終章 願いを君に(①旅の仲間)
終章 願いを君に
王都ロスリンは、人でごった返していた。
毎日大勢の人が城門をくぐり、日に日に王都の人口が増えていく。大通りには引越し用の荷馬車がいくつも停まり、荷下ろしや新しい家具の調達に努める人々の姿で溢れかえっていた。
それもそのはずだ。五年前の王都陥落によって、王都の人々は全員が殺されるか、逃げ出すか、あるいは王宮の地下牢へ幽閉された。これに伴い、すべての住宅——しかも王都の高級住宅——が空き家となり、新たな居住者の到来を待っていたのだ。三ヶ月前、王都ロスリンが解放され、王国を支配していた影の執行官とゴーレムが揃って影の帝国に敗走したとの報が王国を駆け巡って以来、王国中から王都への移住を求める人々が押し寄せ続けているのは、自然な流れだった。
そんな人々がごった返す街の中を、マティアスは顔を伏せ、フードを被りながら、急ぎ足で歩いていた。
「……あぁ、あたしもその話は聞いたよ。ありゃ本当かいね。なんたって、あのマティアスが本当に……。」
ふと自分の名前が耳に入り、チラッと眼を向けると、カタリナ村のドロシーばあさんが井戸端会議をしていた。あの歳でカタリナ村から王都に移住し、一儲けしようと言うのだろうか。見上げた商人根性だ。
しかし、ここでドロシーばあさんに気づかれてしまえば、あっという間に野次馬に取り囲まれることになる。マティアスは顔を伏せたまま、無言でドロシーばあさんの横を通り過ぎた。
「……おい、いまおまえの話が聞こえたぞ?」
マティアスの肩の上で、小さなハムスターが声を上げた。その可愛らしい容姿が、粗野な口調とまるで噛み合っていない……いや、そもそもハムスターが喋っているという時点で、普通ではないのだが。
「僕も聞いてたさ。でも、いま知り合いに見つかったら、マズいだろ?」マティアスは小さな声で言い返した。
「あぁ?別にいいじゃねぇか。なんたっておまえはこれから——。」
可愛らしいハムスターの姿をしたロキが言いかけたが、マティアスは首を振ってそれを制した。
「——とにかくダメなんだ。僕はなるべく、みんなからそういう眼で見られたくない。それより、さっさと王宮に行こう。」
そう言うと、この話は終わりだとばかりに、マティアスは先を急いだ。
マティアスは王宮にたどり着くと、かつて王国書記官の執務室として使われていた小部屋に向かった。軽くノックして部屋に入り、ようやく一息つく。
「……あれ、マティアス?君がいま、こんなところにいていいのか?」この部屋の現在の主、ジェイセン・ランズベリーが突然の訪問者を迎えた。「そろそろ式典の時間だろう?私でさえ、そろそろ行こうかと思っていたところだ。」
「いや、もちろん行くには行くんだけど……ちょっとここで、休んでから行こうかなと思って。」
マティアスが歯切れの悪いことを言っている間に、ハムスターが肩から降り、一瞬でいつもの褐色の肌に黒髪の少年に戻った。ただ、いつもと違って、今日の服装はバッチリと燕尾服でキメている。
「やぁ、ロキ。」
「おう。」ロキはジェイセンの挨拶に軽く手を上げて応えると、マティアスの方を顎でしゃくった。「コイツ、てんで乗り気じゃねぇんだとよ。代わりにおまえがやった方がマシかもな。」
そんなロキの発言を、ジェイセンは笑って流した。
「さすがに、影の代行者だった私がやったら、冗談を通り越して暴動になるさ。それにマティアスは、こういうことが嫌いなわりに、やってみれば意外とうまくこなすから心配いらない。」
そう言うと、ジェイセンはメガネをすっと押し上げて手元の書類に眼を通し、机に置かれた複数の箱に振り分けた。机の上には、膨大な紙の書類が溢れている。
「それにしても、おまえにデスクワークができるとは意外だぜ。」ロキはジェイセンのメガネを見ながら言った。「見た目にもそれっぽい感じが出てきたな。」
「あぁこれか。私が影の代行者だったとわかれば、私の話なんて誰も聞いてくれなくなるだろう?だから変装くらいはしておかないと、と思って。まぁ、メガネをかけるだけで誰も私が影の代行者だと気づかないとは思わなかったが。」
