第六章 灼熱の再会(①裏切り者)
第六章 灼熱の再会
なぜ?
なぜここに、死んだはずのジェイセンがいる?
なぜジェイセンが、あの魔神の隣に立っている?
いったいなぜ——?
マティアスの頭は、疑問で満たされていた。視覚神経から得られた大容量の情報が、脳に過負荷を引き起こし、正常な思考力が奪われる。
しかし、永遠の別れを告げたと思っていた旧友との再会に、マティアスの体は脳の支配を離れて無意識に動いた。マティアスはレイラを床に降ろすと、旧友に駆け寄る。
「小僧!」
「……マティアス!」
静止する二人の声も、マティアスの耳には入らなかった。しかし……。
「……ジェイセン?」
突然目の前に現れた氷の刃に、マティアスは呆然とした。
曇り一つない透明な氷の長剣。彼がよく知っているはずの緑色の眼の少年が、まっすぐマティアスの胸に剣を突きつけていた。
「……マティアス。」氷刃の騎士ジェイセン・ランズベリーはゆっくりと口を開き、冷たい声を響かせた。「やはり君か……。カタリナ村で会った時、そうではないかと思っていた……。」
その時、レイラの弱々しくも鋭い声が、大広間に響き渡った。
「……マティアス!そいつから離れなさい!そいつは敵……影の代行者よ!」体中から力をかき集めたレイラは、なんとか床から体を起こす。
ジェイセンが……敵?
ジェイセンが、影の代行者?
いや違う。僕は知っている。ジェイセンは——。
「——ジェイセンは、僕の親友だ!」マティアスはジェイセンをまっすぐ見て叫んだ。
しかし、ジェイセンはそんなマティアスを冷たく見返した。
「残念ながら、私はもう君の親友ではない。」そう言うと、氷の刃の切っ先を上げ、マティアスの目元に近づける。「家族を売って我が身を助けるような裏切り者は、私の友ではない。」
「家族を売った……?」理解が追いつかず、マティアスはジェイセンの言葉を繰り返すことしかできなかった。「いったい何のことを——。」
「——君はあの日、リリー様を影の執行官に引き渡し、その代わりに逃亡を許された。そして自分は、あの村でのうのうと平穏に暮らしてきた。」ジェイセンはマティアスを遮り、静かに断定した。「違うか?」
「違う!」
マティアスは王宮中に響き渡りそうな声で叫んだ。煮えたぎる怒りが血管を駆け巡り、硬直した思考回路に燃料を注ぎ込む。
「断じて違う!あの日、僕はリリーを助けたかった!いまだって、リリーを助けるために、こうしてやってきたん——。」
「——だが、君は逃げた。」ジェイセンは再びマティアスを遮った。「リリー様を渡せば見逃すという影の執行官の提案に乗り——。」
「嘘だ!」
マティアスの大声が、大広間の割れ残ったステンドグラスを揺らす。
「あいつがそう言ったんだな!ジェイセンを殴り倒す前、あいつはたしかにそんな提案をした。でもそれは嘘だ!僕は決して、リリーを見捨てて逃げてなんかいない!」
その時、ジェイセンは初めてマティアスをまっすぐに見た。かつてマティアスと笑顔で語り合った少年の緑色の眼は、もとの明るい輝きを失い、暗い濁りを帯びている。
やがて、ジェイセンは氷の剣をしまうと、再びゆっくりと口を開いた。
「地下牢で眼を覚まして以来、君がリリー様を捨てて逃げようとしたというヤツの言葉が、私の頭を離れることはなかった。」ジェイセンは、一言一言を自分自身で噛み締めるように、言葉を続けた。「そしてこの立場になり、さらに君は死んだと聞かされた。リリー様を捨てて逃げようとしたが、ゴーレムに殺されたと。私はそれを、当然の報いだと思った。家族を捨てて自分の身の安全を図った裏切り者に、正義の鉄槌が下されたのだと。……だがもちろん、ヤツのことだ。あの言葉が嘘だったという可能性は、十分にある。」
それを聞いて、マティアスの眼に希望の光が宿った。息せき切って、かつての親友に対して必死に訴えかける。
「そう、それは嘘だ!僕はリリーを裏切ってなんかいない!ジェイセン、僕と来てくれ。僕と一緒にリリーを——。」
「——だがそれでも!君が逃げて、いまのいままで助けに来なかったという事実に、なんら変わりはない!」
マティアスの声に覆い被せるように、ジェイセンが叫んだ。周りの空気が凍りつき、炎の残滓を侵食し始める。
