苦味と甘味
「ここが今日から宇宙人のアジト、好きに使え!」
纏めた荷物を地球人・柳川の車に積み込み、ちょっと古めの一軒家に到着して、かりんさんが宣言した。
建物は2階建て、小さいながらも庭があり、玄関の脇には種類のわからない木が1本とアジサイが咲いていた。電気は点いていない。
車庫はないのか門から奥へ進んで玄関前に停車、玄関を開いて戻ってきた。
2人が「ほいさ」「よっと」と言いながら、淡々と荷物を運び込み始めたので、急いで僕も運び込む。引っ越しと言っても段ボールに5箱で収まってしまった荷物は、上り框へ2列に積まれて、1人2往復もすると、あっという間に終わってしまった。
潜伏先を移るよう指示されたときは、公共交通機関を利用して1つずつ運び込み数日がかりだったが、自動車とはこうしたものか。
バン、バンと車のドアを次々閉じていく。
かりんさんが車の向こうで背伸びをした。
「引っ越し完了!柳川、送ってくれ」
3人で1時間もかからず終わるとは……。
分室を出て、あまりの急展開に茫然自失。
最後の荷物、借り物のスーツケースを持ったままだ。
玄関先で動かなかったのは、機密に関する古い型のファックスをスーツケースに詰めたからなのだが、こんなことなら逃走なら防寒具を入れておくべきだった。
誰のものとも知れない家、制服姿のままで僕が1人で居座っているという状況は非常に困る。家主でなくとも通りすがりの人からは『なにをしているのだろう』と訝しがられるだろう。そこに思い至ることはなかったらしく、二人は軽く手を上げ「おつかれさん」と普段通りの軽い挨拶だけで走り去ってしまった。
携帯端末を開いて確認するが、メッセージはない。
諦めて閉じる。
どれぐらい経ったのだろうか……?
玄関前にスーツケースを持ったまま立っていたら、見慣れた車が門からバックで入ってくる。ドアを開いた柳川が「ただいまー」と誰に言うでもない風に言って、ドアを閉じて、鍵を締め、そこで初めて目が合った。
「ああ。ずっと立って待ってたんですか?」
柳川は不思議なものでも見るように、こちらを見ている。
まぁ自宅の前に宇宙人が立っていたら、普通こんな反応ではないだろう。お互いファーストコンタクトというわけでもないので、こんなものだ。
「お腹が冷えた?」
「これは僕のクセのようなものだ」
「随分と難しい顔で立ってますね」
「その程度には難しい状況なんだ」
まったく頭が痛い問題ばかりだ。
お腹を押さえているのは違う意味だが、即、指摘してきた。やはり気付いている可能性が高い。そうでなくとも一緒に住んでいれば遠からず気付くだろう。
注意しなくては。
ガチャリと扉を開いて「寒いでしょ、入ったら?」と言われて、スーツケースを持ったままフラフラと家に入る。さきほど運び込んだ段ボールが玄関に5箱。
つまりこれが僕の家財道具一式だ。
あれよあれよと言う間に移動した、独りで新たな潜伏先へ移動するなら5往復、大きなスーツケースもある。今は観念して指示に従うしかない。
そのままついていくと居間らしき部屋だ。柳川はソファーに座って「ふーぅ」と一息つくと、ネクタイを外し、続いて眼鏡を外し、テレビを点けて……特に興味は無かったらしい、電源を切った。
「眼鏡は……?」
「それほど悪いわけではないので生活に支障はありません。仕事用です」
「ネクタイは?」
「以前の職場はネクタイ着用が義務付けられていたので、デスクワークはネクタイを。造作は工具に巻き込むと危ないのでツナギを着ます。うちの会社は服装自由なので、忘年会では大抵ロックバンドのマネージャーと勘違いされますね」
その仕事内容は破廉恥なイラストのデジタル彩色だ、とても褒められた仕事とは言えない。『分室』はともかく開発室の人まで本当に普段着で出勤してきている、てんでばらばら好き勝手な服装だそうだ。
まだ開発室へ行ったことはないが、訪れる人々はジャンルは様々だったとしてもバンド活動をしている人のような服装をしていた。
「珈琲でいいですか?」
