探偵は禁煙中
依頼人の話を聞き終わり、ソファにだらしなく背を預けていた朝霞一路はゆっくりと姿勢を正した。
「なるほどね」
朝霞は痩せた顔色の悪い中年男だ。グレイのスーツは身体に合っていない安物。普段は古びた探偵事務所の備品めいた存在感のなさだが、正面の依頼人をはっきりと見据える眼差しには奇妙な鋭さがある。妻への不満と不審な行動について饒舌だった依頼人は一瞬怯み、怯んだことを恥じるように朝霞を睨みつけた。
これはだめだ。
朝霞の横に姿勢よく立っている助手の吉田将臣はため息をつきそうになる。今回の依頼、というか依頼人も、探偵のお眼鏡にはかなわなかったらしい。
朝霞は両膝に肘をつき、組んだ手の上に細い顎を乗せて依頼人に微笑んだ。血色のない顔の中で、そこだけ子供のように淡い桃色の唇をちらりと舐め、言葉を放つ。
「今すぐ帰れ」
「は、はあ?」
「嘘つきの依頼には応じられない」
「はあ? あんた失礼じゃないのか!? こっちは依頼人だぞ!」
「依頼には応じてないから依頼人じゃない」
「ふ、ふざけ、」
ソファから立ち上がってローテーブル越しに朝霞に手を伸ばそうとする男との間に、吉田は静かに腕を出した。ごく軽い動作だが、吉田の体躯と佇まいに尋常でないものを感じたのか、男は浮かした腰を仕方なくソファに戻した。そこに追い打ちをかけるように朝霞が言う。
「半分親切で言ってる。感謝してほしいぐらいだ。調査してやってもいいが、あんたの妻に貼りついたところで何も出ない。浮気なんてしてないだろうからな」
「な、何を根拠に」
「何を根拠にって聞きたいのはこっちのほうだ。最近見慣れない化粧品を買っていて、夜の十一時頃に風呂にこもってしばらく出てこないし何か男の声がする? それが浮気? 馬鹿じゃないのか?」
「はあ? 馬鹿? じゃあなんだって言うんだ。妻はスーパーのパートしかしてなくて、もう何年も新しい化粧品なんか買ってなかったのに急にこんなこと、どう考えても浮気だろ」
朝霞は依頼人を無視してスマホを弄る。赤黒くなっていく依頼人の丸い顔に、すっとスマホの画面を突きつける。そこには特徴的な水色のボトルが写っていた。
「化粧品ってこれか?」
「あ、ああ」
怒りよりも先ほどの説明でも水色のボトル、としか言ってなかった化粧品をあっさりと特定されたことの驚きと好奇心が勝ったのか、依頼人は素直に頷いた。朝霞はまたスマホを操作するとある画面を見せる。そこには若い男が写っていた。二十四歳の吉田と同年代ぐらいだろうか。整った顔。完璧な髪とメイクでポーズを決めている。
どう見ても芸能人だ。吉田はほとんど芸能に興味はないが、それでも見覚えがある。その画像も、ドラッグストアかどこかで見かけた気もする。
朝霞はぼそぼそと続ける。
「その化粧品……というかスキンケア製品は今このアイドルとタイアップしている。一本千円台の安価な……いわゆるプチプラコスメだな。そしてこのアイドルがSNSで行っている配信はだいたい夜の十一時に始まる」
「な……」
「つまり、この方のお連れ合いはこのアイドルを応援しているだけだと?」
呆然とする依頼人の代わりに吉田が尋ねると、朝霞はスマホを胸ポケットにしまって頷いた。
「だろうな。そもそも浮気ならスキンケアだけ新しくなるのはおかしい。服装や髪型にも変化があるはずだ。風呂場だからって家の中で話し込んだりしないだろう」
「な、だからって……」
