第10話 黒曜の瞳
痛いほど握り締められた手。
振り解くこともできず、自分より少し低い背の後を引きずられるように歩く。
かけたい言葉は山ほどあるのに、膜に覆われた思考が、荒ぶる熱を他人行儀にしてしまう。
語れないならせめて、行動で示したい。
だが、それすら叶わず。
伝わるのは、包帯越しの冷ややかな温もりだけ。
「竹平君、着いたよ?」
どこに――そう尋ねたかったが、視線を他へ移せば答えはあった。
瓦屋根と漆喰の壁、木枠の窓や木製扉の家が無造作に積みあがった、奇天烈な街を歩いていたのに、広がる光景は海岸。
店先にあったサンダル履きの足が踏むのは白い砂浜。
耳朶に届く波打ち際の切ない音色。
空気は街の黄ばんだものとは違い、どこまでも澄んでいた。
見上げた空は陰りのある青空で、月のように白く浮かぶのは陽であろうか。
まるで青いフィルターを通して見た世界。
今の自分の存在のように、とても不鮮明だ。
砂浜に添う陸地はどこまでも続く崖の地肌で、ロッククライミングするにしても、道具なしでは攻略が難しいだろう。さわさわ揺れる緑があるため、上はあると知れるが、ここからではその先まで見通せない。
また、長い黒髪の持ち主へ視線を戻す。
ふっと意地悪く笑う、いつもよりずっと幼く映る表情。
するりと手が解放され、自分の眉が動く。
「ふふふ……痛かった?」
尋ねられて。
答える前に。
近づく唇。
受けても、何の反応もできない己の身体を恨めしく思う。
ゆっくり離されて、突っ立っているだけの頬へ、包帯の痛々しい手が這う。
そのまま上へ向かい、首を掠める腕。
絡んだ指が赤い髪に沈み、少しだけ屈めば、触れ合う額。
憐れむ、哀しげな、切ない、深い黒の瞳が艶めく。
ぐっと体重がかけられて、更に近づいても、黒い瞳を絡めた茶への温もりは、湿り気を帯びた吐息しかない。
重力に抗えなかった自分の両腕が、だらりと下がる。
少し動かせば目の前の少女へ触れられるのに、指先が痺れを訴えて痙攣するだけ。
「……そう。ダメなのね?」
誰へ向かってか、少女はそう言うと身体を離した。
一歩、下がり。
顔つきを険しくして考える素振り。
人差し指が紅に色づく唇の上を這い、頬が動く。
瞳ごとこちらから完全に意識を逸らし、海を横目で見つめ続ける。
緩やかな風が、少女の黒髪と艶やかな衣装を遊ばせる。
頭を引き寄せられた不自然な格好でこれを見、言葉を紡ごうとするが、唇は震えるだけ。
気づいた少女は思案を止め、軽く目を見開いた。
泣きじゃくる直前の表情が、ほくそ笑む一瞬の間で浮かぶ。
すると動き出す自分の身体。
意思とは関係なく、両手を開き、少女を腕に閉じ込める。
甘えて擦りつける頭へ鼻をつけ、汗混じりの甘い匂いを嗅ぐ。
息が、詰まった。
強張った顔から悲愴な思いが形作られると、自分でも分かった。
思い通りにならない腕の中で少女の顔が上がり、似た顔つきを見合わせたなら。
襲う、衝撃。
頭部に熱い痛みを感じつつ遠退く意識で、ようやく自由になった手を伸ばす。
同じように伸ばされる包帯の腕。
だが、触れ合うことはなく大きく震えれば、自分の胸の上へ倒れて――――
暗転。
「よし、運べ」
そんな声に目を開け、響く頭の鈍痛に顔を顰めた。
やけにだるい身体を運ぶ何者かの背を捉え、苦痛に狭まる視界を横へ向ければ、青白い顔をした少女が荷台に乗せられていた。
(か、のえ……?)
閉じた瞼を呼ぶ名は、言い知れぬ熱に侵され、喘ぎとなり…………。
閉められた格子。
違える影は、己が乗る荷台と彼女の乗る物が、別である証。
振動が伝わる。
彼女の方も別の振動を受け、徐々に遠ざかっていく。
霞む視界が妖しげなネオン街を移す。
ぐらり、傾ぐ身体。
打ちつけられては、またも遠退いた意識。
次いで軽く頬を張られ、目を開けた竹平の視界は、投げつけられた水色の衣で覆われた。
「着ろ」と言われて半ば強引に着させられたソレからは、妙な匂いがしている。
臭いわけではないが、鼻腔をくすぐり絡みつく香りは、竹平の思考をとろとろとしたおぼろげな熱へと変えていく。
腕を持ち上げられ、引きずられるように連れて行かれても、抵抗が段々と失われていく身体は為すがまま。
乱暴に払われ、倒れた先の柔らかな感触に振り向けば、口笛を吹く、獣面の男。
「こちとらそういう趣味はねぇが………お前が女だったら、たっぷりお相手願いたいところだぜ」
品のない笑い声をぼんやり聞いている内に、男は扉を閉めてしまった。
何を言われたのか理解しかね、身を起こして閉まった扉を開けようとするが、ビクともしない。
「何なんだ?……一体……?」
意識をぎりぎり留めさせ、ぼやける視界に片手で頭を掻き毟る。その力さえ心許なくなっては、おぼつかない足取りで、唯一ある窓へもたれて縋った。
ガラス窓に映る背後の内装は薄暗いが、天蓋のような布が垂れ下がった寝床は、妖しい雰囲気を醸し出している。
呑まれもせず、内装から窓の外へと焦点を合わせた。
揺らぐ身体を支えるため、窓に手をつけて眺めた下では、煌びやかな路が横たわり、時折こちらを見るのは、人間ではない姿。不思議と恐れはなく、しかし、どれもにやついた目で己を見るのを嫌い、辿ったと思われる路の先に視線を投じる。
求める黒髪の少女は、どこへ連れていかれたのだろうか。
朦朧とする耳にこだますのは、自身も殴られる直前、必死に彼の名を呼ぶ、甘い声。
(あいつ……大丈夫かな……?)
思い、驚き、笑う。
「ふ、くくく、なんで、俺、あいつの心配してんだよ」
窓に額を擦りつけたまま、ずるずると下がり、壁を背に座り込む。
目元を手で覆う下には笑みが張りついてた。
ただ一つ、雫が頬を伝い、顎の先でぽたりと落ちる。
竹平の知る、桐原かのえという少女は、いつも勝気で明るい反面、辛さや苦しさを一人で抱え込む性格だった。
そうやって何も言わず抱え込むくせに、その苦悩は彼女と親しくなった者なら、手に取るように分かってしまう。何より竹平が困るのは、苦悩が判明しても、かのえは空元気そのままの笑顔で言うのだ。
竹平君は心配し過ぎなのよ、と。
彼女が竹平を「竹平君」と呼ぶ時は、決まってからかいに満ちていたが、苦悩の比重に応じて、それは聞くに堪えない響きを持つ。
今までで一番酷いその呼び声は、距離を取るべきだと告げた時に。




