第一章 亡国の王子(③決意の旅立ち)
ケイレブは、マティアスの眼をしっかりと見返した。青い眼の底に宿る光は、初めてこの少年に出会った時と同じものだ。必ずリリーを助け出す。その言葉も、いったい何度聞かされたことか。最初の時期は、寝ても覚めても、うわ言のように繰り返していた。五年の月日の中で、次第に眼に宿る光は和らぎ、うわ言は消え、気性も本来の陽気さを取り戻しているように見えたが、彼の根底にあるものは何も変わっていなかったのだ。
妹のリリーを救い出す。母エリアと親友ジェイセン、そしてゴーレムを切り伏せてマティアスをケイレブのもとまで送り届け、力尽きた師モーガン。死んでいった彼らを救うことはできなくても、まだ生きている妹だけは、なんとしても取り戻す。
今も昔も、これがマティアスの生きる目的なのだ。
「……死ぬかもしれんぞ?それにおまえの妹だって、生きているとは限らん。」
長い沈黙の後、ケイレブは絞り出すように言った。とはいえ、マティアスの返答は分かりきっている。
「もともと、拾った命だよ。それをリリーを助けるために使えるなら、それが本望だ。たとえ、リリーがもう——。」マティアスは一瞬言葉を切る。「——死んでいるとしても、それを知らずに生き続けるよりも、ずっといい。」ふっと笑った顔に、一抹の陰りが見えた。
ケイレブにとって、この表情はもう見慣れたものだった。親族を失い、生きる寄る辺を失った者たちの多くは、こんな顔をする。ケイレブ自身、息子夫婦の変わり果てた姿を見た時は、こんな顔をしていただろう。しかし、ケイレブの場合、レイラとマティアスの存在が、彼らを支え育てなければならないという目的意識が、彼を自暴自棄な気持ちから救ってくれたのだ。だがマティアスには、そのような存在はいない。
「……わかった、それがおまえの道ならな。わしが口を出すことではあるまい。」ケイレブは大きく息を吐いた。「だが、無理するでないぞ。そして、目的を間違えないよう。復讐など、何の意味もないし、死んでいった者たちも望まぬだろう。妹を助け出したら、帰って来い。」
「あぁ、約束するよ。」マティアスは、彼を育ててくれた恩人に、なるべく軽い口調に聞こえるように言った。「魔神を偵察に行かせてるんだ。日が沈むくらいには帰ってくるだろうから、小屋でその報告を聞いたら出発する。」
「魔神か。魔神のことはわしもよくわからん。だが、気をつけるんだぞ。」
「わかってる。」マティアスはそう言うと、立ち上がった。しかし、戸口まで歩みを進めて振り返る。「……そうだ。帰ってくるつもりではいるけど、一応伝えておくよ……これまで五年間、ありがとう。」
ケイレブは、胸に熱いものがこみ上げるのを感じたが、一つ咳払いをしてごまかした。「なんだ改まって。さっさと行って、帰って来い。」
「あぁ、行ってくる。」
マティアスは今度こそ振り返らず、ケイレブの家を出て行った。
言うまでもないが、俺はあの小僧が嫌いだ。
だってそうだろう。輝かしいキャリアを誇る魔神であるこの俺、ロキ様を、あんな乳飲み子に毛が生えた程度のクソガキが、王都の偵察に行って来い、と犬でも使いに出すかのごとく粗雑に扱ってくるのだから。
まぁ、いまは犬じゃなくて鷲だが。
昨夜、俺は小僧のボロ小屋を出ると、いったん蝙蝠に姿を変えた。闇夜を移動するには、やはり蝙蝠が一番だ。暗闇でも目が利くし、黒いから闇夜に紛れる上、何より空を飛べる。猫でも夜目が利くのだが、地上の移動が億劫だ。蝙蝠ならその心配はない。俺は蝙蝠の姿で小僧の村を適当に散策した後、小僧の指示にあった東の山へ向かい、そこで夜を明かした。
翌朝——つまり今朝だが——、今度は毛並みが美しい鷲に姿を変えた。空高くから王都の様子を偵察する、という目的に合っているのもあるが、俺のような由緒正しき威厳ある魔神には、やはりカッコいい鷹のような動物がふさわしいだろう。
小僧には、夕暮れまでには戻って来いと言われている。やれやれ。俺はたくましい翼を広げると、空に舞い上がった。
そして、目の前に広がった光景に、思わず毒づいた。
王都ロスリンはよく知っている。初めて召喚されてこの方、半分以上は王都の魔術師に召喚されてきたのだ。思い返せばムカつく思い出ばかりだが、輝かしい俺のキャリアの中で、あらゆる用向きで王都から他の都市へ出向き、また王都に戻った回数は数えきれない。
