第七章 皇帝の手(④救いは遠く)
天文台は、静寂に包まれていた。
時折、散らばった氷の破片を踏む音がするほかは、ほとんど無音と言って良い。
魔滅の呪文は、手負いのジェイセンから最後の力を奪い取り、ジェイセンはそのまま気を失った。あるいは、耐え難い現実から距離を置くことができたという意味で、ジェイセンにとってはせめてもの救いであったろう。氷の槍の拘束を解いたリリーが、そんなジェイセンの傍らに寄り添った。
マティアスとレイラは、自身の拘束を解くと、続いてロキの拘束を解きに行った。氷の槍をまともに腹に受けた魔神は、明らかに弱りながらも悪態をつき、この程度はどうってことないなどと健在をアピールした。
そして彼らは、静かに天文台の奥に進むと、聳え立つ巨大な水晶を前にした。
「……これが、あの?」
「あぁ。『三水晶の盾』だ。」
マティアスの簡素な問いに、ロキは同じく簡素に応えた。
リリーの座っていた豪奢な椅子の後ろに聳え立つそれは、盾というよりも、パイプオルガンのパイプのようだった。三本の水晶が天井に向けて突き抜けるように聳え立ち、同じく水晶でできた蔓のようなものが、三本を一体のものとしてまとめあげる。
マティアスとレイラは、ロキの説明を思い出していた。
三水晶の盾は、初代の魔術師たちが、三体の魔神を純粋な力として昇華させて作り出した強力な魔法装置だ。歴代の魔術師たちによって受け継がれてきたその力は、魔術師が起動することで、影の帝国に由来する闇の魔力を大幅に弱体化させることができる。すなわち……。
王国を、影の帝国の支配から、救い出すことができる。
影の皇帝でも破壊できないこの絶対的な魔法装置は、リリーとともに断絶結界に封印されていたが、もうここに断絶結界はない。
魔術師であるマティアスと三水晶の盾の間には、接触を阻もうとする何物も存在しなかった。
「……だがよ。」沈黙を破り、ロキがマティアスに言った。さすがに先ほどのダメージが強く残っているのか、その声には力がない。「小僧、おまえがこれを使うのは勝手だ。これを使えば、王国における影の軍勢の力は、一気に弱まる。おまえらにとっては望ましい結果ってやつだろう。」
「アンタはいちいち、言い方がまだるっこしいわねぇ。」レイラが天を仰いだ。「さっさと気になってることを言いなさいよ。」
ロキはムッとした顔をしたが、聞き流すことにしたらしく、レイラを無視して続けた。
「だが、おまえはすぐに魔術師じゃなくなる。俺は契約を果たした。そろそろ、俺は契約履行によって解放され、めでたく異世界に帰ることになるだろう。三水晶の盾は、起動した魔術師が魔術師としての資格を失えば、オフラインに戻る。もうおまえの親友も魔術師じゃねぇんだ。数時間のうちに、三水晶の盾を起動できる魔術師が、また一人もいなくなっちまうってことだぞ。」まぁ解放される俺には何の関係もねぇが、とは言わなかった。
この言葉は、おまえたちでは王国を救うことはできない、と言われているに等しかったが、マティアスはさして衝撃を受けた様子もなく、平然として応えた。
「……まぁ、仕方ないさ。もともと僕らの目的は、リリーを解放すること。王国の解放は、たまたまここに三水晶の盾があったからできそうだと思った、いわばオマケだ。ダメでもともと。そこまで責任持てないよ。」
マティアスはそう言うと、刀身のない剣を取り出した。魔術師の力が使えなくなるのなら、この剣が役立つことも、もう二度とないのだろう。
「でも、僕らが逃げる時間を稼ぐための一助くらいにはなるだろう?まだ王宮の周りには断絶結界があるし、ゴーレムもうじゃうじゃしてる。帰りも地下通路を使うとしても、その先で別の影の執行官に鉢合わせるかもしれない。いま三水晶の盾を起動してみることには、少なくとも、僕らの脱出に向けて、敵の態勢に穴を空けておくくらいの意味はあると思うんだ。」
そう言うと、マティアスは三水晶の盾に歩み寄った。後ろから、ロキのわざとらしいため息が聞こえてくる。
「マティアス!気をつけなさいよ!」レイラの鋭くも心配そうな声がした。
三水晶の盾は、間近で見るとなお巨大に見えた。青白く透き通るような水晶だが、不思議と反対側を見透かすことはできない。
マティアスが近づくにつれ、もっと近くへ来いと呼ばれているような気がする。まるで、水晶に封じ込められた古代の魔神たちが、その力を引き出してくれる魔術師に呼びかけているかのように。
「あぁ、大丈夫だ……。」