「だからって浮気してないって証拠にはならない?」
朝霞の言葉に依頼人は素直に頷くのが憚られるのか、沈黙で応えた。朝霞は繊細に尖った鼻先で笑う。
「そもそもなぜあんたはそんなに妻が浮気していることにしたいんだ? ここの調査費は相場より安いがそれでも馬鹿にならない出費だ。あんたはそう裕福に見えない。金を払ってまで妻が浮気していると信じたい理由」
朝霞は淡々と語る。
「あんたが浮気してるからだ」
「はあ!? 何を根拠に!」
朝霞はホテルの名前を口にした。興奮に赤黒くなっていた依頼人の顔からすっと血の気が失せる。
「あんたがここに来たのは十五時。急いでいる様子がないところから会社を抜けてきたわけじゃないだろう。スーツを着ているが手入れに無頓着なところから見て内勤だ。革靴もあまり歩かないタイプの傷み方をしている。おそらく午前は普通に会社に出て、午後休を取ってる。違うか?」
依頼人は応えなかった。この沈黙は肯定、というか、否定することができなかったのだなと吉田は考えた。
「午後休を取っているなら十五時にここに来るのは遅い。それまで何をしていたのか? そういう目で見ればわかることがある。整髪料が取れた髪。外したネクタイ。さっきまでホテルにいたんだろう。この時間に相手と会えるっていうことは同じ職場じゃないな。あんたは育児にほとんど関わってなさそうだから、子供関係ってこともない。夜の仕事をしている相手か。ここの駅前にはガールズバーが多い。そのあたりだな」
推理と言うよりもうほとんどあてずっぽうになっているが、いちいち図星なのか依頼人はただ震えている。朝霞はつめたい目で情けなく震える男を見据える。
「この探偵事務所を選んだのも普段使っているホテルからよく見えるところにあったからだろう。不倫で盛り上がって離婚したくなったが、慰謝料は払いたくない。そこから段々と妻のほうが浮気していると思い込むようになった。物事に向き合うのを避けてなんでも自分の都合のいいように考えるタイプなんだろうな。それで探偵事務所に駆け込んだ。そういうことだ」
依頼人に反論はなさそうだった。ただ口を引き結んで震えている。
朝霞は吉田を見上げた。もういいだろう? と目尻の垂れた目で訴えてくる。よくはないかもしれないが、この目で見られると吉田はいつだってほだされてしまう。
またこうなったか。
諦める吉田をよそに、朝霞は言い放った。
「とにかくそんな出鱈目な依頼は受けられない」
震えていた依頼人が弾かれたように立ち上がる。吉田は一歩前に出ると、Tシャツに包まれた分厚い肉体を誇示するように胸を張り、にこやかに告げた。
「そういうことですので、お引き取りください」
「もうああいうのはやめてくださいよ。久しぶりの依頼だったじゃないですか」
依頼人が帰った途端、ソファにだらしなく横たわる朝霞に吉田は言う。古びたブラインドの隙間から西日が差し込んでいる。ここ朝霞探偵事務所は十五年ほど前に朝霞が当時の助手と開設した探偵事務所だ。往時は様々な相談で賑わっていたそうだが、その名残は棚に詰め込まれた過去の事件のファイルの中にしかない。
朝霞は半年前から自分の助手になった若者に甘えるように薄い唇を尖らせる。四十一歳という年齢相応、あるいは少し老けているぐらいだが、親しい相手には子供じみた仕草を見せ、またそれが妙に様になる男だった。
甘え慣れている。
