第七章 皇帝の手(①王女の笑顔)
第七章 皇帝の手
王宮を揺るがす断続的な爆発が収まっても、マティアスは天文台に現れなかった。
もともとリリーとどう接して良いかいまいち掴みきれないレイラは、不安が募るにつれ徐々に口数を減らし、やがて会話よりも沈黙の方が長い時間を占めるようになった。
そんなレイラの姿を、リリーは穏やかな笑みを浮かべて優しく見つめている。
「レイラさん、おにいさまのことをそんなに心配してくださるなんて……。おにいさまは幸せ者ですわね。」
「な、なに言ってんのよ!別に心配なんかしてないわ。このアタシを待たせてないで、さっさと来いって思ってるだけ!」
レイラは、弾かれたようにパッと立ち上がった。
わかっていますから大丈夫ですわ、と言わんばかりのリリーの眼。レイラの方がリリーよりも年上のはずなのに、この余裕の違いはなんだろう。
「おにいさまとジェイセン様は、昔からこうなのです。散々喧嘩なさっては、日がとっくに沈んでからお帰りになって……。だから、きっと心配いりませんわ。」
そのリリーの言葉が合図になったかのように、階下から足音が聞こえてきた。コツ……コツ……と、とてもゆっくりした足音で、誰かが階段をのぼってくる。人数は一人……いや二人か?一人の足音はかなり不規則だ。
当然、敵の可能性もある。レイラは階段近くに戻ると、弓を引き絞って待った。
もしあの氷刃の騎士が現れたら、マティアスは彼に敗れたということだ。傷を負い、死んだかもしれない。もしマティアスが、レイラを残して死んでしまったら……。レイラの脳裏を様々な感情が一瞬のうちに駆け巡ったが、その整理をつける前に、侵入者が眼の前に姿を現した。
褐色の肌の魔神に体を支えられた、金髪に青色の眼の少年。マティアスとロキの二人が、天文台の最上階に足を踏み入れた。
レイラの中で、冷たく固いものが溶け去り、何か熱いものが込み上げてくるのを感じた。それは言葉とともに喉から溢れ出しそうで、レイラはなんとか彼の名を呼ぶのがやっとだった。
「マティアス……。」
「レイラ、無事で良かった……。」
レイラの姿を見るや否や、マティアスは手に持った王族の剣を取り落とすと、レイラへ駆け寄り……そのまま思い切りレイラに抱きついた。マティアスの両腕がレイラの背に回り、マティアスの体が、硬直したレイラの体とぴったり密着する。
「えっなに?……は?」
レイラの頭が現実に追いつかず、ようやく追いついたかと思えば、感情が爆発してオーバーヒートする。一瞬で、レイラの顔が、髪と見分けがつかない色に変化した。
「ちょ、ちょっとちょっと!アンタいきなり、急にそんな……!えっそういう……?でもアタシはちょっと、いや別にダメじゃないけど——。」
「——あぁごめん。いまちょっと足に力が入らなくて、倒れそうに……。悪いロキ、また支えてくれないか。」
マティアスはレイラから体を離してロキを振り返ったが、ロキはマティアスの背後の何かを見て……スッと横に避けた。
「……ロキ?何をして——。」
「——なにしてくれてんのよ、アンタあああぁぁぁ!」
レイラが絶叫とともにマティアスの背中に全力の回し蹴りを決め、マティアスの体は吹っ飛んで、先ほどまでロキが立っていた床に叩きつけられた。ただでさえ悲鳴を上げていたマティアスの体が、新たな外傷に全力で抗議する。
「……なにすんだ!こっちは死にかけで、やっとたどり着いたって言うのに——。」
「——うるっさい!なら死んでれば良かったじゃない!」
「何を言ってるんだ、君は——!」
「——おにいさま?」
マティアスがレイラに食ってかかるのを遮って、天文台に鈴のような優しい声色が響き渡った。赤く毒々しい膜の向こうから、マティアスと同じ金色の髪と青い色の眼を持った少女が、こちらを覗き込んでいる。
マティアスにとって、それはずっと夢にまで見続けてきた光景で、何をもってしても替えがたい、心の底から切望し続けた願いだった。それが実現したら、彼らはきっと、この世で最も感動的な言葉で再会を喜び合い——。