「ヤツの言葉は嘘かもしれないと、私が考えなかったとでも思うのか?私は君を信じていた!君はやむを得ず逃げたに違いない、必ずリリー様を助けに来るだろうと、信じていた!でも君は、何年経っても来なかった!君が死んだと聞かされた時、私はどこか安堵もしたんだ。君がリリー様を助けに来なかったのは、あの日にもう死んでいたからだと、納得することができた。だが……。」
いまやジェイセンは、その整った顔立ちを、激しい憎しみに歪ませていた。
「生きていたのなら、なぜ五年間も助けに来なかった?なぜあの村で、いつまでもぬくぬくしていた?私が影の皇帝の前に引き出された時、ヤツはリリー様を自分の実験に使う寸前だった。私がそれを止めなければ、いまさら君が来たって、リリー様はとっくに死んでいただろう!私がいなければ……。」ジェイセンは言葉を切ると、宙を仰ぎ見た。「私がこれまで、何をしてきたかわかるか?王国のすべてに背を向け、影の帝国のために王国の人々を苦しめ、殺してきた。すべてはリリー様を守るためだ。何を犠牲にしてでも、必ずリリー様を救い出すと誓ったからだ!」
ジェイセンの叫び声は、マティアスの胸に、無数の針でえぐられるような痛みを与えた。かつて自分がレイラに語った言葉を思い出す。
いずれ一人でもやろうと思っていた。
いつか仲間を集めて助けに行こうと思っていた。
いまとなっては、すべてが薄っぺらい言い訳にしか聞こえない。いつかを待つ間に、リリーに危害が及ぶ可能性が増していくであろうことから、眼を逸らしていた。
その間、ジェイセンはすべてを賭けて、すべてを捨てて、リリーを守ってくれていたというのに。
マティアスには、ジェイセンにかける言葉が見つからなかった。
「……いまさら戻ってきた君に、リリー様は渡さない。すべてを捨ててでも救う覚悟のない君に、リリー様は救えない。リリー様は、私が助ける。いつか必ず封印を解き、影の皇帝から自由にしてみせる。その未来に——。」
ジェイセンは再び氷の剣を抜き、大上段に振りかぶった。
「——君は、必要ない!」氷の斬撃が放たれ、マティアスに襲いかかる。
「小僧!」
その瞬間、ずっと鳴りを潜めていたロキがマティアスを床に引き倒し、マティアスを氷の斬撃の軌道から逃れさせた。二人はそのままジェイセンから距離を取る。
そこへ、もう一人の魔神が、この部屋で初めて口を開いた。
「炎の魔神ロキ。あなたがその魔術師を守る理由は、いったいなんですか?」
「決まってるだろ?俺の命が惜しいからだ!」愚問だとばかりに、ロキが言い放った。「コイツが死んで俺も道連れ、なんて笑えねぇ。俺は必ず、異世界に帰る。」
「……なるほど。魔神の風上にも置けない、忠誠心の欠片もない理由ですね。」
「異世界を裏切って人間ごときに入れ込んでいるおまえの方が、よほど魔神として終わってると思うがな!」
ため息をついたエギルに、ロキが言い返した。魔神は無理やり召喚によって呼び出され、契約によって人間世界に縛り付けられる存在だ。人間に対する忠誠心など、どこから生じ得るというのか。
「まぁ良いです。あなたとは見解が違うのでしょう。ですが一つ、確認させてください。あなたの目的が我が身の保身なら、十二年間、契約の有効期限切れを待つという手も、あるのではないですか?」
「あぁそうだ。この強情なバカが俺を無理やり連れてこなきゃ——。」
「——ならば私たちは、協力できます。」エギルは軽く手を叩いた。これで解決だと言わんばかりに、笑顔を見せる。「私たちは、彼を殺しはしません。殺せば刻印が無作為転移し、また王国のどこかで、影の帝国に叛意を抱く魔術師が生まれるかもしれませんから。私たちは彼を拘束するだけです。そうすれば、少なくとも十二年間は、反乱の火種となり得る新しい魔術師が生まれることはない。」エギルはロキに手を伸ばした。「私たちに協力していただければ、十二年後、あなたも無事に契約の有効期限切れで解放されることを、お約束しましょう。」
俺は唖然とした。
その発想はなかった。コイツらに協力するだけで、いやコイツらを傍観するだけで、俺は無事に解放される?