誰に、と考えることもあるけれど、推理に向いていない吉田の脳みそは答えを出せない。
「じゃあ吉田くんは俺があの依頼を引き受けて、なんのやましいこともない、くそったれな夫への不満をアイドルをひっそり応援することでなんとか押さえているような女の人に貼りついて家計をさらに圧迫させろって言うわけ?」
「まあ……そう言われると、そうですが」
「そうでしょ? 俺は人を助けるために探偵をやってるんだから依頼は慎重に選びたいわけー。ただでさえ危うい仕事なんだから、来た仕事全部受けるなんてわけにはいかないよ」
「じゃあいい仕事が来るように営業努力をしていただけませんか。ここのところほとんど全部追い返してるじゃないですか」
「だってソファから動くまでもないような依頼ばっかりだし」
実際その通りではあるのだった。
ここに来る依頼はほとんどが浮気調査だった。そしてほとんどすべての依頼人から話を聞くと、朝霞はそのまま帰してしまうのだ。依頼人に非がある場合はそこを突き、確かに配偶者が浮気をしていると推理した場合は相手が誰なのか、どこを調べればいいのかを伝えてそれでも埒が明かなかったらまた来るようにと告げる。前者の多くは事務所の悪口をGoogleマップのレビューに書くし、後者は感謝の電話をくれる。どのみち、依頼料はゼロだ。ただどんどん星1のレビューが増えていく。そして依頼人の質が下がっていく。悪循環である。
「なんで推理力があることで収入が下がっていくんですか……」
「探偵事務所は基本的に推理じゃなくて調査でお金もらってるからじゃない?」
「じゃあ調査を引き受けてくださいよ……」
「倫理に背くことは探偵のやることじゃないからさあ」
面倒くさいだけでしょう。と反論したいところだが、朝霞にそんな仕事をしてほしいとも言い切れない。先ほどの依頼人が気に入らなかったのは吉田も同様で、朝霞が切り捨ててくれてすっきりもしたのだった。あの男に朝霞がいつものへらへら顔で従って、罪もない、おそらく幸福ではない夫婦生活の中でも必死に子供を育てている女性を監視するのをよしとはできない。
そして吉田のそういう葛藤もまた、朝霞は充分に承知しているのだろう。この人の手の内にあるということに少し腹が立つ、のだが、同時に安心もする。朝霞は探偵なのだ。助手を自認している吉田としては、探偵には自分を上回る存在でいてほしい。しかし朝霞の同居人かつ年下のパートナーとしては、従属的な立場に置かれ続けることをよしとも出来ない。
なんとも言えず、彫りの深いやや厳めしい顔を強張らせる吉田に、朝霞は唇を尖らせる。
「とりあえずさあ、一つ依頼を片付けたんだから、煙草吸っていい?」
「ダメです」
鬱憤を晴らすように吉田はきっぱりと宣言した。
「なーんでー。一本ぐらいいいじゃーん。仕事したら一本吸わせてくれるって約束でしょ?」
「さっきのは仕事したうちに入りません」
「ちぇー」
ぐだぐだとソファの上で伸びている中年男に、吉田の目元が緩んでしまう。
もともと最近まで朝霞はチェーンスモーカーだったのだ。一日に二箱。十何年に渡る習慣で探偵事務所の壁もその一階上にある住居の壁もすっかり黄変してしまっている。食事も面倒がるこの探偵と同居するにあたって、まず半ば無理矢理健康診断に連れて行き、八割がた無理矢理禁煙を約束させた。そこで探偵が抵抗し、仕事をすれば一本だけ吸ってもいい、と許可を取り付けたのだった。今のところ、まだ一本も吸っていない。吉田の目を盗んで吸っている可能性は否定しきれないが、吉田の鋭敏な鼻と舌も煙草の気配は感じていない。