マティアスは半分上の空でそう応えると、水晶に導かれるまま手を伸ばし……ついに、三水晶の盾に手を触れた。
その瞬間、マティアスの中に、世界が入ってきた。
突然、千里眼を授かったかのように、マティアスは王国のあらゆる場所に眼をやることができるようになった。カタリナ村と同じように、影の帝国の徴収に苦しむ村落。大切な人を失い、悲哀を浮かべる人々。ゴーレムを駆って人々を追い立て、それを楽しそうに嘲笑っている影の執行官……。
そこへ、どこからともなく、強く鋭い風が吹き抜けた。
その風は、影の執行官やゴーレムから突如として力を奪い去り、影の執行官が驚きに眼を見張るのがわかった。そして王都ロスリンでは、城門から夜空に立ちのぼり、毒々しく脈打っていた血のように赤い結界が、突然の激しい突風によってチラつき……消えた。
ロキの言う通り、これはほんの僅かな間しか効果がないかもしれない。
だが、少なくともいまこの瞬間だけは、王国に救いの手が差し伸べられたのだ。
マティアスは三水晶の盾から手を離した。先ほどまでと違って、水晶の内側から光が差し、三水晶の盾は明るく輝いている。
「……終わったよ。」マティアスはレイラとロキを振り返ると、穏やかに言った。
「マティアス、アンタは……。」レイラが何か言いたそうに言葉を探したが、結局ありきたりな言葉に留めた。「よくやったわ。」
そんなレイラの言葉に彼女らしさを強く感じて、マティアスはニヤッと笑った。
「ありがとう。さぁ、三水晶の盾の効果があるうちに、遠くへ逃げよう。魔術師の力がなくなったら、影の執行官どころかゴーレムすら倒せるか怪しいからね。」マティアスは手に持った刀身のない剣を振った。「ロキは弱ってるし、いつ異世界に戻ってしまうかわからない。僕がジェイセンを担ぐよ。レイラはリリーと……。」
その時、天文台に不気味な声が響き渡った。
「あーあ、ちょーっと遅かったわー。ったく、ツイてねぇなー。」
荒っぽくがさつで、しかしどこか脱力していてやる気が微塵も感じられない。そんなアンバランスさを強く印象づける声。
マティアスが咄嗟に振り返ると、階段近くの開け放たれた大窓に、灰色の天馬のようなものに跨った少年が現れていた。
……それは、ジェイセンに寄り添っているリリーの真横だ。
「リリー、逃げろ!」
全身の毛が逆立つのを感じ、マティアスは咄嗟に叫んだが……遅かった。
少年が右手を差し出してリリーに向けると、その掌から稲妻が放たれ、リリーの華奢な体を貫いたのだ。
「おにい、さま……。」リリーの眼が見開かれ、そのまま床に崩れ落ちる。
「リリー!」
マティアスは炎の刃を振り出し、リリーの方へ走ったが、少年の方が早かった。少年は天馬を駆ってリリーを拾い上げると、再び大窓に戻る。
「はーい、任務かんりょー。なーんかさっきの変な風のせいで全然調子出ねーし、あーんな熱意バリバリなヤツとやり合うの、めんどいわー。言われたことだけやって、さっさと帰ろーっと。」
少年はそう言うと、灰色の天馬を空に飛び立たせようとしたが、マティアスの絶叫がそれを留めた。
「待て!リリーを返せ!」
マティアスは炎の剣を振るい、少年めがけて炎の斬撃を飛ばした。しかし、少年はひょいと天馬の向きを変え、それを避ける。
「えー、なんすかアンタ。こっちも仕事なんでー。この子を返すのとか、ちょっと無理なんすけどー……。」
「力ずくで——。」
「——いやぁ、やめときましょーよ。いまのヤツ、この子に当たったらどうします?死んじゃったらアンタも嫌だし、オレも陛下に、あの子死んじゃいましたすいませーんって報告すんの、嫌なんでー。」少年は、鼻で笑うような態度を崩さない。
マティアスはロキを振り返ったが、ロキは事態を認識し、翼を生やそうとしているものの、あまりに弱っていてうまくいかないようだ。
「……そんなわけで、もういいすか?ほんじゃまた、いやまた会っても困るんすけどー。とりあえず、さいならー!」
灰色の天馬に跨った少年は、リリーを脇に抱えたまま、夜空に舞い上がった。
「待て、リリーを返せ!リリー!」
マティアスは絶叫しながら大窓から身を乗り出したが、早くも灰色の天馬は、既に手の届かないところまで行ってしまっていた。マティアスに追いついたレイラが弓を引き絞り、矢を放ったが、天馬はやすやすとそれを避ける。
やがて、リリーを乗せた灰色の天馬は、東の空へと消えて行った。
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☆★☆ 御春 旬菜 ☆★☆