兄のヴィクトルと乳母子のマリウス様
家に帰ると、執事のジェロームが迎えてくれる。
この執事は、わたくしが生まれる前からお父様に仕えてくれる律儀な年寄りだ。
「お帰りなさいませ、お嬢様。ヴィクトル様がお戻りでございます」
「あら、お兄様がどうしたの?連隊の休暇でしょうか?」
「いいえ、お怪我をされてお戻りになられました」
「えっ、またなの?」
わたくしが家の左手にある居間に入っていくと、長椅子にだらし無く凭れる兄のヴィクトルがいた。
「お兄様、今度は何をなさったの?」
「いや、ちょっと目測を誤って、馬が垣根を飛び越え損ねたんだ。そのせいで落馬して脚を挫いただけさ」
「お兄様は馬のせいのように言うけれど、本当はお兄様がよそ見でもしていたんじゃないのかしら?」
わたくしより四歳年上の兄は、兄の威厳も感じさせずに目を逸らして口の中でモゴモゴと言い始めたので、わたくしの見立ては当たったのだと思う。
「デルフィーヌ子爵令嬢が馬車で出掛ける時に偶然出会って、ちょっとだけ話が出来たのに浮かれて落馬した、と言うのが情けない真相だけどな」
奥の椅子に座っていた、兄の乳母子のマリウス様が辛辣に言う。
「ちょっ、お前、何を言ってるんだ!」
マリウス様は子供の頃から兄の遊び相手で、大きくなってからも同じ連隊の騎士となっている。
黒髪で黒い瞳をしていて背が高く、少し異国風の美男子だ。
おまけに騎士としての能力は兄よりも高い。
「デルフィーヌ子爵令嬢のドレスを、ガブリエール様のクチュリエールで作っていると言っていたじゃないか。
だったらいずれバレてしまうだろう」
「デルフィーヌ様は、落馬した私を気遣かって、わざわざ医者を呼んで下さったのだ。
きっと私に好意があるに違いない」
いつも、こんな兄だ。
少し綺麗な令嬢とちょっと話をしただけで、すぐ好意を抱かれていると思い込み、無駄に令嬢の周りをウロウロした挙げ句、振られたと落ち込むのだ。
だいたい兄は、自分が貧乏男爵の息子であり、美男子でもなく騎士としても冴えない男だという現実認識が足りない。
フワフワと身の程知らずの理想ばかり追い求め、いつも玉砕を繰り返しているのに分かっていない。
兄は振られたのではなく、『何も始まっていない』事に気づくべきだ。
こんな兄でもわたくしは家族として愛しているので、身の程に合った女性に目を向けて、そこそこの女性と結婚して幸せになって欲しいと思っている。
ただし兄が今憧れているデルフィーヌ子爵令嬢の実際の姿を、わたくしは職業上の顧客保護の観点からしても言う訳にはいかない。
デルフィーヌ様が特大の胸パットでグイグイ胸を盛り上げている事とか、体臭が強烈に臭くて、甘ったるい香水をジャバジャバ掛けて誤魔化しているとか、近衛連隊の某候爵を何とか陥落させたいと狙っているとか、とても言えない。
「さぁさぁ、そろそろ夕食にしましょう。
ヴィーは脚の痛みはどう?脚を挫いているのだから、さぞかし痛むでしょうね」
お母様が居間に入って来た。
お母様は兄に甘くてとても過保護だ。
何でも兄の前に生まれた子供を、乳幼児の頃に三人も亡くしたそうで、兄が怪我をしたり風邪を引く度に大騒ぎをする。
両親にとって残ったのは、兄とわたくしの二人だけだが、貧乏な男爵家なので相続人が少ない方が良かったのだと思う。
お母様はガブリエール叔母様の姉だけれど、性格は全く違っている。
よく言えば貴族的でおっとりしているのだが、体面にこだわって新しい事に挑戦しない。
結婚も、貧乏でも男爵の位のあるお父様を選んだし、気が進まなくても儀礼的なお茶会の出席は欠かさない。
「お母様、ヴィーなんて、子供みたいに呼ぶのは止めて下さいと、いつも言っているではありませんか。
私はもう立派な騎士なのですから」
「おや、まぁ、そうでしたね」
お母様はつい、子供の頃の呼び名で兄を呼ぶ。
『立派な騎士』と兄が自称しているのも疑問符がつくので、どっちもどっちだと思う。
食堂に移動する時に、マリウス様は兄に肩を貸して歩かせている。
今日も怪我をした兄を家に連れて来てくれたのはマリウス様に違いない。
辛辣な言葉も言うけれど、マリウス様は兄を気に掛けて面倒を見てくれているのだ。
そんなマリウス様をわたくしは兄のように慕っている。
実をいえば、わたくしは兄よりもマリウス様を信頼しているかもしれない。
わたくしが修道院の寄宿舎を出て家に戻り、騎士になった兄とマリウス様に久しぶりに会った時に、マリウス様はびっくりしたようにちょっと目を細めて言ったのだ。
「おや、エリザ、いや、男爵令嬢、すっかり大人になって見違えましたよ」
「あら、前と同じようにエリザと呼んでくださらなくては嫌ですわ。マリウス様こそ背が高くなられて、騎士の制服がお似合いです」
「私だって騎士になったのだ。制服も似合っているだろう」
兄が横から自己主張するけれど、残念ながら、騎士の制服は兄には似合っていない。
同じ制服なのに、どうしてこうも違って見えるのだろう。
マリウス様の黒い瞳と髪が、騎士の制服の縁取りの黒いモールと調和しているのか、身体に一本線が通っているような姿勢の良さなのか、すっきりとした制服の立ち姿はハッとするくらい美しい。
わたくし達が食堂に入ると、お父様も書斎から出て席に着かれた。
食事の前のお祈りを済ませ、夕食が始まる。
お父様は領地の小麦や裸麦の成育具合とか、領地の支配人の話を兄にするのだけれど、兄は領地に興味がなく、何事も支配人に任せていれば良いという態度だ。
マリウス様はお父様のお話に付き合って、辛抱強く聞き手になっている。
お母様は何度目かの話を蒸し返す。
「エリザ、デビューの夜会まで三ヶ月もないけれど、クチュリエールではドレスの製作は進んでいるの?」
「大丈夫よ、お母様。わたくしも生地に刺繍ができるし、叔母様はお仕事が早いから絶対に間に合わせてくれますわ」
「そうなら良いのだけれど、何しろ大事な夜会ですからね。
今の流行はどうなのかしら。わたくしも新しいドレスを作りたいのだけれど」
お父様はウンザリした顔をして、お母様を見る。
「お前はこの前もドレスを作ったばかりじゃないか。エリザが戻ってきて、お茶会に呼ばれることが増えるからと言って」
「そうして色々な方にお招き頂き、こちらからもお招きして交際を広げるのは、子供達の結婚に繋がるからではありませんか。
田舎の領地や家の中に居てばかりでは、適齢のお子様をお持ちの貴族の方とどうしてお知り合いになれるのでしょうか」
「お前が新しいドレスを着たって、誰も見ている人など居ないだろうよ。それよりはエリザにドレスを作ってやるんだね」
「まぁ、貴方はいつも酷いことを言われるのね。わたくしだって若い頃はそれは美しいと評判だったではありませんか」
両親の話がいつもと同じものになっていくので、兄は脚が痛むから早々に休むと言って席を立った。
わたくしも二階の自分の部屋に戻った。