俺は小僧をちらりと見た。その顔は、まだ氷刃の騎士の言葉に衝撃を受けているように見える。
俺がこれまで仕えてきた中でも、かなり上位に入る頭の狂った魔術師。妹を助けるとかいうどうでもいい願いのために魔神を召喚し、あげく、自分の女を守りたいとか、昔の親友とよりを戻したいとか、わけのわからんオマケまでついてきて、結果としてすべてが掌からこぼれ落ちつつある。こんなヤツ、俺の大切な命とは比べ物にならない。
「ロキ、アンタまさか……。」
震える声が聞こえた。ちらりと眼をやると、小娘が徐々に力を取り戻し、青白い顔を上げて立ち上がろうとしていた。
俺は魔神だ。それもエギルなんぞと違って、人間どものことになど、毛ほども興味はない。俺は自分の命が一番大切だ。
「……あぁ、たしかに。」俺はようやく言った。「おまえらに協力すれば、俺はいつか必ず解放される。それが一番確実だ……。」
俺は小僧に向き直ると、掌を広げた。掌の上に赤紫色の炎の玉が出現し、ゆらめく炎が小僧の顔を照らし出す。
「えぇ、そうです。私も、ご主人様も、あなたのことを無下にはしませんよ。」エギルは、にこやかな笑顔で続けた。「その魔術師を引き渡してください。それであなたの自由は、保証されます。」
「ロキ……。」小僧は顔を上げて俺を見たが、それ以上何も言わなかった。
俺は、炎の玉を浮かべる自分の掌をじっと見た。傷一つない褐色の肌。かつて俺を召喚した魔術師の孫の姿を真似たものだ。アイツもたいがい、バカだった。バカなことばかり言い、バカなことばかりして、結局、バカな目的のために死んだ。人間はそういう生き物だ。異世界では考えられないような、バカげた出来事、バカげた行動、バカげた感情。人間世界はそんなものに溢れている。まったくもって、救いようがない。
……だがそこに、異世界では味わえない面白みがあるのも、たしかだ。
俺は身を翻すと、手にした炎の玉をエギルに投げつけた。予想外の攻撃に、エギルが正面から炎の玉を食らって吹き飛ばされる。
しかし、この程度の攻撃でこの魔神を倒し切るのが不可能なことは、俺もよくわかっていた。いまのはちょっとした……決意表明だ。
「なんと、バカなことを……。」エギルは立ち上がると、煤を払いながら戻ってきた。「あなたはその魔術師につくというのですか?自分の命を捨ててまで?」
「勘違いしてもらっちゃ、困るんだけどよ。」俺は軽く肩を回すと、改めてエギルに向き直った。「おまえらの仲間になっても、解放されるのは十二年後。しかも、影の皇帝の気まぐれでいつ俺との約束がパーになるか、まったくもってわからないっていうオマケつきだ。」俺は、たったいま思いついた理由を並べ立てた。「それに引き換え、このバカな小僧との契約を果たせば、俺は今夜中にでも自由の身になれる。コイツの妹とやらは、おまえらが後生大事に守ってくれてるって言うじゃねぇか。しかもいまの俺は、前と違って本気で戦える。となりゃあ、あとは——。」
俺は両手を大きく広げた。彼らの周囲を取り囲むように、赤紫色の獄炎が轟々と立ちのぼる。
「——おまえらをぶっ倒せばいいだけ、だよなぁ?」
「……それができるなら、ですがね。」
エギルはそう言うと、背中から翼を生やして宙に飛び立った。空中に無数の青色の光が煌めき、中から氷の槍が現れる。
その時、彼らの言葉に呼応するように、マティアスが立ち上がった。決意を固めた表情で、ジェイセンとエギルをまっすぐ見据えつつ、ロキの方を振り向かずに声をかける。
「……ロキ。ありがとう。」
聞こえるか聞こえないかくらいの、小さな声だ。
「う、うるせぇバカが。俺は俺のためにやってるだけだ!頭の悪いおまえなんかと十二年間も契約で繋がれたままなんて、虫唾が走る。おまえとは、絶対に今夜でおさらばしてやるぜ。」
マティアスは、その言葉に応える代わりに剣を抜いた。刀身のない、しかし柄と鍔に煌びやかな装飾が施された王族の剣。そこから、ゆっくりと炎の刃が伸びる。
「ジェイセン、君がリリーを守り続けてくれたことには感謝している。感謝してもしきれない。」マティアスはハッキリと言葉を発した。「たしかに僕は来るのが遅かった。それが君にどれだけの苦しみを与えたか、僕には想像することしかできない。君が僕を憎む気持ちはよくわかる。……でも。」マティアスは炎の刃を、かつての親友に向けた。
「影の皇帝に取り込まれ、闇に呑まれた君一人の力では、絶対にリリーを救うことなんてできない!」
「ふざけるな!」ジェイセンが絶叫した。「マティアス、君がいればできるとでも言うのか?あの抗うことが不可能と思えるほど強大な力。君程度が加わったところで、何かが変わるとでも?」
「それでも、二人は一人よりも強い!」
「きれいごとを言うな!裏切り者!」ジェイセンはそう叫ぶと、氷の刃を構えた。「君の助けなど、必要ない!」
次の瞬間、ジェイセンが魔力を込めた氷の斬撃を放ち、同時にエギルが無数の氷の槍を撃ち出した。それを、マティアスの炎の斬撃とロキの炎の弾丸が空中で迎え撃ち、両者の間に巨大な爆発をもたらす。
王宮全体を揺るがすその爆発音が、宿命の対決の始まりを告げる号砲となった。
「魔神と魔術師」をお読みいただいて、本当にありがとうございます!
もし、「おもしろい!」「続きが読みたい!」と思っていただけましたら、【高評価】と【ブックマーク】を、ぜひよろしくお願いします。
(私のモチベーションがものすごく上がって、「よーし、がんばって続きを書くぞ!」という気持ちになれます…!)
貴重なお時間を割いて本作をお読みくださった皆様に、何か楽しいことが起こりますように。
どうぞ今後とも、よろしくお願いします。
☆★☆ 御春 旬菜 ☆★☆