しかしその王都は、俺の記憶にある姿から、大きく様変わりしていた。
まず、王都を取り囲む城門のあたりに、毒々しく脈打つ血のように赤い結界が張られている。結界は、モノによってはノロマな人間どもには見えないようなものもあるが、これほど強力なものであれば、人間どもの眼でも見えるだろう。むしろ、魔神の中でも指折りの罠や結界の類いのスペシャリストである俺の眼には、あれが通行権のない者の往来を禁じる「断絶結界」であることがハッキリと見てとれた。
それだけではない。その断絶結界の内外には、無数の灰色の物体が蠢いていた。大昔から影の軍勢の太宗を占める厄介なヤツ、影のゴーレムだ。一体一体は、俺のような百戦錬磨の魔神にとっては大した敵ではないが、あれほどの数となると、さすがの俺でも手に余る。
俺は、鷹の呼吸器官に可能な限り深く、ため息をついた。大して呼気は出なかったが。
今回の契約は、最初の軽そうな印象から打って変わって、後から契約の難易度がグングン上昇していくときたもんだ。しかも、加速度的に。毎度のことながら、この関係を契約と名づけることに疑問を感じざるを得ない。
そう。あの小僧が、妹を助けたいと言った瞬間、俺は歓喜したのだ。
たいてい、魔神と魔術師の契約は、二パターンに分けられる。パターン一、ノルマを一回達成すればクリア、という簡単なもの。ムカつくヤツの家を爆破してこいとか、妻の浮気相手を殺してこいとか、その手のくだらない契約がこれにあたる。これは、突然腕に魔術師の刻印が現れ、王国が魔術師に求める役割をろくに知らないままに魔神を召喚してしまった場合、いわゆる素人召喚の場合が多い。
パターン二は、ノルマ達成が超長期的なもの。いわゆる玄人召喚の場合だ。自分が死ぬまで何でも命令を聞くこと、といった曖昧な願いだと刻印によって弾かれやすいが、例えば、自分が王国宰相になるために手助けすること、影の軍勢が国境を超えないよう警備すること、といった、ある程度目的が明確なものは契約として有効だ。こういう、目的はある程度明確だが、いつまでやれば終わりなのか曖昧、というどうしようもない契約条件を提示されたが最後、魔神は最大十二年間にわたり、奴隷として長いことこき使われることになる。
王国は、古くから影の帝国による侵略に悩まされてきたが、数千年前、最初の三人の魔術師が現れ、強大な三体の魔神を召喚すると、影の帝国を東の山脈の向こうへ追い返した。三人の魔術師の死後、影の帝国は再び力を盛り返したが、腕に刻印が現れた三人の人物が、新たな魔術師として彼らの力を引き継いだ。王都ロスリンに招かれた彼らは、再び影の帝国を追い返すことに成功する。
以来数千年に渡り、王国は刻印を宿す三人の魔術師に守られ続けた。魔術師や魔神が死んだ場合や、契約が履行された場合、あるいは契約が履行されないまま契約の有効期限である十二年が経った場合、魔術師の腕の刻印は無作為に転移する。したがって、王国は少なくとも十二年ごとに刻印の転移先を探して国中を捜索し、見つけた新しい魔術師を王都ロスリンに招いて国の守りに従事させる……そういうことを、ずっと続けてきた。
そんなわけで、王国お抱えの魔術師との契約であればパターン二。王国にバレずにこっそり誕生した魔術師との契約であればパターン一。これがセオリーなのだが……明らかに、今回の召喚はこのセオリーから外れている。
妹を助けたい、などという願いは、明らかにパターン一だ。何も知らないクソガキが、腕に現れた刻印の意味もろくに知らないまま、刻印から頭に流れ込んでくる魔法陣や呪文、薬草の情報をもとに召喚を行い、後先考えず、目先の願いを口に出したとしか思えない。誘拐犯だか駆け落ちした彼氏だか知らないが、その手のヘナチョコな人間どもから娘っ子一人を取り返してくるなんて、俺にとっては朝飯前だ。俺は、ささっと仕事を済ませて、あっという間に契約を履行、異世界に戻れる……ということだと思っていたのだが、あの小僧の説明を聞くにつれ、どんどん雲行きが怪しくなってきた。
その妹とやらは、王都ロスリンの王宮に囚われている?
