第二章 氷刃の騎士(③命懸けの逃避行)
レイラは、文字通り命賭けで走っていた。
あの恐ろしい化け物——あれが人間であるはずがない——に捕まれば、間違いなく命はない。なにより、もう何十本目かの氷の槍の投擲は、確実にレイラを殺しにきていた。レイラは、家や屋台、篝火など、あらゆるものを使って氷の槍を避け、あるいは化け物の意表をつく方向転換で距離を取ろうとしていた。この村で育ったレイラには、家の並びから裏の細道まで、あらゆる村の構造が頭に入っている。それらを最大限に活用しなければ、あっという間におしまいだ。
氷の槍は、家の壁などに見境なく当たり、破壊の限りを尽くす。もはや攻撃を受けているのはレイラだけとは言えず、カタリナ村の村人たちにもかなりの被害が出始めていた。もちろん抵抗する者もおり、彼らは剣や弓で化け物に狙いを定めたが、大半が一瞬で返り討ちに合い、氷の槍で串刺しにされた。凍てついた空気に悲鳴が飛び交い、たった一人の化け物の手で、村に死と恐怖が振り撒かれる。
どうしてこんなことに……。
レイラの頭を何度もこの疑問がよぎったが、逃げながらではとても考えがまとまらなかった。周りの空気がどんどん冷たくなり、走っているはずなのに、寒さで体が震えてたまらない。
四方を逃げ回った挙句、レイラは物見櫓の陰にしゃがみこむと、ようやく一息ついた。
……と、思ったのだが。
その時、巨大な氷の槍が物見櫓を直撃した。物見櫓は大きく傾くと、隣町まで聞こえるほどの大音響を上げて崩れ去った。バラバラになった木材に篝火が引火し、見る間に激しい火の手が上がる。レイラは悲鳴を上げて跳ね起き、再び駆け出したが……数歩も行かぬ間に、翼を生やした化け物が立ち塞がり、レイラは膝をついた。
「あなたのために、結構な手間がかかってしまいました。無駄な犠牲も増やしてしまって、ご主人様がどう思われるか……。」青い髪と大きな翼を生やした化け物——エギルは、まるで良家の執事のような畏まった口調で言った。「あるいはあなたが魔術師なら、その価値もあったのですが、どうやら違うようですね。」残念です、と続けたいのがありありと伝わってくる。
「魔術師って……なんのことよ。」レイラは上がる息を抑えながら、なんとか言葉を押し出した。
「おや。あなたも先ほどの哀れなご老人と同じように、何も知らないとおっしゃるんですね。興味深い。」エギルはレイラの顔をじっと見た。
こんな状況でなければ、この魔神の姿が見る人を虜にするほどの美貌であることに気づいただろうが、レイラの頭に浮かんだのは恐怖だけだった。
「まぁ構いません。もう少し自分の力で探してみることにします。それでは、あなたの魂が、あの哀れなご老人と一緒に、安らかに天に召されますよう。」そう言うと、エギルは片手を上げた。
空中に青い光が煌めき、氷の槍が現れる。レイラはぎゅっと眼を閉じた。串刺しにされる衝撃に体が身構える。
……何も、起きない?
しかしいつまで経っても、その衝撃はやってこなかった。
「……あぁ、やっと出てきてくださったようですね。あまりに遅いので、だいぶ苦労いたしましたよ。」
レイラが眼を開けると、エギルはもうレイラを見てはいなかった。
カタリナ村では見たことのない、褐色の肌に艶やかな黒髪、口には不適な笑みを浮かべた少年が、いつの間にかレイラとエギルの間を遮るように立っている。
「——どこの誰だか知らねぇが、仕事だからしかたなーく助けに来てやった。だがまぁ、こっから先の責任は持てねぇから、せいぜい頑張って生き延びろ……よっと!。」
言うが早いか、黒髪の少年は片手でレイラを軽々と持ち上げると……燃え盛る炎の方へ、思い切りぶん投げた。
「え、待って。きゃぁぁぁぁぁ!」
今日一番の悲鳴をあげたレイラの体は、燃え盛る炎の上を弧を描いて飛び越えたかと思うと、そのままの勢いで地面に迫った。しかし、地面に直撃する寸前、細いがしっかりした誰かの腕に抱き止められ、事なきを得る。
「おい!僕がうまくキャッチしなかったら、大怪我させてたぞ!」
「そんなこと知るか!俺は、おまえがその小娘を助けてやれって言うから、逃してやっただけだ。命令通りだろ?」黒髪の少年は、声がした方を見向きもせず、小馬鹿にしたように笑うと、改めてエギルに眼を向けた。「久々にこっちの世界に来て、誰に会えるかと思ってみれば、コイツとは初対面だなぁ。」
「えぇ、我が同胞よ。私も同感です。」エギルはそう言うと、少年に眼を釘付けにしたまま軽く一礼した。「私の名はエギル。この地を統べる影の代行者に仕える魔神です。以後、お見知り置きを。」
「エギル?聞いたことねぇな。まぁ何の力もねぇ小娘のケツを追いかけ回してるくらいだ。たいした魔神じゃねえな。」
「……好き放題言ってくれるじゃないですか。そういうあなたのお名前は?」
「お、よく聞いてくれたな。いいか、聞いて驚くなよ……。」黒髪の少年はわざとらしく大きな咳払いをすると、腰に手を当て、芝居がかったポーズを取った。「俺の名はロキ。数千年の時を生きる誉れ高き魔神にして、そのキャリアにおける輝かしい功績は数知れず。モートル大湿原の戦いでは数万のゴーレムを一夜で全滅させ、ジョージ九世の後継者戦争の時は敵軍三万を一人で葬り去った。異世界でも人間世界でも、俺の名を知らぬ者はない。最も強く、最も有名な魔神とは俺のことだ!」
「……申し訳ないですが、まったく聞いたことがないですね。」ロキの大演説を、エギルはバッサリと切り捨てた。
「なに?俺のことを知らないだと?ちっとは歴史の勉強を——。」
「——それに、モートル大湿原の戦いは、『三水晶の盾』を再起動することでゴーレムを駆逐したのだったと記憶していますが?」
「おまえ!これだから教養のないヤツは……。」
淡々と反証を述べるエギルに対し、ロキがムキになって何か言い返していたが、レイラには、そんな二人の魔神のやりとりは聞こえなかった。先ほどから、心臓が早鐘のように打っていて、自分の鼓動の音しか耳に入ってこない。
……マティアスが、助けに来てくれた。
舐めるような炎に照らし出され、マティアスの豪奢な金髪が輝きを帯びる。
「離れていてくれ。あいつは僕たちがどうにかする。」
マティアスが透き通る青い眼をレイラに向けて言うと、レイラはただこくんと頷くことしかできなかった。
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☆★☆ 御春 旬菜 ☆★☆