その手はかんざしのように泉によって投げられ、水音を上げた――。
今になって、芥屋を目指していたことを思い出す。
そして目の前にいる中年は、奇人街の住人で、場所を尋ねるのには格好の相手。
しかし、極力一緒には歩きたくない、言動に一々セクハラが入る変人。
「あ、あのキフさん?」
「うん? 何かね、お嬢さん。改まっちゃって」
にこにこ泉の言葉を待つ風体に、ほっとする。
詮索する目は好きじゃない。
それはどこにいたって同じこと。
だからこちらも笑んで、尋ねてみた。
「ええと、ここから芥屋までってどう行けば良いんでしょうか? もしくはラオさんのいる――」
「…………ラオ……?」
低い、身を竦ませる音が響いた。
小さな音量だが、明確な、地を響かせる怒号の如き迫力。
それがまさか、おちゃらけた中年から漏れたとは到底思えず、泉は不審に思ってキフを伺い、
「!」
眼前、冷ややかな青い目と不鮮明な無表情に迎えられ、身を凍らせる。




