久しぶりの海への散歩です
マリウス様は、わたくしをエスコートしてゆっくりと歩きはじめる。
屋敷の敷地を抜けて、海への道を歩いていく。
この道は、子供の頃に何度も通った道だ。
兄とマリウス様が、早く走って行くものだから、わたくしは取り残されて、マリウス様の名前を呼んで泣いた道だ。
あの時、マリウス様が泣いているわたくしの所に戻ってきて、
「泣くな。泣いても何も解決しない。泣いている暇があったら、走るんだ」
そう厳しくわたくしに言ったのだけれど、マリウス様は、自分の白いシャツの袖で、わたくしの涙を拭いてくれたのだ。
「懐かしいわ。この道は、子供の頃によく通りましたね。
わたくしがお兄様とマリウス様に取り残されて、泣いた事があったのを覚えていますか?」
「いや、覚えていないね。
そんな事があった?」
「ええ、マリウス様は、泣いているわたくしに『泣くな。泣いても何も解決しない。泣いている暇があったら、走るんだ』と言ったのですよ」
「......全然覚えていないね......そんな事があった?
もしそう言ったなら、悪かったね。
子供の事だから、考え無しに言ったのだろう」
「いいえ、わたくしはマリウス様の言葉に、何度も力付けられて来たのです。
本当に、泣いているだけでは、何も解決しませんもの」
しばらくの間、マリウス様は黙っていた。
「そんな風にエリザが覚えていてくれて、本当に嬉しいよ」
「わたくしは、この言葉を思い出して、辛い時でも頑張って、ドレスを作って来られたのです」
マリウス様は、エスコートしているわたくしの右手の上に手を重ねる。
「エリザは一生懸命にドレスを作っているから、いつも感心して見ているんだ」
「わたくしは、ドレスを作っている時が一番幸せなのです」
わたくし達は、ゆっくりと歩きながら、ポツポツと話す。
「エリザは、ミレイユ様の結婚式のためのドレスも作るんだって?」
「ミレイユ様は派手な事がお嫌いで、結婚式もウェディングドレスを作らずに、披露宴と同じドレスで通したいと言われるのです」
「そういえば、ミレイユ様は子供の頃から、大人の陰に隠れているような恥ずかしがり屋だったね」
「ええ、ミレイユ様は修道院に長くいて、修道女になってしまうのではないかと、子爵夫人は気を揉んでいらしたようです」
「そうか、それでこんなに早く話が纏まったんだね」
「お兄様もとても乗り気ですし、両家にとって良い結果だと思いますわ。
でも、朝にマリウス様も聞かされたでしょう?
わたくし達は、毎日あの兄の惚気を聞かされているのですよ」
マリウス様は笑う。
「確かにヴィクトルは、手放しで惚気ているね。
余りに嬉しくて、つい、誰かに話したくなるのだろう。
でも、まぁ、気持ちは分からないでもないよ」
先日、叔母様が、お付き合いしている女性がいるかと、マリウス様に尋ねた時、誰もいないと答えたマリウス様だ。
でも、兄の気持ちが分かると言うなら、マリウス様も、惚気たくなるような恋をしていたのだろうか。
マリウス様はハンサムだと、若い娘達に騒がれているそうだから、一つや二つの恋愛沙汰があってもおかしくないだろう。
わたくしは、話を変える。
「マリウス様は、何かご用事があったそうですが、もうすっかりお済みになったのですか?」
「ああ、大体は終わった」
それからまた、マリウス様は黙った。
わたくし達は林の中の道を抜けて、海が見える小高い丘の上に出る。
枯れていたのか、強い風で横倒しになった大木があって、ちょうどベンチのようになっている。
マリウス様は、木の幹を持っていたハンカチーフで払うと、わたくしをそこに座らせる。
「だいぶ歩いてきたから、エリザは疲れただろう。
少し休憩をしようか」
海から吹いて来る風が心地好い。
「遠くまで歩いて、久しぶりに海を見ました。
わたくしは、ずいぶん長い間、海を見ていなかったのです」
「エリザは海が好きかな?」
「ええ、荒れている海は怖い感じがしますが、今日のような穏やかな海は大好きですわ」
マリウス様は、木々の間から光って見える海を眺めてしばらく黙っている。
そして、決心したようにわたくしの方に向き直った。
「エリザ、ちょっと聞いて欲しい事があるんだ」
マリウス様のお顔は真剣だ。
「先日の急な用事と言うのは、私の将来の話だ。
私が、ウルム公国の貴族の庶子(愛人の子供)だという事は、エリザも知っているだろう?」
「ええ、マリウス様のお母様は、その貴族の第一夫人から嫌がらせを受けていたとか」
「単なる嫌がらせと言うより、迫害に近かったようなのだ。
私が生まれてからは、それが一層酷くなって、母は危難を避けるために伝手を頼ってこの国に来たのだ」
「それで、ちょうど乳母を探していたお母様の所に来られたのですね」
「私がそうした事情を知ったのは、母が亡くなる直前の事だった。
その前に亡くなった私の父は、遺言で母に遺産を残してくれたので、母を少しは気遣かってくれていたらしい」
第二夫人や愛人に子供が生まれると、第一夫人は我が子を守ろうと必死になるだろう。
やはりわたくしが、リュシアン様の第二夫人になる事をお断りしたのは正しかったのだ。
「ところが先日、その父の家の公証人が私を訪ねて来たのだ。
父の相続人が全員亡くなってしまって、私が唯一の相続人だそうだ」
「ええっ、今になって、そんな事があるのですね?」
「私の父、亡きクラーギン伯爵は、ウルム公国の貴族だが、それほど豊かな領地を持っている訳ではない。
ただ、幸いにも領地は我が国のすぐ隣だし、大きな街道も通っている。
王都からは馬車で一日で着ける距離だ」
「それでは、方向は逆ですが、王都からはこの領地と同じぐらいの距離なのですね」
「私は、その遺産を放棄する事も出来たのだけれど、色々と考えた末に受ける事にした」
「それはそうでしょう。
せっかく地位も財産も出来るのですもの。
当然ですわ」
「それで、騎士連隊の除隊手続きが終わったら、私はウルム公国に行く事になるのだ」
その時、初めてわたくしは、マリウス様の言葉の意味を知る。
もう、マリウス様と今までのように会うことは出来なくなるのだ。




