08 当たり前の権限
「……そういう問題じゃないの。覚えておきなさい少年。美意識っていうのはプライドの問題なのよ。自分がそれを許せるか許せないか。女の美意識を甘く見ないことね」
「はあ、なるほど。それ、リリイも?」
「あの方――あの娘は特別。生まれ持ったものが違うわ」
わかるようでわからない話だ。
首をひねっていると、珍しく、ユリアナの唇がわかりやすいくらい曲がった。
笑ったって、すさまじいほど迫力のある美貌だった。
「わからない? 面白いわね。戦闘のときはあんなに冷徹で、迷いがないのに、こういうことはふつうの少年みたい」
「お恥ずかしい」
「褒めてるのよ」
いや、それはわかりにくすぎないか。今のをほめ言葉と受けるやつは多くないはずだぞ。
それとも、世間ってのはこういうものなのか?
「でも。そうね、うん」
「なに?」
「美人だって言ってくれたものね。ありがとう。褒め言葉は、素直に受け取っておくわ」
「……そんなの言われ慣れているだろ、腐るほど」
ユリアナはまた笑った。今度は純粋な、娘のような笑顔だった。
道行く人が振り返る。
ほらみろ、やっぱり泥なんて関係ないくらいの美人じゃないか。
「まあね。でも、言われて不愉快なだけの相手と、そうじゃない相手がいるわ」
「俺は、後者ってこと?」
「どうかしらね」
いたずらっぽく目を細めて、足を早める。長い深緑の髪が背後に流れる。ヴァルターはひいこら俺たちと追ってくるのがやっとだ。
やがて人込みが途切れ、住宅街らしき一画に入った。区画の様子からして、かなり古い町並みのようだ。
はじめはこのあたりに街の中心があって、徐々に外殻に街を広げていったのだろう。地図を見ないとわからないが、この辺から放射状に道が伸びていそうな様子だ。
「ねえ、ほら!」
顔を上げると、こちらに向かって手を振っているリリイの姿があった。
「早く! ほら、着いたよ!」
ぴょんぴょんと飛び跳ねている。タフというか、元気というか、結構すごい娘だ。とてもあの悪路の旅を越えてきた直後とは思えない。
リリイの前に、古びた、けれども大きな館が建っている。
どうやら、そこがこの旅の本当の目的地のようだった。
でも、なんでこんなボロ屋敷が?
「やっと着いた!」
「着いたのう」
「着いたわね……」
リリイに追いついてみると、三人はすでに涙ぐんでいる。というか、ヴァルターはもう号泣している。古びた館の前に立って。
いったい、これがなんだというのか。
「ひとまず、わたしが中に入ってみるわね。三人はここで待ってて。無事に権限のコントロールができるようになったら戻ってくる」
「はい。こればかりはリリイ様でなければならないことですから」
「ちょっとユリアナ」
「はい?」
「敬語!」
「あっ」
文句を残して、リリイだけが門をくぐっていく。彼女の細い足が敷地に踏み入った瞬間、建物全体がおのずから発光した。
俺の感覚でなければ気づかないほどわずかな光だったが。
ちょっと気になって、リリイの後を追う。
「あ!」
「待ちなさい!」
ふたりの制止を無視して敷地に足を踏み入れようとしたところ、弾かれた。ばちっと電流が走ったような感覚だ。すぐに足をひっこめなければ皮膚が破れて血が噴き出しただろう。
なかなかの結界だった。
無理をすればこじ開けて突破できそうな気はしたけど、しない。
「レオン殿。この館には」
「許可のないものの侵入を拒む結界が張ってある、ってことか、理解した。それより、ヴァルター」
「うむ?」
「その、レオン「殿」はやめようよ。リリイを呼び捨てにして、俺に敬称って本末転倒だよ」
「やあ、これはうっかり!」
ははは、と高い笑い声をあげる。
森の中での度重なる戦闘で、ヴァルターはずいぶん俺の評価を上げてくれたようだった。気を抜くと今みたいに「殿」とかつけて呼んでくるし、気が向いたら稽古を、なんて真顔でお願いされた。
俺の戦闘は我流だと言って断ったら、首を傾げられた。
「そんなはずはあるまい。レオン殿の思考や身体の動かし方には、たしかな型を感じる。個の天才が才覚だけでたどり着く境地ではなく、人類が営々と叡智を尽くして編み上げた格闘体系。誰か、名のある武術家にでもついて修行しなければ、あのような流れるような戦闘はできんはずだが」
森の中で、ヴァルターはそう唸った。そんなこと言われたって実際に我流なんだから仕方がない。