「——おにいさまも、もう十七歳でしょうに……。わたくし、まさかおにいさまの女性の扱い方がちっとも成長していないとは、思いませんでしたわ……。」
……少なくとも、マティアスが夢見た感動的な再会のシーンが、こんなものではなかったのは確かだ。
「リ、リリー……?」
「わたくし、もうレイラさんとはお友達なのです。たとえおにいさまでも、レイラさんを弄ぶような真似は……許しませんわよ?」
そう言って、リリーはいたずらっぽく笑った。コロコロと軽く美しい笑い声が、聞く者の心を和らげる。
「でもおにいさま、来てくださってありがとう。五年前のお約束、ちゃんと果たしてくださいましたわね。」
……あぁ、リリーは変わらない。マティアスは妹の笑顔を見て思った。
五年の月日も、影の皇帝の手による幽閉も、なんらリリーを変えることはできなかったのだ。
リリーは、昔から透き通るような笑顔を浮かべる少女だった。
満面の笑みではなく、体が内側から輝くような、穏やかな笑顔。それに、天性の純粋で無垢な性格と、王族学舎で身につけたしとやかな所作が相俟って、リリーは、出自としては傍流でありながら、当時の王族で最も「王女様」然としていたというのが、衆目の一致する見解だった。
この点、傍流であるのを良いことに、モーガンやジェイセンと剣術の稽古ばかりして王族学舎にはほとんど行かず、結果としてカタリナ村にすら自然になじめるほど粗野に育ってしまったマティアスとは、まったく異なる。
「リリー……。あぁやっと、やっと迎えに来れた……。」マティアスは、弱った体が許す限りの速度でリリーに歩み寄ると、赤い膜の前に膝をついた。「これまでずっと一人にして、悪かった……。」
そんなマティアスの様子を見て、リリーの眼に涙が光る。しかし、その表情は、にこやかな笑顔のままだった。
「いえ、おにいさま。ジェイセン様がいてくださいましたもの。あの方のおかげで、わたくしは一人ではありませんでしたわ。」そう言うと、リリーは不思議そうに言った。「そういえば、おにいさまはジェイセン様とご一緒だったのでしょう?レイラさんに聞きましたわよ、二人は喧嘩してるって。ジェイセン様はいまどちらに?」
その瞬間、マティアスの顔が強張った。普通の人なら見逃すような微妙な変化。しかし、リリーがそれを見逃すことはなかった。
……だが少し、その解釈を間違ったようだが。
「まぁおにいさま……まさか喧嘩したまま、仲直りしていらっしゃらないの?もう子どもじゃありませんのに——。」
「——い、いやそうじゃないんだ、リリー。そうじゃなくて、ジェイセンは——。」
その時、弱々しくもハッキリした声が、天文台に響き渡った。
「——えぇ、そうではないのです。リリー様。」
マティアスが振り返ると、そこには血まみれの服と蒼白な顔をした茶髪の少年が、魔神に半ば抱えられるようにして立っていた。その緑色の眼が、マティアスとリリーの青い眼を捉える。
「もちろん、マティアスと私は、ちゃんと仲直りしましたよ。リリー様にご心配いただくには及びません。」
ジェイセンは、そう言って弱々しい笑みを浮かべた。
数千年を生きる俺でも、驚くような出来事というのはあるものだ。
俺は、致命傷を負った氷刃の騎士は、あのまま大広間で息絶えるものと思っていた。傷口からは止めどなく血が流れ、ヤツの生命力は急激に減衰していた。誰の眼から見ても、ヤツが間も無く死ぬのは明らかだった。
しかし、そうはならなかった。
小僧と氷刃の騎士が最後の言葉を交わした後、俺は、小僧が氷刃の騎士の手を握りしめたまま気を失っていることに気づいた。なんて軟弱な野郎なんだ。疲れ切って気絶したのか?親友の死に、脳の回線が焼き切れたのか?いずれにしても、俺以外の全員が失神している状況下で、俺がやるべきことは特にない。強いて言えば、あの小娘の様子を見に行くかどうかというくらいだが、俺もそこまでサービス精神旺盛じゃない。俺は炎の玉を弄びつつ、小僧が目覚めるのを待った。
