第七章 皇帝の手(③周到なる罠)
ロキとエギルが複雑な紋様の床に並び立ち、マティアスたちは彼らから少し距離を取った。ロキが何やらブツブツ言いながら、紋様をなぞる。
「……しかし、私には信じられません。こんな封印、私はこの時代に召喚されて初めて見ました。それをロキがもともと知っていて、しかも解除できるなどということは……。」エギルは首を振った。
「あのな、おまえみたいなクソ真面目な魔神と違って、俺はこの手の罠やら結界やらのプロなんだよ。ようは断絶結界だろ?いいから俺に任せとけ。」
「ですが、ロキが知っていて、私がまったく知らないなんてことは——。」
「——あぁもううるせぇな!」ロキは紋様を調べる手を止めて、エギルに向き直った。「おまえの召喚には影の皇帝が噛んでたんだろ?せっかくこの娘を断絶結界で閉じ込めて魔術師を脅迫したって、それを解除できる魔神が召喚されたんじゃ意味がねぇ。おおかた、断絶結界のことなんか何も知らねぇ、ついでに言えば、ただひたすら主人の犬として仕えるような魔神を召喚させようとして、おまえが選ばれたんだろうよ。」
エギルはなおも言い返そうとしたが、ジェイセンが首を振るのを見て言葉を呑み込んだ。それに、この生意気で自信過剰な魔神の言うことが正しいかどうかは、ただ待っていればわかることだ。
ロキは、その後もしばらく紋様に沿って手を動かしながらブツブツ言っていたが、やがて手を止めて言った。
「んー……まぁこんなもんだな。」
「わかったのか?」マティアスが息を弾ませて聞いた。
「焦んな、小僧。俺の手にかかれば、こんなもん楽勝だ。」ロキはわざとらしく黒髪をかきあげた。こんな動作、魔神に必要だとは思えない。「この断絶結界の起点が、この床の紋様であることは疑いの余地がねぇ。だがこの結界、ちょっとばかし複雑な構造をしてやがる。」
「複雑?」
ロキはマティアスの合いの手に気を良くしたように続けた。
「王都の結界とかと違って、これは中のものを外に出さないために作られた結界だからな。下手に起点を壊せば、結界が崩壊する際の力が内部に向かい、最後っ屁として中のものを破壊する仕掛けがついてやがる。……早い話が、そこの娘が死ぬってこった。」
「それじゃダメだ!」マティアスが疲弊した体から力をかき集めて叫んだ。「リリーが死ぬんじゃ、結界を解く意味がない——。」
「——黙って聞け、小僧。下手にやりゃそうなる、って言っただろ?」ロキは手を振ってマティアスを制した。「俺の見たところ、手順は複雑だが、ちゃんと安全な解除方法はある。ただちょっとばかし……。」ロキはエギルをチラッと見た。「防御機能がついてそうでな。一人だとちと厳しい。だからエギルの力を借りるぜ。」
そう言うと、ロキは眼を閉じた。空中に無数の、しかし小さな炎の玉が現れ、ロキの周りを旋回し始める。
「……で、ロキ。私は何をすればいいんです?」
まだ不満を燻らせているエギルの質問に、ロキは眼を閉じたまま応えた。
「俺を守れ。俺はこれから、この結界の面倒で手一杯になる。」そう言うと、ロキは片手を上げた。
小さな炎の玉が数個、集団を離れてそれぞれ別の方向に飛び去り、床の紋様の一部に着弾した。炎が紋様を焦がし、その部分の力の脈動を断ち切る。
その瞬間、紋様の上に、不気味な黒い靄が立ちのぼり始めた。
濛々と立ちのぼったその黒い霧は、そのまま発散することなく、意思を持っているかのようにまとまり始め……やがて、大鎌を持った骸骨のような姿に収束した。
急な変化に驚く間もなく、黒い靄でできた骸骨がその大鎌を振り上げ——。
「——エギル!」
「わかりましたよ!」
エギルが両手を前に出すと、氷の壁が現れ、ロキに向けて放たれた黒い大鎌の攻撃を防いだ。靄のような見た目に反して、何か固いものが衝突したかのような、激しい音が響き渡る。
「次だ!」
ロキはそう叫ぶと、新たに数個の炎の玉を、また別の箇所へ撃ち込んだ。再び床の紋様の一部が焼き切れ、今度はバチン!と大きな音がしたかと思うと、骸骨の黒い大鎌が、刀身に稲妻を帯び始める。
「ロキ!あなた、敵を強化してませんか!」
「知るか!黙って俺を、守ってろ!」
ロキはエギルに叫び返すと、次々と四方へ炎の玉を撃ち込み始めた。そのたびに紋様の一部が焼き切れ、同時に黒い靄の骸骨に変化が生じていく。
エギルは、ロキの前に氷の壁を展開すると、羽を生やして宙に飛び上がり、骸骨に氷の槍を撃ち込み始めた。しかし、黒い靄の骸骨は大鎌を回してやすやすと氷の槍を跳ね返す。攻撃の間を与えないため、エギルは次々と氷の槍を撃ち込み続けたが、ロキが紋様を攻撃するたび、骸骨の動きは速く、強力になっていく。
