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清き水

 灰が舞っていた。

 戦の匂いは薄れたのに、喉の奥の乾きだけは残る。

 焼けた土は固く、風は砂を運び、口を開けば粉が入る。


 国を作ると言った。

 弱い者も迎えると言った。

 だが――この地で最初に必要なのは、旗でも剣でもなかった。


 水だった。



 拠点の裏手。

 かつて井戸だった場所は、瓦礫に埋もれていた。

 石枠は崩れ、底には黒い泥水。

 近づくだけで、腐った匂いが鼻を刺す。


 誰かが覗き込み、短く言った。


「……飲めない」


 別の誰かが唇を歪める。


「腹を壊す水だ。これじゃ、民は増えねぇ。減るだけだ」


 さらに別の誰かが、周囲の地面を見回し、低く呟いた。


「水を握る者が、街を握る。……この土地は、まだ誰かに握られている」


 ヴァレオンは何も言わず、井戸跡を見下ろした。

 剣を握った手より、泥で汚れた手のほうが、今は必要に思えた。



 翌朝。

 ヴァレオンは一本のスコップを持っていた。


 刃は鉄だが、形が違う。

 殺すための刃ではない。

 掘るための刃だ。


 周囲の者たちは、一瞬、言葉を失った。


 “上に立つ男”が、武器を置いて土を掘る。

 この街では、あり得ない光景だった。


 ヴァレオンは何も言わず、地面にスコップを突き立てた。


 乾いた音。

 土が割れ、灰が舞う。


 それだけで、場の空気が変わった。



 井戸掘りは遅い。


 一振りで終わらない。

 一日で結果が出ない。

 血も流れない。

 歓声も起きない。


 だから誰もやらない。

 奪うほうが速い。

 殺すほうが簡単だ。


 けれどヴァレオンは掘った。

 黙って掘った。

 呼吸だけが一定だった。



 昼、ひとりの老人が近づいた。

 片足を引きずり、壊れたバケツを抱えている。


「……何をしてる」


 ヴァレオンは顔を上げずに言う。


「水を探している」


 老人は乾いた笑いを落とした。


「ここに水なんてない。だから皆、死んだ」


 ヴァレオンは掘る手を止めない。


「だから掘る」


 老人はしばらく見ていた。

 何かを確かめるように、黙って。

 そして――何も言わずにスコップを拾い上げた。


 隣に立った。


 二人になった。



 夕方。

 少女が来た。

 汚れた布を抱え、怯えた目で穴を覗く。


「……ほんとに、綺麗な水が出るの?」


 そばにいた女が、膝を折り、静かに言った。


「出るまで掘るんだよ。奪わない水は、自分で作るしかない」


 少女は迷い、やがて小さな手で土を運び始めた。


 三人になった。



 次の日。

 鍛冶の手を持つ者が来た。


「刃が欠ける。直す。……いや、増やす」


 土を読む者が来た。


「ここは粘土、ここは砂。掘り方が違う」


 繕う手を持つ者が来た。


「倒れる者が出る。水が出る前に死なせるな」


 祈る者が来た。


「水は命だ。ここに灯を残したい」


 井戸の周りに人が増えた。

 剣を持たぬ者が、剣よりも確かな動きで働いた。


 誰も“国のため”とは言わない。

 ただ、生きるために集まった。


 それが国だった。



 五日目。

 穴は深くなった。

 地面の温度が変わる。

 空気の匂いが変わる。


 土を読む者が指で層を確かめ、低く言った。


「もう少しだ」


 力のある者は泥だらけの腕で汗を拭い、笑った。


「掘る戦いのほうが、よっぽどきついな」


 影のように動く者は黙って頷き、土を運ぶ速度を上げた。


 ヴァレオンは一度も休めと言わない。

 一度も行けと言わない。

 ただ先に掘る。


 それが合図になっていた。



 七日目。


 スコップが、硬い層を抜けた。

 音が変わった。


 誰かが息を呑む。


「……来た」


 次の瞬間。


 冷たいものが、指先に触れた。


 一滴。

 次に、細い流れ。

 そして――


 澄んだ水が、闇の底から滲み出した。


 透明だった。

 灰の世界に、初めて現れた“透明”だった。


 誰も叫ばない。

 ただ膝をつき、手を差し出した。


 冷たい。

 痛いほど冷たい。


 だが、臭くない。

 濁っていない。

 奪った水ではない。

 誰の許しもいらない水だ。


 自由な水だった。



 老人が震える声で言った。


「……生きていいのか」


 女が答えた。


「生きていい。ここはもう、そういう場所になる」


 少女が水を掌ですくい、口に運んだ。

 目を見開き、泣きそうになって笑った。


 その笑いは、弱さじゃなかった。

 この国の最初の強さだった。



 ヴァレオンは立っていた。


 剣ではなく泥にまみれた手で。

 血ではなく水に濡れた手で。


 その背を見て、人々は理解した。


 この男は奪う王ではない。

 掘る王だ。

 生きる場所を作る者だ。


 そして――

 ここに集まった者たちは、もう散らない。


 水がある。

 自由がある。

 それだけで、人は国になる。



 灰色の街に、初めて色が宿った。


 旗ではない。

 火でもない。

 血でもない。


 井戸の底から湧いた、透明な光だった。


 国は――

 水から始まった。

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