奈落 ― 決戦前夜
人を楽しませようと思って書き始めた物語は、人を楽しませるものではなかった。
それは奈落だ。
言葉は力を持ち、現実にまで及ぶ。だからこそ、この物語は毒を孕んでいる。
語ろうとすること自体が罪悪であり、読むことすらまた業となる。
だが、それでも記さねばならぬ。
これから語るのは、ヴィヴィアの地に刻まれた最も暗く、最も重い戦い――
幾つもの命が散り、やがて建国の礎となる、血塗られた真実である。
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夜は深かった。
焚火の火は小さく揺らぎ、兵たちはそれぞれの持ち場で息を潜めていた。
明日、彼らの多くはここにいない。
それを誰もが理解していた。
レインズは静かに剣を磨いていた。
その背に映る炎の影は、やけに長く、重く、揺れていた。
「…明日は、必ず終わらせる」
誰にともなくつぶやいたその声を、夜風だけが聞いていた。
近くでは、ドレクが粗末な革袋を抱え、仲間と酒を分け合っている。
笑ってはいるが、その笑いはどこか空ろで、目の奥に怯えが滲んでいた。
「最後に飲むなら、今しかねえだろう」
彼はそう言って杯を掲げたが、その手は震えていた。
ティクは火から離れ、闇の中に立っていた。
彼はただ星を見上げている。
その眼差しには、戦場を越えた遠い未来を見ているかのような光があった。
――ひとりひとりに、最後の夜がある。
だがそれを描くことは、また言葉の罪を重ねることに他ならない。
それでも、書かねばならぬ。
これが、奈落の戦いの始まりである。