第六章 灼熱の再会(②心の在り処)
レイラは、悲鳴を上げる体が許す限りの速さで、走っていた。
戦場にマティアスを残して自分だけ逃げ出すなど、レイラのすべてに反する。しかしレイラは、人ならざる力がぶつかり合うあの戦場において、手負いの自分など足手まといになるだけだということを、誰よりもよくわかっていた。
ならば、自分にできることをしなければならない。
窓の外を見て方角を確認しながら、レイラはがらんどうの廊下を走った。冷たい静寂を破るのは、背後から時折聞こえてくる爆発音だけだ。
これまでのところ、レイラはまったく敵に遭遇していなかった。影の執行官とそのゴーレムがいなくなり、影の代行者——ジェイセンとその魔神エギルがマティアスとロキにかかりきりであるいま、この王宮は、ほぼもぬけの殻である可能性が高い。過去に、影の皇帝が作り出した魔法生物——影の執行官やゴーレム——以外の存在が王国に現れたことはないし、王都の守りが断絶結界のあたりに集中していたことを考えても、おそらく王宮内のゴーレムは、大半が影の執行官直下の部隊として大広間にいたはずだ。
目指すは、天文台。
影の執行官が、マティアスの妹は天文台にいると言っていたからだ。
それにしても、マティアスの妹が幽閉されているのが、天文台で本当に良かった。天文台と言えば、王宮で一番背の高い塔のはずだ。王宮に一度も足を踏み入れたことのないレイラでも、それくらいは想像がつく。もし牢に入れたなどと言われれば、王宮の地理がわからないレイラだけでは、どこへ行けば良いかわからなかっただろう。
……でも、この階段だけは、願い下げだわ。
天文台の塔まで辿り着くと、レイラは階段の前で立ち止まって息を整えた。予測していたとはいえ、実際に眼の前にすると、衰弱した身にこの階段はなかなか心に来るものがある。しかも、ここまでは順調に来たとはいえ、マティアスの妹を幽閉しておきながら、何の防御も施されていないとは思えない。ヘロヘロになりながら階段を駆け上がるわけにはいかなかった。
レイラは弓に矢をつがえると、音を立てないよう慎重に階段をのぼり始めた。
……まだ何も襲ってこない?
いや、安心するのはまだ早いわ……。
何度か休憩を挟みつつ、レイラがそのまま階段をのぼっていくと、やがてついに、最上階の床が眼に入った。網の目を組み合わせたかのような、複雑な紋様。レイラは決意を固めると、弓を構えて一気に最上階に飛び込んだ。
……やはり、何も起こらない。
最上階にも、ゴーレムや別の影の執行官の姿はなかった。
しかし、何の防御もなされていないことへの疑問は、眼の前に広がる光景を見て、すぐに解消した。
そこでは、毒々しく脈打つ血のように赤い膜が、天文台の奥への侵入を阻んでいたのだ。
これは、レイラにはどうしようもない。
「あら、お珍しいこと。お客さまかしら?」
レイラが赤い膜の存在に眼を奪われていると、その向こうから軽やかな声がした。
カタリナ村では聞いたことがないほどに気品のある声の主は、大きな水晶を背にした豪奢な椅子から立ち上がると、レイラに近づいてくる。
その姿を見て、レイラはあっと息を呑んだ。
赤い膜を隔てていてもわかる、輝くような金色の髪と青い眼。確認するまでもなく、マティアスの妹でしかあり得なかった。
「あなたが、リリーね……。」レイラは弓を下ろすと、金髪の少女に歩み寄った。
「はい。わたくしは、リリー・フォン・ブライトスケールと申します。あなたは……?」
「アタシはレイラ。レイラ・バートンよ。アンタの兄、マティアスの……知り合いね。」
レイラは言葉を濁した。ゴーレムとの戦いの中でのマティアスとのやり取りを思い出し、顔をしかめる。
しかし、マティアスの名前を聞いて顔を輝かせたリリーは、そんなレイラの様子には気づかなかった。
「まぁ!おにいさまの?もしかして、おにいさまもいらしているのですか?」
「えぇ。いまは下であの茶髪の騎士と一緒よ。」
「なんてこと……。」リリーは口を押さえた。その美しい青色の眼に、涙が滲む。「おにいさま、生きていらしたのですね。そして、ジェイセン様とお会いに……。あのお二人が、また会えるなんて……。」
「いや、あー……。」
レイラはためらった。この少女はどこまでも純粋で、彼らの友情を心から信じているようだ。そんな少女に、残酷な真実を告げても良いものだろうか?