「煙草は無理ですが、お茶でも飲みますか」
昨今の世情を鑑みて、というわけでもなく、単に財政的に余裕がないだけなのだが朝霞探偵事務所は初回相談では依頼人に茶を出すこともない。喉が渇いていないか尋ねると、朝霞はすぐに答えた。
「コーヒーがいいな。吉田くんが淹れると美味しいから」
「はいはい」
落ち着いた返答をしたいが、朝霞にこんな些細なことでも頼られると返答が弾む。キッチンスペースでお湯を沸かし、豆を準備する。朝霞も吉田もそれほどこだわりがあるわけではないが、近所のコーヒー屋で挽いてもらった豆を使っている。
コーヒー淹れたら、さすがにもう少し仕事について話し合ったほうがいいよな。
もう何度も決意したことを再度決意する。朝霞は実のところ結構な資産を持っており、この古いビルも自分で所有している。一階のコンビニと二階の学習塾の家賃収入もある。なので探偵事務所で赤字を垂れ流していても問題がないと言えばないのだが、吉田にはこの状況は受け入れがたい。どうにかしてまともな仕事がしたい。何度も提案しているのだが、話し合いが始まると朝霞にすぐに話を逸らされてしまう。
「いい匂いだねー」
ドリッパーにまず少しの湯を注ぐと豆の香りが立ち、朝霞がのんびりとした声を上げる。吉田はふっと微笑んで、軽く頭を振った。こうやってすぐに懐柔されてしまうから、まともに話し合いもできなくなってしまうのだ。気を引き締めなくては。
二杯分のお湯をゆっくりと注ぐ。ガラスのサーバーにコーヒーが落ちていく音を聴いていると、不意にその音が途絶えた。ドアが開く音。
「すみません」
聞いたことのない声だ。特別な美声というわけではないが、その一言だけで礼儀正しさが伝わるような声だった。
「わ。びっくりした」
朝霞がのんきに言い、ゆっくりとソファから起き上がる。吉田が隅のキッチンスペースから顔を出すと、ドアのところに男性が立っていた。きっちりと身体にあったスーツを着込んだ眼鏡の男性だ。三十代後半ぐらいだろうか。雰囲気の落ち着きに実年齢が追いついていないタイプだ。いくらか白髪の見える髪は堅苦しく整えられている。左手の薬指に指輪はない。
ちゃんとした人だ。金払いもよさそう。
吉田はとっさにそう思った。まともな依頼かも、と喜びかけて、期待するなと自制する。何かの営業や、朝霞の不動産関係の訪問者かもしれない。
「朝霞探偵事務所はこちら……ですか?」
「はい。ご依頼ですか?」
朝霞の問いに、吉田もつい注視する。
男性は二人の視線に居心地悪そうに肩を揺らし、それからゆっくりと頷いた。
コーヒーは一杯依頼人のものになった。
依頼人は城山太郎と名乗った。三十八歳。コーヒーはブラック派らしく、助かった。ミルクなどここにはないので。城山氏は仕舞い込まれていた来客用のカップから上品に一口啜り、意外、というか、いっそ心外であるかのように、おいしい、と呟いた。確かにこんな事務所で出てくるにしては上等のコーヒーだろう。
「城山というと、……失礼ですが、あの?」
先ほどの依頼人に対するのとは打って変わってまともな態度で朝霞が尋ねると、諦めたような小さな笑みを浮かべて頷いた。
「おそらくその城山です。父、城山大紀がこの辺りにかなり広い土地を持っていました」
いました?