しかし、しばらくして異変に気づいた。
ふと氷刃の騎士に眼をやると、いつの間にか傷口からの出血が止まっているばかりか、傷口に薄い皮膚が張り始めている。それに、小僧に眼を移すと、呼吸が止まり、氷刃の騎士と繋いだ手が、わずかに光を帯びているように見えた。
俺は咄嗟に小僧との経路に自分を開き……何が起きているかを察して呻いた。
湯船の底に穴が空いたかのように、小僧の生命力がすごい勢いで漏れ出していた。なぜこうなったかはわからないが、何が起きているかは明白だ。
小僧が、氷刃の騎士に生命力を供給していたのだ。
エギルも同じことをやろうとしたが、もとが人間世界の存在ではない魔神では、そもそも保有できる生命力の量が非常に少ない。それを経路を通じて氷刃の騎士に返したところで、焼け石に水もいいところだ。
この点、人間世界の存在として、生命力を大量に保有できる人間であれば、急激な変化でない限り、まとまった量の生命力を他者に供給しても、ある程度は耐えられる。しかしそもそも、経路というのは、契約に基づいて魔神と魔術師の間に繋がれる特別なものだ。したがって、人間同士で気軽に経路を通じて生命力を供給し合う、などということはできない。
……はずなのだが。
小僧と小娘に続いて、小僧と氷刃の騎士にもできるとなれば、それなりな関係性の人間どもが経路と似た心の繋がりを持つ場合があるというのは、どうやら本当の話らしい。
俺が気づいた時、小僧の生命力は、自らの生命活動に支障をきたすレベルにまで減少していた。親友の命を救うために、自らの命を危険に晒す。見上げた心意気には違いないが、小僧が死ねば道連れになる俺にとっては、迷惑な話でしかない。小僧と氷刃の騎士には悪いが、俺は即刻、ヤツらの手を引き離して生命力の供給を絶った。
しかし結局、それが双方が助かる絶妙なタイミングだったということらしい。俺がまたしばらく炎の玉を弄んでいると、やがて二人の魔術師は息を吹き返し、ほどなくエギルも目を覚ました。
「これで死ぬと思ったから、クサいセリフも言えたんだがなぁ……。」氷刃の騎士は、横たわったまま、なんとか体から声を絞り出すように言った。
「ご主人様……。」エギルが心配そうにその傍らに寄り添う。
「悪かったね、余計なお世話で……。」小僧は荒い息でそう言うと、なんとか体を起こした。
俺は、そんな様子を特に何もせずに見ていた。別に小僧は怪我をしているわけじゃないから、生命力の流出さえ止まれば、それ以上体調が悪化することはない。放っておいても問題ないってわけだ。
「で、おまえらはまだ殺し合うのか?」
俺が尋ねると、氷刃の騎士がゆっくりと首を振った。
「……いや、もう終わりだ。私は間違っていた、二人でリリー様を救おうというマティアスの軽い提案に、乗ってみることにするさ。」弱々しくそう言うと、小僧の方を見る。「先に天文台に行ってくれ、マティアス。もう少し動けるようになったら、私たちもすぐに追いかける。」
小僧は立ちあがろうとしてふらつき、俺を手招きして助けを求めた。なんでこの俺が、人間ごときの歩行支援をしてやらなきゃいけねぇんだ……。
「わかったよ、ジェイセン。先にリリーとの感動的な再会を、済ませておく。」
小僧はそう言うと、親友にニヤッと笑いかけた。
「魔神と魔術師」をお読みいただいて、本当にありがとうございます!
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(私のモチベーションがものすごく上がって、「よーし、がんばって続きを書くぞ!」という気持ちになれます…!)
貴重なお時間を割いて本作をお読みくださった皆様に、何か楽しいことが起こりますように。
どうぞ今後とも、よろしくお願いします。
☆★☆ 御春 旬菜 ☆★☆