愛する事と殺す事
息子を殺してしまおう、と思った。
何があったか原因など知り得ないが、よそ様の子供の頭に、手術が必要な程の大怪我を負わせて帰って来たからだ。もしかすると障害が残るかも知れない、と、相手の父親は電話口から静かな憎悪を叩きつけた。
いつかこんな事をやるかも知れない、と思っていたが、現実になってしまった。息子は、物心ついた頃から、怒り出すと止まらない子供だった。それも、この子自身にしか分からない場所にトリガーがあって、それが引かれれば、もう何をどう言ってもダメ。いつかこんな事になるのは分かっていた。だから、この一件についての喧嘩の種が分かったところで、それは物事の表面に過ぎない。こんな大事になってしまうのは、やっぱりこの子の内側に、もっと深い根源がある。
息子を殺してしまおう。そう決心すると、不思議と、これまでの様に不安に駆られて迷路の様な叱責を始めねばという、抑えがたい衝動もなくなった。どうせ私達はこれから居なくなるのだ。それなら、もう先の事にあれこれ気をもんで、倫理に休んでいる時間まで急き立てられなくてもいい。
息子は、もうやってしまった取り返しのつかない事を忘れているかの様に、机に向かって何かの本を拡げていた。これがテレビゲームやパソコン画面に向かっていたのだったら、後ろから鈍器で殴りつけて顔も見ないまま殺してしまう事も出来たかも知れない。でも、本だからよかった。最終的な結果は違わないにしても、よかった。
子供は、大抵なにもかもすぐに忘れて別の事に気持ちを移せる。そういう所に悪いものも宿れば、可愛らしさ、良いものだって宿り得る。激すれば産んだ事を後悔する程嫌になるうちの子でさえも、その子供らしさの二面性については変わらない。
悪い所もあれば、可愛くて仕方がない所もあった。厄介な事に、その両者は目に見えない領域の中の似た様な所に在って、よく見つめると互いに入り組んでいた。きっと、私の育て方がもう少し違っていれば、もう少しマシだったならば、私達はこんなことにはならなかったのかも知れない。そう思うと、息子の背中に、哀しい愛おしさが感じられて仕方がなかった。この子は悪いにしても、何もこの子だけが悪いのではない。私も悪い。私達の様に上手く出来ない人間を発生させるこの世界も、幾らかは悪い。世界については、もはや何も分からないけれど。
だから、後ろからそっと抱きしめた。どうせこれから殺さなければならないのだ。この世界で生きていくのになにか足りなくて、死んでしまう私達。何かに罰せられて、こんな風になってしまった。私達は私達なりに頑張ったつもりだったけれど、世の中の基準を満たすには足りなかったらしい。それで結局、この世の中で生きていくことは諦めなければならない。それは認めよう。でも、その代わり、この短い、まるで本当に上手くいっている親子みたいにくっ付いている、僅かな時間だけは、勘弁してもらおう。神様が、もう勘弁してやらないと言い出すまでは、私はこれから殺す息子を、これからも守っていくみたいに抱き締めていよう。
息子は黙っていた。抱き締めていると、黙って抱かれている息子が本当に愛おしくて溜まらなかった。でもどうやって殺そうか。いや、このまま、何も考えないで、暫く、こうしていようか。
ふと、机の上の本の内容が見えた。首を吊る為に最適な縄の結び方が書いてあった。窓から吹き込む風が、ランダムにページを捲る。どのページにも、自殺をする為の技術が書いてあった。
そして息子は、
「母ちゃん」
と短く言った。まるで、言葉を話始めた当初の、あの優しい言い方そっくりだった。あの時は、これからこの子がどんどん新しい事を臆せず学んで、自由に進んでいけばいい、と心底思った。
それなのに私は、この子をもう殺そうとして抱き締めている。それなのにこの子は、どうやって自分を殺そうかと、本に相談している。そして、母親であるこの私も、この子を殺そうとしている。息子を殺す事を決心して初めて、それでやっと未来の事を忘れて、抱き締める時間を設けられている。
「母ちゃん」
と、また言った。本当に、舌足らずな、幼児の時と同じ優しい声だった。私はこの子を、産んだり、殺したりする。本当に、苦しい。生きているって。
私個人の信条としては、殺す責任より、殺さない無責任を評価する。…でもこの信条は弱いので、時々分からなくなる。例えばこうして、自分の考えている事を書こうとする時。