過去形に吉田が疑問を持っていると、城山氏は微笑んだ。
「いきなり本題に入りますが、父がひとつき程前に亡くなりまして」
念のため、と城山氏がスマホで見せてくれた城山大紀の画像はポロシャツにチノパンという恰好で上等なソファに腰かけて笑っている。やや恰幅がよく、血色もいい。第一印象は異なるが、顔立ち自体は眼鏡を取った城山氏と生き写しと言ってもいいほどよく似ている。
自宅での就寝中に脳梗塞を起こしたのが死因だと言う。事件性はなし。享年は六十八歳。若くもないが、天寿を全うしたとは言えまい。吉田の若い心は親の死、という事実に悲しくなる。
「お悔やみ申し上げます」
朝霞の言葉に城山氏は軽く首を振った。吉田の初めの印象より、くだけた雰囲気だった。
「お悔やみの言葉をいただくような父ではなかったんです。いや、極悪人というわけでもなかったんですが」
「仕事のうえでは付き合いやすい方だったという話しですが」
「まあ、そうかもしれません。気難しいところはなくて、地主としてはあくどいことはしていない……というか、割合気前もよかったんじゃないかな。地域のために色々と尽力していましたし、感謝してくれる方もいたとは思います」
「身内にはそうではない面があった?」
城山氏は頷いた。
「そういうことです。城山は代々の地主でして、母とは望んだ結婚ではなく、私を始めとした三人の子供をもうけたら、義務は果たしたと言わんばかりで」
「家族仲は悪かった?」
城山氏は苦笑して首を捻る。
「表だっていがみ合うというほどではありませんでしたよ。何しろ子供たちにも気前は悪くなかったし、長男の私がこういう……面白味のない、親の言うことにはなんでも従う人間ですので、下の二人は留学だの、起業だの、金を出してもらって好きにしていました」
「親の言うことというと、ご結婚は?」
「ああ、私は独身です。見合いで十年前に一度結婚しましたが、私は子供ができにくいようで、色々とありましたが妻が耐えかねて離婚になりました。申し訳ないことです」
「なるほど」
朝霞は特に同情を示すこともなくあっさりと頷いた。
城山氏は簡単に家族関係を説明した。城山大紀には一つ年下の妻の洋子、上から太郎、譲二、三津子の三人の子供がいる。譲二は飲食業、三津子はジャズピアニストをしている。城山氏の口ぶりからすると、生計を立てるというより趣味の一環としての職のようだ。三兄弟のなかで譲二だけが既婚で子供がおり、その三歳の長男が将来的に城山一族の跡を継ぐことになるだろう、ということだった。
「配偶者と三人のお子さんが城山大紀氏の相続人ということですか?」
朝霞が尋ねると、城山氏は苦笑してため息をついた。
「実は、そこが問題でして」
「というと」
「父には婚外子がいるんです」
「はあ」
「二十歳の男の子が一人。認知はしていませんが、母親の女性と一緒に父が面倒を見ていました。大学生で学費も払っていたそうです」
「認知をしていない、ということは」
朝霞の言葉に城山氏は頷いた。
「ええ、相続権がないということです。外で子供を作っても認知はしないというのがうちの母とその実家との約束だったそうで」
「その言い方は……そう決めてから結婚したということですか?」
城山氏は俯いて眼鏡を直した。
「お恥ずかしい話ですが」
この人自身も結婚前にそういう約束はしたのだろうかと吉田はふと考えた。口先だけでなく、この人はそういうかたちを本当に恥じているようだった。吉田自身は金に縁のない人生だったが、金持ちは金持ちでどうも色々大変らしい。
「認知していない、ということは相続権がない……わけですが、その、」
言いよどむ彼の言葉を朝霞が補う。
「法定相続人ではないというだけで、遺産を残すことは出来ますよね」
「ええ、はい。そう。まさにその通りです。非嫡出子は法定相続人ではない。母の両親はもう鬼籍に入っていますが、母は父の相続を考えてその子の認知をさせなかった……わけです。ところが、その、父の遺言書がありまして」
三年前、六十五歳になった際に作成したものらしい。顧問弁護士が保管していたそうだ。
