Weigh yourself in the past and now.
正義はあるべくして存在する。
どんな問題にも必ず、難問や珍問にだって。
どんな人にだって各々が胸に抱いているだろう。
それは客観的に見れば、価値が無くくだらないものだったり醜いものだったり認めづらいものである。だが主観的に見たならば、己にとっての美学となり誇りだったり生き甲斐になったりする。僕の場合は後者。自らの正義を貫き揺るがせない、絶対的な自信がある。
そう、決して揺らがない、正義が。
ある、はずだった。だけど心のどこかで思ってしまった。正義は本当に正しいのか、と。一度疑惑に思ってしまえば、身体を思考が蝕んでいくのだ。悩み続ければ余計に。そしていずれは、悪になってしまうのだろうか?今までの努力が偽善に思えて、疑惑を生じ、悪に手を染めてしまうのか?
殺すことは悪だ。
ならば、罪人を処刑するのは悪なのだろうか?
人を助けることは善だ。
ならば、人助けに他人をしに至らしめるのは善なのだろうか?
何事にも犠牲が伴い、ようやく対等となる。等価交換ってやつだろうか。それでも深く深く考える。
世界を救う為に一人を犠牲にするか。
一人を救う為に世界を犠牲にするか。
これじゃ割に合わない。では詳しい条件をつければどうだ?
例えば、その一人が自分が唯一愛した恋人だったらーーーーと考えると果たして対等と言えるのだろうか。そうゆうのには無縁だからわからないけど、物語の主人公はここで奇跡的な力で第三の選択を見つけ出し、世界を救うだろう。
何という理不尽。
何という不条理。
世界と僕では比較にならないほどに、対等でないのだ。選ばれた者にしか与えられない者が、選ばれない者との差。
奇跡という言葉で誤魔化された理不尽な悪。
だから、こう考える僕は敢えて言わせてもらう。
生まれた瞬間は平等であり、
与えられる死は平等にある。
が、育む生は平等でない。
この世に生まれた理不尽を産声で叫び、
その過程で不条理にぶつかり、
歪みを生む。
その過程で優しさを知り、
愛を生む。
その過程で巡りあい、
感情を育てる。
人生はそうゆう循環をしている。
既にこうゆう思考に陥っている自体が間違いだとは僕はまだ気づけない。だってその要因である者達と隣にいるのだから。きっとこいつらが隣にいる限りその思考は人生の挫折の壁、成長の壁となるはずだ。
途中、めげて諦めたくなって捨ててしまいたくなっても誰の助けも求められない。だから、せめて。
最後の選択は絶対に間違うな。
Weigh yourself in the past and now.