王都は、五年前から影の軍勢の支配下にある?
……なんだそりゃ。
どうやら、王国の連中は相当なちょんぼをやらかしたらしい。初代の三人の魔術師が現れて以来、多少の小競り合いや、小手調べ的な攻撃はあっても、影の帝国が本格的に王国を侵略したことはない。それはひとえに、初代の三人の魔術師が残した強力な魔法装置の力によるものだ。
初代の三人の魔術師は、強大な三体の魔神の力で影の軍勢を王国から追い払った後、彼ら三体の魔神を純粋な力に昇華させ、「三水晶の盾」と呼ばれる魔法装置を作り上げて現在で言う王宮の天文台に封印した。王国を守る力が封じ込められたこの装置は、魔術師が一人いれば起動でき、その魔術師に刻印があり続ける限りは起動状態が維持されるため、王国は、最低でも一人の魔術師を探し出し、王宮のお抱えとすることができれば、王国の安寧を保つことができた。実際、三人すべての魔術師が王都で召し抱えられている時期もあれば、王都に魔術師が一人しかおらず、十二年の契約期限が切れるまでに、王国が血眼で他の魔術師を探し回っている時期などもあったが、数千年に渡って、最低一人以上の魔術師が必ず王都におり、「三水晶の盾」の力で王国を影の帝国から守り続けている、という状態が続いていたのだ。……五年前までは。
いま現在、王都が影の軍勢の支配下にあるということは、王都に魔術師が一人もいなくなり、「三水晶の盾」がオフラインになったところにつけ込まれたのは明らかだ。まぁ、おそらくは影の皇帝の策略によるものなんだろうが、それでも数千年来の大ちょんぼには違いない。
そんなわけで、なんでそうなったかは知らないが、ヤツの妹が王都に囚われているというなら、俺たちはまず、敵の占領下にある王都に突撃をかけなければならない。ついでに、「三水晶の盾」という弱点がある以上、王都では魔術師や魔神による襲撃も想定した警戒体制がバッチリ取られているはずだというオマケつきだ。さすがにここまで来ると、いかに多才多能で実績豊富な俺でも、あまりに濃密な過重労働の匂いに、げんなりせざるを得ない。
俺は、キリッとした鷲顔を不満の色で曇らせながら、その後も王都や山の偵察を続けていたが、夕暮れ前で適当に切り上げると、小僧のボロ小屋への帰路についた。
……夜の帳が降り、闇に包まれたカタリナ村に、彼らは突然やってきた。
「ご主人様、ここです。」
長いマントを着た二人の男は、カタリナ村の門を前にして立ち止まった。篝火が彼らの甲冑を照らし出し、騎士然とした彼らの装備を明らかにする。
ご主人様と呼ばれた男は、何も言わなかった。彼はフェイスガードをつけており、表情が伺い知れない。呼びかけた青い髪の男が、微かに表情を曇らせた。
「もちろん、ご主人様のお手を煩わせるまでもなく、私が——。」
「——いや、いい。」
決して大きくはない、しかし芯の通った声が遮った。青い髪の男が、即座に口をつぐむ。
「気遣いはありがたいが、これは私の仕事だ。」
フェイスガードの男はそう言うと、再び歩みを進めた。
彼の後ろから、夜風にしては冷たすぎる、氷のように冷たい風が、カタリナ村に吹き込んでいった。
「魔神と魔術師」をお読みいただいて、本当にありがとうございます!
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(私のモチベーションがものすごく上がって、「よーし、がんばって続きを書くぞ!」という気持ちになれます…!)
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