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水が呼ぶもの

 水は、増えるほどに目立つ。


 井戸が三つになった頃から、列は“生活”になった。

 桶を抱えた腕が震えなくなる。

 喉の渇きが、怒りに変わらなくなる。

 それだけで、人は少しだけ穏やかになる。


 そして穏やかさは――この街では、金の匂いと同じだ。



 水がある。

 だから畑が生まれた。


 最初に植えたのは、痩せた小麦だった。

 畑と言うには小さすぎる、瓦礫の隙間に作った“土の四角”。

 灰をどけ、石を拾い、腐った泥を捨てて、土を入れ替える。


 剣を握るより、よほど面倒な戦いだった。


 だが――


 楽しかった。


 汗が出る。

 手が痛む。

 背中が軋む。

 それでも、終わったあとに“残る”ものがある。


 殺した夜は、死体しか残らない。

 掘った昼は、水が残る。

 植えた夕方は、未来が残る。


 ヴァレオンはそれが、たまらなかった。



 最初の芽が出た日、誰も叫ばなかった。


 ただ、見つめた。

 子どもが土に指を突っ込み、湿り気を確かめる。

 老人が膝をつき、芽の近くの石をそっと退ける。

 繕う手が、畑の端に布切れを立てて風よけを作る。


 誰も「国」なんて言葉を使わない。

 けれど、ここはもう“生きる場所”だった。



 ――だから、来る。


 水の匂いを嗅ぎつけた連中が。


 夜。

 畑の外れの瓦礫が、かすかに鳴った。


 見張りに立っていた若い男が、灯りもつけずに戻ってくる。

 息が荒い。怖いのではない。焦りだ。


「……影がいた。四人以上。桶を持ってない」


 桶を持ってない者は、水を運びに来たんじゃない。

 水を“奪いに”来たんだ。



 この場所には、剣はある。

 だが弾はない。


 撃てば勝てる。

 だが撃てば、明日が減る。

 畑の種も、医者の薬も、子どもの食い扶持も――一発ごとに削れる。


 だから、ヴァレオンはすぐには殺さない。


 奪う連中を殺すのは簡単だ。

 難しいのは、奪わせない仕組みを作ることだ。



 翌朝。


 ヴァレオンは井戸の前に立ち、周囲を見渡した。

 集まっていたのは、剣を持つ手だけじゃない。

 土を読む手。鉄を打つ手。繕う手。祈る手。記録する手。


 彼は言葉を選ばない。

 短く、必要なぶんだけ吐く。


「井戸は増やす。畑も増やす」

 一拍。

「だから守る」


 それだけで、空気が固まった。


 守る、とは。

 戦う、とは違う。


 守る、とは――毎日ここに立つことだ。



 組織が必要だった。

 誰かの気分や勇気で回る“見張り”じゃ足りない。

 水は日々流れる。だから守りも、日々回らなきゃいけない。


 ヴァレオンは、井戸の周囲に石を積ませた。

 低い壁。銃弾を止めるほどじゃない。

 だが、走り込んで桶を奪う足を鈍らせるには十分だ。


 次に、入口を絞った。

 井戸へ行く道を二本に減らし、見張りが目で追える距離にする。


 さらに、合図を決めた。

 鐘も銃声も使わない。

 鉄片を叩く音。三回。

 それで全員が“水から離れる”。


 守る側は、離れない。

 水が守られるから、民が離れられる。


 役割が分かれた瞬間、ここは“集まり”ではなくなった。



 名前も要る。


 誰が、何を、どこまでやるのか。

 それが曖昧なままだと、誰かが死ぬ。


 記録する少女が、紙片に文字を書いた。

 汚れた手で、丁寧に。


 水を守る者たち。


 大げさな称号じゃない。

 ただの役割だ。

 だが役割は、人を強くする。



 夜。


 招かれざる影がまた来た。


 今回は六人。

 鉄パイプ、ナイフ、短銃が一本。

 桶は持ってない。


 水番の見張りが、石壁の陰で息を殺す。

 合図の鉄片が、三回鳴る。


 民が動く。

 誰も走らない。

 騒がない。

 列は崩れない。


 “秩序”が、静かに形を見せた。



 ヴァレオンは前へ出た。


 銃を抜かない。

 マチェットも見せない。


 代わりに、スコップを肩に担いだまま、立つ。


 奪いに来た連中が笑った。


「なんだここ。王様ごっこか?」

「水が出るって噂は本当だったな」


 ヴァレオンは一歩だけ進む。


「水は売らない」

 短く言う。

「奪わせない」


「じゃあ――」


 言い終わる前に、足元の影が崩れた。


 水番の軽い者が、瓦礫の裏から足を刈った。

 倒れた男の手からナイフが落ち、石に当たって乾いた音を立てる。


 銃声はしない。

 悲鳴も長くは続かない。


 重い者が、壁の陰から出て“押さえる”。

 刺さない。撃たない。

 ただ、骨が折れる手前で止める。


 奪う者に必要なのは、死ではない。

 “次はもっと痛い”という理解だ。



 残った連中が後退する。

 引き金に指をかけた男が、迷った。


 撃てば勝てる。

 だが撃てば、ここは“奪い合いの場所”に戻る。


 ヴァレオンはその男を見た。

 目だけで答える。


 ――撃てば、お前はここで終わる。

 だが撃たないなら、帰れる。


 男は唾を飲み、銃口を下げた。

 そして連れて逃げた。


 去り際に、捨て台詞が飛ぶ。


「……また来るぞ。水は金だ。誰かが握る」


 ヴァレオンは返さない。

 返事は、掘る音で十分だった。



 翌日。


 畑に水が回った。

 溝が増え、土が黒く湿る。

 芽は少しずつ背を伸ばす。


 井戸も増やす。

 死んだ井戸を蘇らせ、新しい井戸も掘る。

 水が増えれば畑が増える。

 畑が増えれば人が増える。

 人が増えれば――また目が増える。


 だから水番も増やす。

 守る仕組みも、増やす。


 戦いではない。

 建設だ。


 ヴァレオンは泥だらけの手を見下ろし、

 ほんの一瞬だけ口元を緩めた。


 この街で初めて、自分が“作っている”と感じた。



 だが夕方。


 見張りの者が、戻ってくる。

 顔が青い。焦りが違う。


「……今度の影は、さっきの連中じゃない」

「数が多い。武器も揃ってる。……それに、旗がある」


 旗。


 この街で旗がある連中は、ただの野盗じゃない。

 組織だ。

 取り立てだ。

 “水を握る者”だ。


 ヴァレオンはスコップを置かないまま、言った。


「水を嗅ぎつけたのは――末端じゃないな」


 そして、初めて“作る王”の声に、刃の硬さが戻った。


「……水番を集めろ」

「守る。ここを」


 井戸の底から湧いた透明は、

 いま――血を呼ぶ直前の匂いを帯びていた。

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