近衛連隊のリュシアン・ド・ラ・ローシュ侯爵
ゆうべ兄とマリウス様はだいぶ遅くなってから帰ってきたようで、朝食の席には姿を現さなかった。
わたくしはマリウス様と顔を合わせるのが怖いような、嬉しいような、混乱した気持ちだったので、今朝マリウス様と会わずに済んでちょっとホッとしたのだ。
いつもよりもボーッとして歩いていたせいか、叔母様のクチュリエールのある商業街の大きな道で、何人もの人とぶつかりそうになった。
大通りは馬に乗った騎士や、忙しげな馬車がたくさん行き交っている。
邪魔にならないように歩道の端を下を向いて歩いていると、突然頭に何か小さくて固い石のような物が、コツンとぶつかって前に転がる。
石畳の上に転がって行くのは、丸く金色に光る物だ。
(あら?何だろう、ボタンかしら?)
わたくしは、転がったボタンのような物を屈んで拾う。
やはりキラキラと光る大きな金のボタンで、立派な紋章が刻まれている。
この紋章は王家の旗にも使われているので、よく知っている。
この紋章が付いている金のボタンと言うと......
「やぁ、ボタンを拾って下さったのですね」
わたくしの頭の上から、柔らかな音楽のような声が降ってきた。
驚いて顔を上げる。
キラキラと輝く金の粉を撒き散らしながら、天使が降臨したと言ったら大袈裟だろうか。
金色の糸のような綺麗な金髪で、宝石のような碧眼の騎士が、微笑みを浮かべてわたくしを覗き込んでいる。
「ボタンが飛んで、お嬢様に当たってしまったのではないでしょうか?」
真っ白な上着に金色の縁取りのモール、上着の上から下まで続く金の飾りボタン、この制服は王室近衛連隊だ。
「大丈夫でしたか?お怪我はありませんか?」
その騎士は優しく手を伸ばして、わたくしの手を取って立ち上がらせると、もう片方の手でわたくしの額に懸かったほつれ髪を、そっと払う。
近衛連隊の制服を着た騎士は、背が高くがっしりとした体格だが、声はゆっくりと滑らかで、動作も優雅で優しい。
おまけに、広い肩幅から繋がるウエストは細く、脚も長い。
わたくしは、この世に存在すると想像もできなかった美形を目の当たりにして、茫然として言葉も出ない。
パチパチと瞬きをして、その騎士を見詰めるばかりだ。
「ん?」
その騎士は、わたくしの目の前で手をヒラヒラさせる。
わたくしはようやく、自分が固まって相手をじっと見詰めていた事に気付いて、顔に血が上る。
「あっ、済みません、大丈夫です。
......頭にぶつかりましたけれど、何ともありません。大丈夫です」
わたくしは、慌てて早口で答える。
騎士はフッと優しく笑って、わたくしの前に手の平を差し出す。
何だろう?握手かな?と思って、その手を握って握手する。
「アハハ!面白いお嬢さんですね。拾ったボタンを下さい」
わたくしは、拾った金のボタンをギッチリと左手で握り締めていたのだ。
今度こそ、わたくしの顔は真っ赤になっているに違いない。
余りの恥ずかしさに下を向いたまま、ボタンをグッと差し出した。
「ボタンを拾ってくれて有難う」
天使のような騎士は、ボタンごとわたくしの手をそっと両手で包む。
「でも、困ったな。ボタンが取れたままでは出掛けられません。
この辺りでボタンを付け直して貰える場所を知りませんか?」
そう言う事なら、お任せ下さい。
勿論、わたくしは知っています。
「それなら、すぐそこに叔母のクチュリエールがありますので、直ぐ直ります」
「そう?それは丁度良かった。案内して頂けますか?」
騎士は傍にいた従僕に何か言って馬を預けると、わたくしに近付いてエスコートの腕を差し出した。
エスコートの動作もとても自然で、慣れている様子なので、わたくしはジタバタせずに騎士の腕に掴まった。
わたくしの足は雲の上を歩いているようで、ふわふわと覚束ない。
いつもの道なのに、全く知らない街を歩いているようだ。
すれ違う人は皆こちらを見て、騎士に憧れの目を向け、わたくしには失望の目を向けているように思える。
特に若い女性は、わたくしを刺すような目で見てくるのだ。
騎士にエスコートされてデュボア商会の建物に入ると、執事のジョセフが驚いた様子でわたくし達を迎える。
「これは侯爵閣下、ようこそおいで下さいました。只今主人が参ります」
「いや、構わないで下さい。取れたボタンを直したいだけなのです」
わたくしは知らなかったのだが、執事のジョセフはこの騎士が誰かを知っていた。
有名な侯爵様のようだ。
知らせを聞いて、叔母様が階段を急いで降りて来る。
叔母様は、侯爵様に対してドレスを摘んでご挨拶をする。
「ようこそおいで下さいました、侯爵閣下。
ガブリエール・デュボアでございます。
デュボア商会の二階でクチュリエールを致しております」
「大層に扱わないで下さい。ボタンが取れてしまったので、急いで付け直して頂きたいだけなのです」
「畏まりました。失礼ではございますが、上着を脱いで頂かねばなりませんので、狭い所でございますが、二階にお上がり頂けますでしょうか」
叔母様は侯爵様を案内して、二階の客間に通す。
わたくしも後をついて二階に上がる。
「恐れ入りますが、上着を脱いで、こちらの椅子にお掛けになってお待ち下さい。
ボタンは直ぐ付け直させます」
叔母様の侍女は、侯爵様の上着を脱がせると作業部屋に持って行く。
侯爵様は、勧められた椅子に座り、物珍しそうに周りを見渡す。
この客間にドレスを作るお客様がいらっしゃる事もあるので、女性好みの客間にしてあるのが珍しいのかもしれない。
当然ながら、こんな突発的な事でもなければ、侯爵様がクチュリエールに来るはずも無いのだ。
侯爵様は帽子や上着を脱ぎ、真っ白いレースの付いたシャツと中着の丈が長いヴェスト姿だ。
そして、長い脚を組んでゆったりとリラックスして椅子に座っている様子は、著名な画家の描く名画のように美しい。
叔母様が言い付けてあったのか、タイミング良く侍女がお茶とお菓子を持って部屋に入ってくる。
わたくしは、侯爵様の上着が気になって、そっと抜け出して作業室に向かった。