第12話 妥協
「動かないで」
チープな脅し文句が耳をくすぐる。
この期に及んで従いたくはなかったが、幽鬼の存在が抗うことを許さない。
口を塞ぐ左手。両腕ごと身体を抱く、銃を持つ右手。黒いコートに後ろから抱きすくめられた泉は、自由な眼で目の前の幽鬼を見つめる。
すぐ近くにいるというのに、動かない方が危険ではないか。
そう思いながらも留まっていれば、生白い裸体がこちらを向いた。
反射的に目だけを横へ逸らす。
合えば追われると、これまでの経験から判断しての条件反射だった。
だが、感じる視線は避けられず、身体が震えそうになる。
それでもじっと耐えたのは、微動だにしない背後の気配を感じたため。
しばらくこちらを見ていた視線が離れ、併せて泉の目が幽鬼に戻ったなら、ぬったりとした動きで左方向へと歩き出す。
硬い地面を踏む裸足の音が遠ざかり、乗じて緩んでいく右腕の拘束。
機を逃さず、なおも塞ぐ手を片手で下げ、思いきり噛みついた。
「痛いっ!?」
怯む相手を振り払い、痛みに重い右腕を叱咤して、そのまま頭から走る。
だが、左手があっさり取られてしまった。
かといって中年のようにしつこく抱き締める真似はせず、向かい合わされた先。
困惑したワーズがそこにいた。
「酷いよ、泉嬢。幽鬼から助けてあげたのに」
「離してください! 私は絶対シイちゃんを助けるんです!」
「君が? 猫を使うのに?」
揚げ足を取られて詰まる。そういう行動をしているのだと理解していても、真正面で言い切られると怯んでしまう。
そんなこちらの沈黙に、ワーズがため息をついた。
「確かに猫は君を好いてる。アイツは人間だからって手を緩める訳じゃないから、あれだけ懐くのは珍しいけど」
芥屋を名に冠しながら店主に飼われている訳ではないという猫。
ワーズを飼い主と言った時の、猫のもの凄く嫌そうな鳴き声を思い出す。
(……でも、どうしてそんな話を?)
てっきりこのまま芥屋へ連れて行かれると思っていたのだが。
真意が読めず、伺うようにワーズの次の言葉を待つ。
逃げ出さないと判断したのか、左手が解放された。
途端に痺れと痛みが起こり、慣らすように服を擦る。思ったより強く掴まれていたらしい。それとも、振り解こうとした力が強過ぎたのか。
そんな泉を気遣いながらワーズは続けた。
「そう。アイツは気まぐれが過ぎるんだ。だから史歩嬢は君に刃を向けた。ワーズ・メイク・ワーズだってなかなか食べれないし」
……話がかなり脱線した。
胡乱気な顔を向ければ、ワーズが苦笑してみせた。
「だから、ね? たぶんだけど、君が望めば猫は間違いなくシイを助けるよ」
驚きに目を見開く。
「芥屋に連れて行くんじゃないんですか?」
つまり?
「まあ本当は無理矢理にでも連れて帰りたいところだけど。ここまで来ちゃったし、帰ったら泉嬢、泣き続けちゃいそうだし?」
へらり、赤い口をぱっくり開けて笑う。
それだけで肩の力が抜けるのを感じた。
自分でも呆れるほど安心する。
しかしワーズはそこで複雑な表情を浮かべて笑い、
「ワーズ・メイク・ワーズはね、泉嬢。人間が好きだから助けるんだけど、死んだ者に興味はないんだ。自己犠牲とか、大っ嫌いなんだよ? なのにアレは君を助けた。ホント、死に縛られたヤツってのは、何考えてんだか」
言い含めるように語られる、不思議な話。
死人という種名はさておき、シイのあの明るさを浮かべて、死という単語は到底結びつかない気がする。疑問をそのまま口に出するべきか迷って首を傾げれば、黒いマニキュアの手が唐突にこちらへ伸びてきた。ぎょっとする泉へ断りなしに、血塗れのクセ毛が一房、ワーズの鼻先まで持ち上げられる。
顔が顰められ、一言。
「……変なニオイ」
「んなっ!」
不覚にもちょっぴり胸を高鳴らせてしまった分だけ腹が立つ。
幽鬼やら住人やらの返り血を浴びては、そう評されても仕方ないが、わざわざ目の前で言う必要などないではないか。
「んー……変態中年と年増鬼火がニオイの元かな? アレらに会ったの?」
「……分かるんですか?」
ずばり的中した推測に、怒りより驚きが勝った。ただし、セクハラ・キフは訂正の必要がないくらい変態だとしても、クァンを年増と思ったわけではない、決して。
さておき、ワーズは緊張感なくへらり笑って泉の髪を解放すると、こめかみに銃口を押し当て傾いだ。
「終わったら、髪、念入りに洗わなくちゃねぇ。服とかは洗濯機でどうにでもなるけどさ。そだ、なんだったらボクが」
「いえ、結構です!」
泉はとんでもない提案の気配を感じ、先んじて腹に力を込めて拒絶した。
途端に嬉しそうな顔から不満そうな顔に変わるワーズ。
呆れつつも窘めようとすれば、通り過ぎたはずの生白い姿を視認し、泉は言葉を呑み込んだ。