「はあ」
「突飛な内容ではありませんでした。生前本人が言っていた通り、事業は私に、自宅は母に。弟と妹が住んでいるマンションをそれぞれに。それに加えて当分は食うに困らない程度のものを、と」
城山氏は白く細い指を組み合わせてため息をついた。
「それと、かなりの額の現金をその非嫡出子に譲る、と」
「かなりの額、というと、具体的には?」
城山氏は声を低くして、ぼそりとその額を呟いた。
「わあ」
耳にした金額の迫力に吉田がつい声を漏らしてしまう。そこに立っていた若い大男の存在を城山氏は改めて認識したようで、見上げて小さく笑いかけた。親しみを示すことで、逆に相手との距離を明確にするような笑い方だった。
「大金ではありますが、城山家の財産からすればそれほど問題になるような額ではないのでは?」
冷静な朝霞の問いに、城山氏は頷いた。
「確かにそうです。はした金とはさすがに言いませんが、生前の父が何かの事業に使ったと言っても家族はさほど気にも留めなかったでしょう。そういう額です。ですが、母と弟がこんな遺言書は認められないと言い出しまして」
「なるほど」
朝霞はよくあることのような雰囲気で頷いた。しかし吉田にはわかるような、わからないような話である。でも、そういうものだと言われれば、そうかもしれない。金銭欲というよりは、意地とか、プライドとか、そういう部類の話なのかもしれない。どちらも吉田にはあまりぴんと来ないが、ある種の人々にとってそれが非常に重要なのはこの仕事をするうちにわかってきた。
「非嫡出子のお子さんはどう考えているんですか」
「さあ……何がなんでもほしいわけではないけれど、あるなら喜んで受け取る、とは言っていました」
彼はこの地方の国立大学に通う三年生。真面目に勉強し、卒業後は就職の予定だそうだ。彼の母親は城山大紀に用意されたマンションに住み、飲食店のオーナーとして困らない程度の収入があるそうだ。親子ともに浪費をするタイプではないらしい。
「三年前に遺言書が作成されたということは、当時は非嫡出子のお子さんはまだ未成年だったということですね」
朝霞はふと呟いたことに、城山氏は大きく頷いた。
「そうなんです。そこが我々家族にとっても重要な問題で。当時は彼が自活できそうな目途はまだ経っていませんでした。父が定期的に遺言書を作成していたのは周知の事実で、おそらく彼にも相当の金額を残す予定なのは父の言葉の端々からわかっていました。母と弟も相手が未成年者ということで、それについては受け入れていましたが、二十歳を迎えたということで、遺言書を書き換えろと再三言っていたんです」
「しかし遺言書があるのなら従うしかないですよね」
当然のことを朝霞が言い、城山氏は頷いた。
「そうなんですが、しかし今確認された遺言書より新しいものがあれば、話は別でしょう」
「というと?」
「彼が成人……というか、二十歳になってから、母と弟がかなり激しく父に遺言書を書き換えるようにせっつきまして、父もその気になって書き換えたそうなんです。弁護士に頼んではいませんが、頼んだほうが確実というだけで頼まなくても法的に有効な遺言書が作成できないわけではないですからね。しかし、父の書斎を家族総出で探しても遺言書が出てこない」
ようやく話の筋道が吉田にも見えてきた。吉田の思い付きをなぞるように朝霞が尋ねる。
「つまり、我々への依頼は新しい遺言書を探すこと、ですか?」
「ええ。我々のほうで探せる場所は手当たり次第に探したのですが、見つからなくて。外部の協力を仰いだ方がいいのではないかと」
「我々、というのは城山大紀氏の法定相続人の方々、という意味ですか?」
城山氏は眉を下げて頷いた。
「そうです。自宅、事務所、出入りしている物件。貸金庫。それと父は向こうのマンションには死の直前まで出入りしていましたので、そちらの書斎も探しました。向こうに不利になる遺言書なら、そちらのマンションに置いているというのは心情的にないかなと思うのですが。念のため」
