07 商いの楽園
アスムス。
国の北西に位置する、海に面した街の名だ。
そこに至る街道にも同じ名が冠されている。すなわち、アスムス街道。
「よし、抜けた!」
ぐぐっと伸びをする。寒い山と薄暗い森をさまよって二週間、久しぶりに開けた大地に立った感じがする。
森を抜けると、街道と並走して流れる運河に出会った。小さな商船が行き交っている。人の世界だ。
その証拠に、街道には、まばらではあるが、人の姿もある。潮の匂いが漂っている。太陽はまだ中天にある。
昼過ぎ。
もう街道が近かったせいか、今日は獣にも会わなかった。思ったよりも早く着いたのは、そのせいだ。
「ヴァルター、すごいな。ちゃんと街道に着いた。予定通りじゃんか」
振り返って微笑みかけるが、ヴァルターは涙ぐみ、ユリアナは目の前の光景が信じられないとでもいうように、呆然としている。
リリイは、無表情だった。何を考えているかわからない。
「あ、あれ。思ったより、喜んでない?」
「喜んでるわよ。でも、なにより、まだ信じられなくて……」
「本当に、あの森を無事に抜けられるなど」
大げさだなあ。たった数日の流浪の旅で、ここまで感動するものだろうか。
水を差すのも悪いが、ここが目的地というわけでもない。あくまで街道に着いただけで、俺たちの目的地はアスムスの街だ。
「どうする? 街まで、あと数キロほど。歩いてもいいし、そこらへんで俥を雇っても、船に乗ってもいい距離だけど」
「歩きましょう。どうせなら、歩いて行きたいわ」
「疲れてないのか?」
「くったくた。でも、ここまで歩いてきたんだもの。最後まで、この足で行きたいの」
リリイが背筋を伸ばして歩き出す。影は、足元に濃く落ちた。
立派なものだ。
この娘は道中、一度も背を丸めなかった。どんな時も毅然と背を伸ばし、足を前に出し続けた。歩調は乱れず、姿勢は美しく、目はつねに遠く前方をとらえている。
並大抵の意思でできることではない。
「だってよ。リリイは歩きたいみたいだけど、ヴァルターもユリアナも大丈夫?」
「姫さ――リリイがそう言うなら、わしは歩きで構わんさ。今日はまだ、そこまで歩いておらん」
「私もよ。ここまで来れば、もうなんだって一緒。ちゃんと整備された街道なんて、あと一日歩いても何てことないわ」
たしかに、森の悪路に比べればなんてことないだろう。
輝く陽を背負って歩き出す。さあ、目的地はもうすぐそこだ。
***
「ここが、アスムス」
街の入り口には大仰な門があり、衛兵が槍を立てていた。街をぐるりと囲っているのは、石造りの壁と運河の堀だ。壁の上には弓兵が待機している。
見張り台も、適度に間隔を置いて備えてあった。
魔獣の森が近いからか、たいした防備だ。
リリイを先頭にして門をくぐる。衛兵たちは朗らかな笑顔で「ようこそ、アスムスへ。あなたの前途に祝福がありますように」とだけ言って、すんなり通してくれた。
「あ、あれ?」
「なに、どうしたの?」とユリアナ
「いや、てっきり関所みたいなものかと。金を取られるか、身分を誰何されるかするんだと思って」
「普通の街ならそういうこともあるかもね。でも、ここではそんなことありえないわ。ここをどこだと思ってるの?」
「アスムス」
「そう、アスムス。来るもの拒まず去る者追わず、ヒト、モノ、カネのすべての移動を制限しない、商いの楽園よ」
門をくぐると、喧噪と熱気に圧倒された。右を見ても左を見ても人、人、人。広場なのか市場なのか、香ばしい匂いが漂っている。
行き交う人々は足早に、けれども陽気に声を掛け合っている。生きるエネルギーに満ち溢れた人間だけが醸成できるこの空気。
「お、おお……」
素直に、圧倒される。こんなに多くの人間、三百年前だって見たことがあったものかどうか。
「これが、商人の街、アスムスか」
知識では知っていたが、百聞は一見に如かず、こうしてみると圧倒的だ。
運河と遠洋貿易で拓かれた、比較的新しい港町。歴史は二百年ほどしかない。
俺がババアに拾われたころ、ここら辺は海辺の大きな空き地に過ぎなかった。
それが、二百数十年前の大雨と大洪水で状況が変わった。街の西、数十キロのあたりを流れていた川が、大きく流れを変えたのだ。
この川が、数十年かけて地形を変えた。さらに人の手が入った。運河を整備し、ここを貿易の拠点の街にしようという男たちが現れた。
もちろん、商人だ。
大商会を営むアスムスという男を中心に、街の建設がはじまった。ここら辺はもともと、魔獣の森が近くて国も開拓に乗り気ではなかったから、邪魔も入らなかったらしい
かくして商人連合は、自分たちで出し合った資金で傭兵団を雇い、国の介入を許さない自治権を確立させ、ここに街を開いた。
街は、その開拓の中心となった男の名前をいただき、発展をつづけた。
ゆえに、アスムス――商人の街、商いの楽園。いまもって国家権力と暴力の介入を許さぬ、金と交渉の港町。
俺たちの旅の、目的地だった。
「でも、あれ?」
リリイは足早に市場を抜けていく。足取りに迷いがないのは、目的地があるからだろう。
聞きたいことがあるのだけど、するすると人込みを縫っていく背中は、なんだか気力に満ちている。くだらないことを問いかけるのは悪い気がした。
というわけで、隣を歩くユリアナに顔を向ける。
「なあ、ユリアナ」
「なに?」
「聞きたいことがあるんだけど、教えてくれる?」
「いいけど、なに?」
「うん。この街の中に俺たちの目的地があるの? それ、どんなところ?」
「行けば分かるから、もう少し待ちなさい」
やっぱり、闇雲にアスムスを目指していたわけではないらしい。
「ユリアナ。いま、もうひとつ聞きたいこと増えた。なんで顔を隠してるんだ?」
ユリアナは顔を布で隠し、人目を避けている。かえって目立っていることは承知の上だろう。それでも顔を隠したいほどの事情があるのだろうか。
叔父の偵察を恐れているのであれば、リリイの顔を覆わなければ意味がない。ということは、目的はそれではない。
「わからない?」
横目でにらまれると、おそろしいほどの美貌だ。切れ長の目が怜悧そのもの、光っている。
背筋にぞっと戦慄が走る。リリイは人を油断させる美しさだが、ユリアナの美は対峙するものに異常な緊張を強いる。
「わからない」
「そう、男の人は単純でいいわね。それとも、レオンが特別なのかしら?」
「どういう意味?」
「だって、恥ずかしいじゃない。こんなに泥だらけの姿で」
「はい?」
「私にだって、見栄も恥じらいもあるわ」
どうやら、見てくれのみすぼらしさを恥じらって、顔を隠しているらしい。突っ込みどころが無限にありすぎて、ちょっと困る。
そもそもこの町、身なりが多様過ぎて、俺たち程度のみすぼらしさなんて目立ちもしない。
だいたい、顔を覆ったところで隠せるようなものじゃない。
行きずりの人間にどう思われるかなんて、知ったことじゃない。
なにより。
「隠すような顔じゃないだろ。多少汚れてたって、身だしなみが整ってなくたって、そんなのは関係ないくらいユリアナは美人なんだから」
ユリアナは一瞬、虚を突かれたように沈黙し、鼻を鳴らした。
「……ふん」
「ユリアナ?」