「まったく、私がご主人様以外を守るなんて!」エギルは一声叫ぶと、手に巨大な氷の塊を出現させ、骸骨に向けて思い切り投げつけた。さすがにこれは大鎌では防ぎきれず、氷の塊がまともに骸骨を直撃し、骸骨は腰から真っ二つに折れて床に崩れ落ちる。「まぁ、私の手にかかれば、こんなもんで——。」
——エギルは言葉を切った。
エギルの氷の塊はたしかに黒い骸骨を両断したが、すぐに黒い靄が断片の周辺に集まったかと思うと、それぞれに欠損した部分を供給し……あっという間に、骸骨が二体に増えたのだ。
「……何が、ちょっとばかし防御機能がついている、ですか!」エギルは再び氷の槍を降らせ始めたが、二体の骸骨は連携してそれらをやすやすと叩き落とし、眼を閉じたままのロキに迫った。「——ロキ!」
その瞬間、ロキは眼を開けると、氷の壁越しに二体の黒い骸骨を見据えた。同時に、ロキの周りの炎の玉が、一つの大きな塊に集約される。
「エギル、褒めてやるよ。おまえは、何も知らねぇ堅物なだけが売りの魔神だが……。」ロキが腕を振り上げると、炎の玉は天井近くに飛び上がった。「やるべきことはきちんとこなす。その点だけは、一級品だなぁ!」
そしてロキが腕を振り下ろすと、炎の玉は紋様のある一点を目指して急降下した。
二体の骸骨は、大鎌を振り上げて炎の玉を打ち返そうとしたが、ロキの炎の玉は、蛇のように動いてそれを避け、二体の骸骨の足元の紋様を正確に撃ち抜いた。
激しい爆発が床をえぐり、天文台に震えが走る。
その瞬間、黒い靄とともに二体の骸骨の姿が跡形もなく消え……同時に、リリーとマティアスたちを隔てていた毒々しい赤い膜が、チラついて消えた。
……五年にわたってリリーを天文台に閉じ込めてきた断絶結界が、ついに解除された。
一瞬の静寂の中、誰もが何も言わず、微動だにしなかった。
それを破ったのは、マティアスとジェイセンだ。
「リリー!」
「リリー様!」
二人はリリーに駆け寄り、マティアスがリリーを抱き締めた。
「おにいさま、ジェイセン様……。わたくしは……。」
三人は眼に涙を浮かべ、本当の意味での再会を喜び合った。感涙のあまり、ジェイセンはほとんど口がきけないようだった。
「……アンタ、よくやったわね。」
いつの間にかロキの近くにやってきていたレイラが、その様子を見ながら口を尖らせて言った。
「おいおまえ……妹くらいは、許してやれよ?」
ロキが面倒くさそうに言うと、レイラは思い切りロキを引っぱたいた。
「な、何言ってんのよ!そんなんじゃないわ!」慌ててそう言うと、レイラは口調を普通に戻した。「アンタの自慢話って、たいてい盛ってるから、今回も本当は結界の解除なんてできないのかと思ってたわよ。」
ロキは眼を見開いた。どうやらこの魔神は、引っぱたかれるよりも、自分を軽く見られる方が頭に来るらしい。
「なんだと!俺がいつ、誇張や嘘を言った?数千年の時を生きる誉れ高き魔神である俺に、なんて失礼なことを言いやがるん——。」
「——あぁもう!褒めてるんだからいいじゃない!面倒くさい魔神ね……。」
……しかし、浮かれ切っていた彼らは、すぐ近くで大変な変事が起きていることに、気がつかなかった。
彼らがそれに気づいたのは、突如、無数の氷の槍が飛来してきて、彼らの体を吹き飛ばした後だった。
一瞬のうちに、マティアス、ジェイセン、リリー、そしてロキとレイラは、それぞれ壁に叩きつけられ、服を氷の槍で壁に縫い止められて自由を奪われた。
「おまえっ……ごはっ!」
咄嗟にロキは姿を変えて逃れようとしたが、間髪入れず、特大の氷の槍が正面からまともにロキの腹に突き刺さり、あまりのダメージに、ロキは突っ伏して動かなくなった。
「エ……エギル?」
ジェイセンは、信じられないものを見るようにエギルを見つめた。
突然彼らに攻撃してきたエギルの姿は、それまでとは一変していた。青い髪の騎士然としたスマートな外見は消え、代わりに、地獄の釜を宿したような血走った眼に、猛獣と悪魔を合わせたような体を持つ、恐ろしい姿がそこにあった。
「どうして……?」
呆然としてそう呟いたジェイセンだったが、意識のどこかでは、既に答えが出ていた。
こんなことができるのは、影の皇帝以外にいない。そして、影の皇帝の仕業だとすれば、彼には心当たりがある。
影の皇帝は、エギルの召喚に、干渉していた……。
ジェイセンが影の皇帝に忠誠を誓い、魔神の召喚を行った際、影の皇帝は直々に召喚を監視したほか、召喚魔法に何らかの手を加えた。貴様に従順な魔神を召喚させてやる、影の皇帝はそう言っていた。
だがもし、それだけでなかったとしたら?