「いまだにお父上の気持ちは先方にあったとすれば、そうでしょうね」
城山氏は曖昧な微笑みを返答の代わりにした。
「しかし向こうのマンションはお父上の遺産ではなく先方の女性の名義なんですよね。よく立ち入りを許してもらえましたね」
「事情を説明すれば、すぐに了承してくれましたよ。さすがに二人の立会いの下で私一人で探しましたが」
城山氏はため息をついた。
「向こうは我々に対して常識的……と言えばいいのかな。穏やかに接してくれます。うちは妹は……何と言うのか、そもそも父に対して特に期待もしていなかったので関心がないんですが、母と弟は向こうには……よろしくない態度を取るので、基本的には私がやりとりをするんですが、ちょっとした冗談ぐらいは言い合える間柄です」
「大変ですね」
「そうですか?」
「間に入るのは大変ですよ」
「私は跡継ぎですからね」
ふうん、と朝霞は呟くと、ぽん、と胸ポケットを叩き、そこに何もないことに気付いてちらりと笑った。煙草が吸いたくなったのだろう。
「弁護士にも相談したのですが、遺言書の内容ではなく在り処は専門外だということで、こちらにお邪魔しました」
朝霞は何か考えることがあるのか、ソファにだらりと背を預け薄い唇を尖らせる。だらしない姿勢に吉田は注意しようとするも、城山氏は気分を害した様子はない。
「あまり時間がないので、一週間で遺言書を、」
「一つお聞きしたいことがあるのですが」
城山氏の発言を遮ってまで朝霞が言う。城山氏は怪訝そうに眉を寄せた。
「なんでしょうか」
「何故この事務所に来たんですか?」
「何故……と言っても……インターネットで検索しただけですが」
朝霞はうんうん、と深く頷いて、また胸ポケットを探り、空のポケットに短い爪を立てる。
「わかりました。なるほど」
「お引き受けいただけますか? 私が立ち合いますので今日か明日にでも自宅に来ていただきたい。急な話ですので調査費用にはその分上乗せしていただいてもかまいません」
吉田はひそかに拳を握った。報酬が入るのはもちろん助かるが、久しぶりに朝霞をこの事務所から連れ出すことが出来るかもしれない。
朝霞はじっと向き合っている依頼人を見つめた。そして、静かに金額を口にした。吉田はぎょっとする。
「この額でお受けしましょう。うちの標準の依頼料の五倍ですが」
朝霞の横顔を落ち着いている。吉田は断らせるための提示かと疑ったが、この表情からはそうとは思えない。
「ええ。ではお願いします」
事実、城山氏にとってはたいして高額でもなかったようで動揺もなく受け入れられた。朝霞は痩せた頬を人差し指でかく。
「本当なら、こんな依頼は受けないんですがね」
「探し物は専門外ですか?」
朝霞は首を振った。
「探し物はしますよ。依頼人が本当に探しているなら」
眼鏡の奥で城山氏の目がわずかに見開かれた。朝霞がつまらなそうに続ける。
「遺言書なんてもとからないんでしょう。少なくとも、あなたは新しい遺言書なんて存在しないと思っているし、見つけたいとも思っていない。ここに来たのはただご家族の非難を逸らすためでしょう」
「……というと?」
本当にわからないのではなく、時間を稼ぐためのような問いにも、朝霞はまともに答える。
「新しい遺言書なんてない、今の遺言書は妥当だ。法定相続人でなくとも現金を残す。そうご家族にはっきり言って、非難がご自身に向くのが嫌なんでしょう。だったら間にひとつ何か噛ませたほうがいい。そのための依頼なんですよね」
「……そうお考えですか」
「非難には慣れているので構いませんが、無駄な調査に付き合う気はありません。それらしいご自宅や出入りしていた場所の写真を何枚かいただきたい。それをもとに報告書を作成します。それでいいですか?」
「そうですね……ええ、構いません。写真でも調査はできるでしょうしね」
城山氏は朝霞の推理を肯定も否定もしなかった。実際認めているのと変わらないが、言質を取られない話し方が染みついているのだろうと吉田は思った。
