生地問屋は天国です。
朝起きて食堂に行くと、マリウス様はもう連隊に帰っていた。
兄の脚の腫れがだいぶ引き、一人で何とか歩けるようになったので、連隊の宿舎に戻ったのだと言う。
兄はまだ階段の上り下りが難しいと我が儘を言って、朝食を部屋に運ばせたそうだ。
お母様は、しばらく兄が家で療養するのが嬉しいのか、相変わらず兄を甘やかしている。
わたくしは朝食を食べた後は、いつものように叔母様のクチュリエールに出掛ける。
やはりゆうべは遅くまでお仕事をされていたようで、叔母様は疲れたお顔をしている。
それでも流石は叔母様で、アンリエット様のドレスは綺麗に直っていた。
叔母様は今日もわたくしと助手を連れて、アンリエット様にドレスを納めに行く。
叔母様は馬車に揺られながら、うつらうつらと居眠りをしている。
程なく馬車はヴァルノ男爵家に着いた。
アンリエット様はクートリエ候爵様の夜会に向けて、侍女に髪を結わせている。
侍女が熱くした鉄の棒で、アンリエット様の髪を綺麗なロールの巻き毛にしている。
アンリエット様は顔をしかめて座っている。
「ちょっと!熱いじゃないの!顔に火傷させたら承知しないわよ」
夜会での美しい外見を作り出すには、その前に耐えねばならない様々な苦痛も多いのだ。
ようやく髪のセットが終わり、今度はコルセットを締めて、お直ししたドレスを試着してもらう。
「如何でございましょうか、アンリエット様」
裂けた部分を取り替え、ウエストの幅出しをしたドレスに身を包んだアンリエット様は、鏡の前で右を向いたり、左を向いたりする。
「前よりも太って見える気がするのだけれど」
太って『見える』のではなく、アンリエット様が丸々と『太っている』のですと、はっきり言えたらどんなに楽だろう。
「賦与が効いていないのじゃないかしら」
「アンリエット様は胸が豊かでいらっしゃいますので、胸のラインはとてもお綺麗でございます」
「まぁ、そうかしら」
アンリエット様はご自分の胸を満足そうに見る。
「それにアンリエット様はきっとダンスをたくさん申し込まれると思いますが、コルセットは緩めになさった方が、何曲も軽やかにダンスを踊られますでしょう?」
「今夜の夜会には、近衛連隊のリュシアン・ド・ラ・ローシュ候爵様がいらっしゃるのよ。
本当に素晴らしい方!
あの方にダンスを申し込まれたら、どうしましょう」
「まぁ、そうでしたか。アンリエット様が踊られる姿を見られたら、候爵様もダンスを申し込まれるかもしれませんね」
アンリエット様は、ボウッと上気した頬に手を当てて妄想に耽っている。
その何とか候爵は、アンリエット様が名前をフルネームで言えるくらいに憧れている人のようだ。
あれっ、そういえば兄が憧れるデルフィーヌ子爵令嬢も、そんな名前の候爵を陥とそうとしていたのではなかったか。
貴族の位も高く、令嬢達から憧れを集めるその候爵は、よほどのハンサムらしい。
わたくしのような貧乏な男爵令嬢には、雲の上の人で全く関係ないことだけれど。
叔母様は何とかアンリエット様のクレームを解消した。
わたくしはドレス作りはとても好きなのだけれど、こう言う営業活動はまだまだ苦手だ。
叔母様は、今回の特急お直しの料金もしっかりもぎ取って男爵家を後にする。
「生地問屋から、新しい生地が入ったという知らせが有ったの。ちょっと寄って見て行きましょう」
嬉しそうに言うと、叔母様は助手のお針子を途中で下ろして、わたくしと商業街の生地問屋に向かう。
生地問屋はわたくし達の天国と言って良い。
お店に着くと、お得意様の叔母様は丁寧に迎えられる。
生地棚がずらりと並んでいる部屋に通されて、主任の店員が新しく入荷した色々な生地を見せてくれる。
サテンにタフタ、ビロード、金襴の布、新しく流行になってきたモアレのシルク、羽根のように薄いオーガンジーにシルクシフォン、色とりどりの布が溢れている。
「そろそろエリザのドレスの生地も決めようと思っているけれど、エリザの好きな色はあるかしら?」
「わたくしは自分の瞳の色と同じ薄い藍色にしたいのです」
「そうね、デビューの夜会服は、髪の色とか瞳の色と同じにするのはとても良いと思うわ。
王女様でもないのに、若い女性が金襴で着飾り過ぎるのは下品ですもの」
叔母様は、さりげなくアンリエット様を貶す。
前回作った『富』の賦与を付けたドレスの事を言っているのだ。
「エリザの髪は栗色でありふれているから、瞳と同じ藍色が良いわね。
エリザは肌の色が白くて綺麗だから、藍色はきっと似合うわ。
......藍色の生地を色々と見せて頂けるかしら」
店員は藍色の生地を集めて持ってくる。
一口に藍色といっても、薄いものから濃いものまで、微妙に異なる色味がある。
「エリザは今、オーガンジーに刺繍をしているでしょう。
その布を重ねるなら、濃い藍色にした方が刺繍が浮き立って綺麗だと思うの」
「袖口にはレースとフリルを付けたいのです」
「そうね、それに所々に濃い藍色のリボンをつけて、全体的には薄い藍色のドレスにしましょうか」
叔母様は綺麗な薄い藍色のシルクタフタを一巻きと、濃い藍色のシルクを七百エレ(約五メートル)、濃い藍色のリボンを一巻き買った。
その他にも、裏地用の絹地や新製品のモアレの絹地やレースを買い込んだ。
叔母様のクチュリエールには既にたくさんの生地が積まれているけれど、生地問屋に行くと新しい生地を買わずにはいられないらしい。
これらの生地は、後でまとめてクチュリエールまで届けてもらうのだ。
「生地問屋に来ると、つい時間を忘れてしまうけれど、やっぱり新しい生地を見るのは楽しいわ。
素敵な生地を見ていると、新しいドレスのアイディアがどんどん湧いて来るもの」
叔母様は朝とは打って変わって、生き生きとして活力が溢れている。
新しい生地を見て、すっかり気持ちが切り替わったようだ。
わたくしもいよいよデビューの時のドレスが決まって、わくわくが止まらない。
どんなドレスに仕上がるのだろうか。
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