幼い頃からずっと女の子らしさとは対極にあり、泥臭い男たちとどつき合いながら育ってきたレイラには、正直なところ、この少女とどのように接すれば良いか、いまいち見当がつかなかった。
「いまあの二人は……喧嘩してるわ。」結局、中途半端な言葉が出てきた。
リリーは少し驚いた顔をしたが、その美しい顔にはすぐに笑みが戻った。
「まぁ。お二人とも、もう子どもではないでしょうに……変わりませんわね。きっとまた、おにいさまが何かなさったのでしょう。ジェイセン様はとても真面目ですから、おにいさまの軽率な行動……ときどき考えなしに思えるような行いに、いつも我慢がならないのですわ。」リリーは本当におかしそうに、くすくすと笑う。
「でも、お二人が喧嘩していても、心配する必要はないのです。どれだけ喧嘩していても、あのお二人は心の深いところで強く繋がっている。わたくしはいつも、そう信じていますわ。」
赤紫色の炎の刃と、青白い氷の刃。
見る者の眼に異世界の輝きを刻み込む二つの刃は、しかし、ほとんど見えなかった。大上段からの切り込みを受け止め、突き返せばかわされ、今度は横から薙ぎ払う……眼にも止まらぬ速さで動く二つの剣は、二人の周りに輝く光の靄を形作った。
しかし、マティアスとジェイセンには、それらはこの上なく鮮明に見えた。
それもそのはずだ。彼らは、幼い頃から一緒に剣の腕を磨いてきた。ジェイセンの父モーガンや王都親衛隊の猛者たちによる厳しい鍛錬を、一緒に受けてきたというだけではない。彼らは、他の誰よりも長く一緒に時間を過ごし、ひたすら剣をぶつけ合って互いの技を高め合ってきた。互いの戦い方も、強みも、弱みも、癖も、すべてを知っている。彼らは一つの剣士の半分ずつだった。
マティアスは、ジェイセンの激しい打ち込みを押し返すと、いったん炎の剣を引いて距離を取った。すかさずジェイセンが氷の剣に魔力を注ぎ込み、氷の斬撃を放つ。マティアスが炎の剣で軌道を逸らすと、氷の斬撃は大広間の天井に当たり、シャンデリアの雨を降らせた。
「ジェイセン!君がリリーを想ってくれる気持ちはよくわかった!」後ろでロキとエギルがぶつかり合う音に負けないよう、マティアスは声を張り上げた。「でもこれからは、僕も助ける!僕だけじゃない!足りなければ、王国の人々に助けを求めたっていい!みんなで影の帝国を追い払って、リリーを——。」
「——もう遅い!」ジェイセンは、一声放つと再び氷の刃を振り上げ、マティアスに迫った。炎と氷の刃がぶつかる激しい音が響き渡る。「私がこれまで、いったい何人の人を殺してきたか、君は知らないだろう!それだけじゃない、より多くの人たちを苦しめてきたんだ!そんな僕が、いまさら王国の側に立てると思うか!」
「そんなこと……知るか!」マティアスは、ジェイセンから次々と繰り出される氷の剣を凌ぎ切ると、再びジェイセンから距離を取った。「いつだって、やり直せばいい。より良いやり方があるなら、選び直せばいい。たとえ時間がかかっても、王国の人々だって理解してくれる。少なくとも、このまま影の皇帝の命令を聞いていたって、永遠にリリーを救うチャンスは訪れない——。」
「——マティアス!君は……。」ジェイセンは剣を止めると、顔を歪めてマティアスを見た。「君はいつだってそうだ。君の言葉は軽すぎる。許されるはずがないだろう。王国の人々が、どれだけ影の執行官に恨みと憎しみを積み重ねてきたと思う!」
マティアスは、炎の剣の切っ先を降ろした。
「ジェイセン。君はリリーを助けるために、影の皇帝に忠誠を誓った。それはきっと、リリーを救うための唯一の道で、それを迷わず選択してくれた君に、僕は感謝しかない。でも……。」マティアスはジェイセンの緑色の眼をじっと見た。かつては明るい輝きを放っていた眼。そしていまは、闇の濁りを浮かべているその眼を。「影の皇帝は強い。君自身も言っていたことだ。リリーを救おうと必死になってくれた君が、それでもリリーを救い出せなかったのなら、残念だが、きっとこれからもできないだろう。君が影の皇帝に使い倒され、ひたすら闇の道に突き進んでいくだけだ。」
ジェイセンは、昔からどこまでもまっすぐな少年だった。曲がったことを嫌い、何か自分が間違っていれば全力で謝り、相手が間違っていれば謝罪を求める。年長者には礼儀を尽くし、年少者には気をかける。そして非常に義理堅く、自分に暖かく接してくれる人たちへの恩返しを忘れない……。
そんなジェイセンが、影の軍勢によって王都の人々が死に絶えた後、リリーを助けるためにすべてを捧げたのは、当然の帰結だったのだろう。連日遅くまで帰ってこない父モーガンとの二人暮らしだったジェイセンにとって、マティアスの親友として、いつでも優しく迎え入れてくれたマティアスの母エリアと妹リリーは、初めて持った温かい家族も同然だったのだから。
マティアスは大きく息をつくと、両手を広げた。
「君だけでできないなら、やり方を変えればいい。これからは僕もいる。魔神と魔術師が二組いれば、きっと今まで以上のことができる。王国の人々の助けが必要なら、それも借りればいい。一緒にリリーを助ける方法を探すんだ。そのために必要なら、影の皇帝を倒してでも。」そして、かけがえのない旧友に手を伸ばす。「あとは、君がそれを決断するだけだ。」
ジェイセンは、長いこと何も言わなかった。ロキとエギルの戦いの音だけが、二人の間に鳴り響く。彼は剣を上げ、その氷の刃をじっと見つめた。魔神エギルからもらった、リリーを救うための力。この力を使う方法を、考え直す時が来たのだろうか。
そして、結論を出した。
「……その道もある。」ジェイセンは氷の剣を握った腕を、まっすぐ横に伸ばした。「影の皇帝に忠誠を誓うのをやめ、君たちと一緒に、リリー様を救う方法を探す。もちろんうまくいく保証など何もないが、たしかに、そうするのも一つの道だ。」
しかし、ジェイセンはマティアスに向き直ると、心の底からの声を響かせた。
そこにわだかまっていた、ありったけの憎悪と怒りを乗せて。
「だが!私はまだ、君のことを許せない!リリー様を放置し、私をこんな眼に合わせた君を!だから……。」
ジェイセンは、氷の剣を体の前に戻すと、柄を両手で握り、高く振りかぶった。
「私は君と戦う!戦って、勝った方が我を通すまでだ!」
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(私のモチベーションがものすごく上がって、「よーし、がんばって続きを書くぞ!」という気持ちになれます…!)
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