強いて言えば、もちろんババアだ。あいつの癖や思考を真似た結果が、今の俺なのだ。
「で、リリイは中に入れたってことは、この結界はリリイが張ったもの?」
「私も詳しくは聞かされていないわ。リリイさ――リリイが戻ってくるのを待って、説明してもらいましょう」
「慣れないね、呼び捨て」
ユリアナは、深く息を吐いた。
「慣れないことよりも、いつか慣れてしまうことのほうが心配だわ」
「じゃあ、そうならないように頑張らないとね」
「どういう意味?」
「そりゃ、決まってる。叔父を倒して、アメルハウザー、だっけ? リリイの家を取り戻す。そうしたら、ちゃんと当主に戻るんだから敬語に戻る」
「そうね」
「だから、なるべく早く、その悪い叔父をやっつけて、リリイを当主の座に戻す。ユリアナが呼び捨てに慣れる前に。そのために俺たちはやれることをやろう。それぞれに頑張って。――っていう意味」
ユリアナは穴が開くほど俺の顔を凝視して、複雑そうな表情で首を振った。
「あなたはたまに、本当に鋭いことを言うわ」
「そう? 当たり前のことしか言ってないぜ?」
「当たり前のことを忘れずに、当たり前のことを当たり前のこととして口に出せる。それは、ふつうは難しいことなのよ」
「いまいち、よくわからない」
「不思議な人ね、あなた」
微笑まれた。そんなに変なことを言っただろうか。
それから数分して、屋敷がまた、わずかな光に包まれた。ふたりは気づかないが、結界に何らかの変更が加えられたのだろう。
果たして、そのあとすぐ、リリイが戻ってきた。手に紙を持っている。
「結界の権限を変更したわ。三人、悪いけど、ここに血をもらえるかしら。それで客分権限を登録するから」
俺は指先を噛み切って、ヴァルターとユリアナはナイフで軽い切り傷を作って、紙に血を擦り付けた。
紙がぼう、と光って、やがて空中で炎を発し、燃え尽きる。
黒い灰は、風にさらわれた。
「これでもう大丈夫。さあ、中へ入りましょう」
もう一度、敷地をまたぐ。微妙に肩のあたりが重くなる違和感はあったが、弾かれることはなかった。
中に入り切ってしまえば、違和感も消失する。結界にスキャニングでもされたか。
門をくぐったところから、屋敷を一望する。
本拠地として構えるには、ずいぶん不安の残る、ボロ屋敷だった。
「ようこそ、商家アメルハウザーの本宅へ」
リリイににっこり笑いかけられる。岩さえ蕩かすような微笑だが、え、なんか聞き捨てならないこと言わなかったか。
商家。
アメルハウザーって、貴族じゃなかったの?
***
「アメルハウザーはね、もともと商人の一族なの」
床には数センチも埃がつもり、床は歩くたびにぎしぎしと鳴く。蝶番はことごとくさび付き、燭台には虫の死骸。蜘蛛の巣が張ってないところを探すほうが難しい屋敷の、かつては応接として使われたこともあるのだろう部屋で、リリイは語り始めた。
「二百年前、アスムスの街を起こした商人ギルドのうちの有力者のひとりが、わたしのご先祖様だった。アスムスの発展には尽力したらしいけど、やがて本拠地をこの町から移したらしいわ。海運よりも陸運が好きだったみたい」
もちろん、初耳だった。
「貴族の地位を買ったのは、百五十年くらい前だって聞いているわ。財力にものを言わせて地位を買った新参者、って陰口を叩かれるのは慣れっこだってお父様は笑ってた。すごいよね、百五十年もたっているのに、まだ新参者なんだって。貴族の世界ってわけがわからない。百五十年生きている人なんて、どこにもいないのにね」
いや、ここにいるんですよ、とは言えない。
「アメルハウザーは、貴族になってからも、アスムスへの恩義は忘れなかった。だから、この屋敷を売ることもしなかったし、アスムスの商人ギルドには献金も続けたし、有形無形にこの街には便宜を図ってきた。なにかあればアスムスへ逃げろっていうのは、お父様からよく言われていたわ」
「この街は、商人が仕切っていて、その商人ギルドのボスとは顔なじみってこと?」
嬉しそうに、リリイは笑う。
「理解が早くて助かるわ。アスムスは商人の街。あらゆる暴力が禁止されている、治外法権の地。国の騎士団すら不入で、防衛はもっぱらギルドが雇った傭兵団に任せてる」
「なるほど、つまりここ、安全地帯ってわけだな?」
ようやくわかった。
つまり、ここは国の法とは全く別のことわりで営まれている、まさしく理外の都なのだ。
でも。