影の皇帝にとって最も困るのは、ジェイセンが裏切り、召喚した魔神とともに影の皇帝に刃を向けることだ。それはリリーを断絶結界の中に幽閉し、人質とすることで防ぐことができるが、当然、影の皇帝としてはさらに保険をかけておきたかったことだろう。
先ほどロキが言っていたように、ジェイセンが断絶結界を解除できないよう、断絶結界のことを知らない魔神が召喚されるように仕向けたというだけではない。もし万一、断絶結界の解除方法が知られたとしても、魔神一人ではとても解除できないよう、強い防御機能をつけておくこと。そして……。
さらに万一、断絶結界が破られることがあれば、裏切り者の魔術師とその魔神に制裁がくだるよう、契約関係に呪いをかけておくこと。
間違いなく、影の皇帝はその対策を講じたはずだ。ジェイセンは、そこまで考え至らなかった自分を呪った。影の皇帝が、ジェイセンを全面的に信頼するわけがない。裏切りを想定して、裏切られた場合に報復する手を打っているはずだったのだ。
変わり果てたエギルの煮えたぎる地獄のような眼が、ジェイセンを捉えた。影の皇帝の魔力に飲み込まれ、制御を失ったその手が、恐ろしく長い悪魔のような鉤爪をジェイセンに突き立て……。
……その直前で、止まった。
「ご主人様……。」
血走った眼に、ほんのわずか、温かい光が戻った。最後に残ったエギルの意思が、影の皇帝の魔力を抑えようとして、全身が震え出す。
「ご主人様、早く……。『魔滅の呪文』を……。」
なんとか絞り出したエギルの声は、いまにも消えそうだった。
「そんな、エギル……。私にはできない……。」
魔滅の呪文。契約を履行しようとしない魔神を殺すための、魔術師の最終手段。魔滅の呪文を受けた魔神は異世界には戻れず、その場で死亡、消滅する。また、魔神を失った魔術師も、魔術師としての資格を失い、契約期間を待たずしてその力を失うことになる。
召喚してこれまで、どんな時でもジェイセンを支え続けてくれたエギル。
親友を失い、王国を裏切ったジェイセンの傍らに、たった一人の仲間として居続けてくれたエギル。
そんな彼を殺すことなど、ジェイセンにできるはずもなかった。
「お願いです、ご主人様……。」だが、エギルの眼は必死にジェイセンを捉えて離さなかった。「私は、最後にこれまでで最高の主人に仕えることができて、とても幸せでした……。あなたは誰よりも優しく、奴隷にすぎない私を、友と言ってくださった……。」
エギルの眼に、再び闇がちらつき始める。
「ご主人様、これまでお世話になりました。これからは自分の気持ちに正直に、自由に生きてくださいね。」
それが、エギルの最後の言葉だった。
エギルの眼から温かな光が消え、その瞳は闇に飲み込まれた。猛獣のような悪魔は、前足を思い切り振りかぶると、ジェイセンに向けて振り下ろす。
「……ジェイセン!」
マティアスが叫んだが、ジェイセンの耳には入らなかった。
ジェイセンに聞こえていたのは、エギルの言葉だけだった。頭の中を繰り返し反響したそれは、やがてジェイセンの心と溶け合い、最後に小さな呟きとなって口からこぼれた。
「……エギル。おまえはこれからもずっと、私の友だ。」
そしてジェイセンは刻印に心を開くと、刻印が導くまま、唇を動かした。その頬に、一筋の涙が流れる。
その瞬間、猛獣のような悪魔はその動きを止めた。先ほどと違って、今度は再び動き出すことはない。
魔滅の呪文は、魔神エギルの存在を微細な魔粒子レベルに分解すると、世界から消滅させた。
「魔神と魔術師」をお読みいただいて、本当にありがとうございます!
もし、「おもしろい!」「続きが読みたい!」と思っていただけましたら、【高評価】と【ブックマーク】を、ぜひよろしくお願いします。
(私のモチベーションがものすごく上がって、「よーし、がんばって続きを書くぞ!」という気持ちになれます…!)
貴重なお時間を割いて本作をお読みくださった皆様に、何か楽しいことが起こりますように。
どうぞ今後とも、よろしくお願いします。
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