「影の代行者を間近で眼にして生き残った人なんてほとんどいないし、そもそもずっとフェイスガードをしてたんだから、誰もわからないんじゃない?」
深く考えずにマティアスが言うと、ジェイセンの表情が少し陰った。マティアスはそれに気づいて慌てて話題を変える。
「それにしても、この書類の山はなんだい?」
「全部、トラブルの報告だよ。」ジェイセンは呆れたように言った。「この三ヶ月、王国中からこの王都に人が押し寄せている。だが、何のルールもない中で、誰もが早い者勝ちのように家を確保したからね。誰かが入居した後に、辺境に逃れていたその家の家主が帰ってきたりして、連日揉め事が絶えないんだ。まったく、こっちは影の帝国に乗り込む準備で忙しいって言うのに……。」
投げやりな調子で語るジェイセンの様子を、マティアスは安堵の想いで見ていた。
あの夜の後、ジェイセンはしばらく絶望の中にいた。
それも無理はない。常に隣で支え続けてくれた、かけがえのない友を失ったばかりでなく、すべてを賭けてようやく救い出したリリーが、再び影の皇帝のもとへ連れ去られたと聞かされたのだから。
しかし、ジェイセンが絶望に沈んでいたのは、それほど長い時間ではなかった。
「私は、影の帝国へリリー様を救出しに行く。だが、その準備ができるまで、人々の生活再建に手を貸したい。」
ジェイセンはマティアスたちにそう言うと、素性を偽って、王都の「なんでも行政官」として、あらゆるトラブルの解決やルール作りなどに取り組み始めた。
多くの人が集団で共同生活を送るためには、統一されたルール、管理者が必要だ。ゼロからの再出発となった王都で、自ら率先してその任に当たるジェイセンは、多くの人からの賞賛を得た。いつしかジェイセンのもとには、その姿に共鳴して一緒に働きたいと志願する若者たちが集まり、ジェイセンは彼らを統率して王都の行政運営に勤しんでいる。
ジェイセンがエギルからもらった、自分の気持ちに正直に生きて欲しいという願い。そしてリリーと交わした、人々に償い続けるという誓い。それらに自分の中で折り合いをつけた結論が、いまのジェイセンの道なのだろう。
「……マティアス?聞いてるのか?」
気づくと、ジェイセンがマティアスの前で書類を振っており、マティアスは我に返った。
「あ、あぁごめん。なんだっけ?」
「しっかりしてくれよ……。この式典が終わったら、王国中に号令をかける。身の回りで、腕に……。」ジェイセンは無意識に右腕に手をやった。そこにはもう、魔術師の刻印は刻まれていない。「腕に刻印がある人に、心当たりがないかどうか。影の代行者が捜索するのと違って、みんな王国のために自主的に協力してくれるだろうから、きっとすぐに見つかるに違いない。」
王都の「羅針盤」、魔神と魔術師の契約締結を感知する魔法装置は、マティアスとロキの契約を感知して以来、まだ何の反応も示していない。したがって、少なくともジェイセンの刻印が転移した先の人物が、まだ魔神との契約が未了のまま、刻印を宿しているはずなのだ。
「既にその他の準備はほぼ完了している。刻印を持つ新しい魔術師が見つかり、魔神との契約ができたら、すぐにでも人を集めて影の帝国に乗り込もう。今度こそ必ず、リリー様を救い出すんだ。」
ジェイセンの緑色の眼は、まっすぐにマティアスの青い眼を見つめていた。
「……あぁ、もちろんだよ。今度こそ、僕らで一緒にリリーを助けに行こう。」
マティアスは、親友の眼をしっかりと受け止めた。
かつて毎日一緒に過ごしていた頃のように、彼らは想いを通じ合わせ、頷き合った。そして少し照れ臭そうに笑うと——。
バーン!という音を立てて、執務室の扉が勢いよく開いた。蝶番が外れそうな開け方に、誰が入ってきたかは見るまでもない。
「——マティアス!やっぱりアンタ、ここにいたわね!こんな時間まで来ないなんて、何考えてんのよ!アンタのための式典なのに、アンタのせいでみんな大迷惑……。」そこでレイラは、マティアスとジェイセンが見つめ合っているのに気づいた。「えっなに?こっそり何してるかと思えば、アンタたちそういう……?」