「は?はい。珈琲……いや!その前に説明を……」
「いえ、まずは珈琲からです」
そう言うならと、そこらに座る。
ヤカンでお湯を沸かしながら、豆をいくつか取り出して見比べ「これかな?」とゴリゴリ挽き始めた。粉にした豆をペーパーフィルターに移し終えると小鍋で別に少量だけ火にかけておいたお湯をトポトポとかけた。
暫らく、ぼーっと見ている。
ヤカンのお湯が沸いた頃合いで、珈琲を落とし始めた。
僕はその後ろ姿を、ぼーっと見ている。
「ベッドもテレビも冷蔵庫も、なにもありませんでしたね?」
「即座に引き払えるようにしていた」
肩で笑いながら「確かに。即座にね」と言った。
何処か面白い要素があったのか、と不思議に思う。
通常の引っ越しがどれほど大変な作業なのか。
地球人・柳川は、体験談を交え、少し話した。
「あんな寂しい部屋に独り、10年ですか」
「地球のスパイをしていた。仕事のためだ」
「10年間、お疲れさまです。はい、珈琲」
「あ。ありがとう……ございます」
ガラス天板のテーブルに、カチャと大振りなカップが置かれた。
自販機の珈琲しか知らないが同じ珈琲か。焦げ臭いのとも違う。
「香りが全然違う」
「マンデリンの深煎り、苦味と濃厚なコクが特徴のアラビカ種です」
珈琲を一口飲む。
全く甘味が無い。
こんな苦味ばかりの飲料、とても嗜好品とは言い難い。
「しかめっ面だ、珈琲は初めてですか?飲み物自体あまり飲んでいる姿を見たことがない。今日は必要です、飲んでください」
そういうものか、飲み慣れていないからかもしれない。これが必要と言われても我慢してまで摂取する意味はわからない……が。そのうち少し落ち着いてきた。
そういえば。
ここも、あまり物の無い家だ。必要最低限というには奇妙な機材や工具が多い。ミシンは衣装作りに使ったもの?そんなものが雑多に置きっぱなしになっていて、他に人の気配を感じない。この部屋にある食器や、そういえば玄関の靴にしても、人数分あるはずのものが極端に少なくて住んでいる形跡も感じられない。
「ご家族は?」
「ああ。ここ?ちょっと広いアパートを探したら高くって、家賃が5万だったので引っ越してきただけ。独りで住んでいます」
「5万円……」
「電気・ガス・水道は基本料から自分持ち」
「どのくらい」
「おおよそプラス1万円以上は払いますね」
僕が契約しているアパートと似たような家賃だ。家賃と管理費で、5万2千円を払っている。たったのプラス1万、光熱費を払えば家に住めたのか。
……10年も気付かなかった。
今は、その5万2千円に行き詰って、ここに転がり込んだ身の上だ。いまさら、なんの情報価値もない情報を手に入れてしまった。少し溜息が出た。
これが家か。あまり馴染みがないけれど、広さというより根本的に造りが違う。潜伏先は3度変えているが、どれもアパートはどこか無理に押し込んだような造りで、配管や配線の都合か、風呂やトイレ、流し台、電気のスイッチかコンセントのどれかは妙な場所にあって、使い勝手の悪いことが多かった。
珈琲を一口飲む。
「この珈琲、味が変わる?」
「コーヒーシュガーをそのまま入れると少しずつ溶けていく、変化を楽しむ飲み方です。キャラメリゼしたケーキを美味しそうに食べていたので、この香味がお好きなのかなと」
「甘い……」
「私は、この飲み方が好きなんです。辛いことの後には、きっと良いことがある、そんな気がする。今は苦しいことしか見えないときに飲む珈琲です」
職場では事務的で冷淡にしか聞こえない中途半端な丁寧語が、ここで聞くと妙に心に響く。抑揚に乏しく長ったらしい説明口調、どこでなにに役立つか今のところ見当もつかない豆知識の数々も、こちらから話題を提供できない僕のような身の上には居心地が良い。
「進学からではなく年単位でがらんどうの部屋、均一に日焼けした壁紙、あそこで独り暮らしを続けていたのだと、あの部屋を見て理解しました。家賃を支払えない状況に追い詰められていた。本当に、お疲れさまでしたね」
「その生活も、もう御終いだよ ―――― 」