報酬の支払い方などの実務的なやり取りを淡々と終えると、冷めたコーヒーを飲み干して城山氏は立ち上がった。
「では失礼します。コーヒーもご馳走様でした」
朝霞はソファに座ったまま軽く頭を下げる。吉田はドアを開いて退出を待つ。城山氏は事務所から出る一歩前で、ふと立ち止まった。入ってきたときよりも肩が落ちている。朝霞を振り返る。
「……こんなお願いをして、申し訳ないとは思っているんです」
「構いませんよ。嘘をつかれるのは気に入りませんが」
城山氏は微笑んで、わずかに目を伏せた。
「ただ……ただ、もう、こんなときに家族で揉めたくないんですよ。別に……誰が悪いわけでもないじゃないですか。意に沿わない結婚をして義務を果たして、そのあと外に子供を作るのも、最初に思った以上に情が移ってしまうのも、約束を破られて怒るのも、どれも仕方のないことでしょう」
「お金があると色々と大変ですね」
感情のこもらない声で朝霞は言う。
「でもお金があれば揉め事を他人に押し付けることもできる。押し付けた相手に理解まで求めるのはちょっと傲慢ですよ」
城山氏は何かを言いかけて、ただもう一度頭を下げた。
「それではよろしくお願いします」
ちゃんとした人だな、と、吉田は思った。
「あー。受けなきゃよかったかな」
ドアが閉まった途端、朝霞はソファに横になる。吉田がソファの端に座ると、朝霞はその太ももに頭を載せた。
「この枕高すぎる」
「文句言うなら最初からやらないでください」
緩みそうな口元を引き締めて窘める。居心地のいい位置を探すようにごろごろと朝霞の小さな頭が吉田の太ももの上を動く。この人はどういうつもりでこういうことをしているんだろう。助手には探偵の考えが読めない。
「報告書とか書くのめんどいなー。吉田くんやってくれる?」
「なんでですか。そのぐらいはしてください」
「はー。めんどくさいなあ。写真送るの忘れてくれないかな」
「絶対忘れないと思いますよ」
「ああいう人はそうだよなあ」
ぐだ、と朝霞は全身から力を抜く。吉田は朝霞の額に掛かるぱさついた髪を避けてやる。前髪をそろそろ切ったほうがいいかもしれない。上から見ると普段より朝霞の顔は幼く感じて、可愛い。
「先生、聞いてもいいですか」
「うん? 何?」
「なんで遺言書がないと思ったんですか?」
「ああ。わからない?」
吉田は首を傾げる。今となってはもともとないと考えたほうが自然だが、城山氏の話を聞いているときは自分ではまったく思いつかなかった。
「降参します」
あっさり白旗を上げると、朝霞はちゃんと説明してくれた。
「そもそもなんであの人がうちに来るのかって話だよね。このへんには探偵事務所なんてそうないけど、城山家の人間に他に選択肢がないわけがない。本気で探してるなら故人の性格とか、家の実情に詳しい相手に頼んだ方がいいに決まってるでしょう」
「ああ。確かにそうですね」
「それで聞いたらネットで見たって言ったでしょ? うちをネットで調べて来るなんて、真面目に仕事してもらう気がないとしか思えない」
大量の星一のレビューを思い出し、吉田は呻いた。朝霞の肉の薄い額の真ん中を人差し指で圧す。
「誰のせいですか」
「う。でもでも、結果的に割のいい仕事が取れたじゃない」
朝霞が古びたソファを軋ませながら起き上がる。吉田の薄いシャツに包まれた上腕二頭筋のあたりを軽く叩く。
「ねえ吉田くん、僕、ちゃんと仕事したよね」
「なんですか」
「一本吸ってもいい?」
朝霞が薄い唇を尖らせて強請る。中年男がかわいこぶって、と言いたくもなるが、吉田に対しては効果的なのは否めない。吉田は無理に眉間に皺を寄せる。
「だめです。結局外にも出てないじゃないですか」
「えー。横暴」
「とにかくだめです」
「ちぇ」
理屈は通っていないけれど、朝霞は拗ねながらも納得したような顔をしてくれる。朝霞がそうやって好き勝手しているふうを崩さないまま折れてくれるたび、吉田は嬉しくなる。
「じゃあ、口寂しいのはこっちで我慢するか」
なので鍵も掛けてない事務所で唇を重ねてくる年上の恋人を叱るのは、一旦勘弁しておいた。