「違う違う!そういうことじゃない!」マティアスは慌ててレイラの変な妄想をぶった切った。「僕らは、今後のことを少し話し合っていただけだ!」
「今後?」レイラはジェイセンを一瞥すると、マティアスに向き直った。「リリーを助けに行くってこと?いつにするか、時期が決まったら早めに教えなさいよ。アタシだって、準備があるんだから。」そう言ってレイラは鼻を鳴らした。
「まさか君も、影の帝国に行くつもりかい?それは——。」
「——危ないからやめろ、とか言ったら、アンタのその舌、引っこ抜くわよ。」レイラは恐ろしい形相でマティアスを睨んだ。「アンタだけで行かせるわけないでしょ。アンタだけじゃ、国境の山脈も越えられずに終わりよ。」
「……レイラさん、もちろん私もマティアスについて行くのです。ご心配には及びませんよ。」
ジェイセンはレイラに丁寧な言葉をかけた。経緯が経緯だけに、ジェイセンとレイラの関係は微妙だ。しかし最近は、少しは面と向かって会話ができるくらいには改善してきている。
「アンタなんて、もう魔力もなければ魔神もいないじゃない。戦力外よ。同行者のカウントに入らないわ。」
レイラは、自分のことをきれいに棚に上げると、容赦のない痛烈な一言を放った。レイラの毒舌はいつものことで、決して相手がジェイセンだから激しくなっているわけではない……はずだ。
そんなジェイセンにさすがに同情したのか、ロキが不機嫌そうに付け加えた。
「……一応言っとくが、俺も行かざるを得ん。理由はこの前と同じ。以上だ。」
式典用に燕尾服でバッチリ決めた服装と、眼の前で人が吐くのを見せつけられたかのような嫌悪の表情が、見事なまでにミスマッチだ。
「アンタも運がないわねぇ。リリーを救い出す契約なんて、一回ちゃんと断絶結界から救い出したんだから、あそこで契約履行で解放になっても、おかしくなかったでしょうに。まさか延長戦になっちゃうとはねぇ……。」
不機嫌そうなロキに、レイラが追い討ちをかけた。どこまでも、さすがレイラとしか言いようがない。
「契約履行から解放までに多少の時間が空くことを、これほど呪ったことはねぇよ。」ロキは吐き捨てるように言った。「ったく、そもそも、妹を『王都から』救い出すとかなんとか、もっと条件をつけて契約を結んでりゃ、こんなことにはならなかったんだ。これだから魔術師との契約ってやつは……。」ロキはグダグダと文句を言い連ねる。
「……まぁいいわ、話を戻しましょう。」
レイラはロキの文句を遮った。レイラが会話に入ってくると、自動的にレイラが仕切り役になる。男どもには、それに従う以外の選択肢はない。
「マティアス、アンタが影の帝国に行くって言うなら、アタシはアンタについて行く。これはアタシの決定事項。アンタの異論は認めないわ。」レイラはバッサリと言い切った。
「レイラ、それは……まぁ君に反論するのは、もう諦めてるよ。」マティアスはやれやれという口調で言った。「ただ、君に危害が加わらないよう、僕が君を守る。そこは絶対に譲れないな。」
レイラはマティアスの返事に気を良くすると、楽しそうに言った。
「アタシはアンタについていくの。これからもずっとね。だから、アンタはずっとアタシの隣にいて、アタシのことを守んなさいよ。」
しかし、自分で自分の発言が恥ずかしくなったのか、レイラは顔を赤らめると、慌ててマティアスに背を向けて叫んだ。
「そ、そんなことはいいから!早く式典に行きなさい!今日はアンタの、晴れ舞台なんだから!」
「魔神と魔術師」をお読みいただいて、本当にありがとうございます!
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(私のモチベーションがものすごく上がって、「よーし、がんばって続きを書くぞ!」という気持ちになれます…!)
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