06 命名と敬語
「わしも、それにはさすがに賛成できませぬ。姫様、ご再考を」
「ううん、もう決めたことだから」
「しかし!」
「いいの」
言い募る二人の権幕をいなして、リリイは微笑んだ。
風のような、とでも言えばいいのか。
さわやかで美しく、どことなく寂しさをたたえた微笑み。
レオンハルトという名にまつわる、なんらかの悲しい物語があった。そのことを実感しないわけにはいかない、その表情。
「いいのよ。この人は、わたしたちの旅の道連れ、これから苦難をともにしていく家族でしょう? なら、レオンハルトほど、ふさわしい名前もないじゃない?」
「しかし、それはあまりに……」
「もらっていただけるかしら、この名前?」
リリイは俺に視線を向ける。そこに込められた意味を察するには、俺にはあまりにも世間知が足りな過ぎた。
ヴァルターがすがるように、ユリアナが恨むように俺を見る。断れ、というのだろう。
とはいえ、元は奴隷の身分。主人から差し下されたものを拒むなど、許されるものではない。
そうした俺の性向に、二人はすでに気づいていたのだろう。
「ありがたく、頂戴します。おそれおおくも、これよりは、レオンハルトと」
と頭を下げたとき、ユリアナは天を仰ぎ、ヴァルターは諦めの長い息を吐いた。俺への呪詛は、なかった。
ひとり、リリイだけが嬉しそうに目を細めた。
「ありがとう、レオンハルト。気に入ってくれてうれしいわ。これからは、レオンと呼ぶわね」
「はい。名をいただいたからには、この身、すべては御身のために。何なりとご用命ください」
片膝をついて誓いを述べる。ババアのところで聞きかじった程度の作法だが、奴隷にしては十分な礼儀だっただろう。
成り行きとはいえ、口にした誓いに嘘はなかった。
身命を賭して、リリイを守り、その悲願を達成させる。
生きる目的が、明確な輪郭を帯びた。
「うん、よろしく。それじゃあ、あらためて、わたしたちの素性と事情を伝えるわね。ずっと気になっていたんじゃない? 名前も教えていなかったし」
「あ、はあ、それは、まあ」
まさか、水浴びしながら聞き耳を立てていたおかげで、おおかたの察しはついているのです、とは言えない。
朝食がてら、まだ口の重そうなユリアナとヴァルターの補足を交えて、俺はリリイたちのおかれた状況について、長い話を聞くことになった。
内容は、俺の推測を裏付けるばかりで、さして新たな情報はなかったのだが。
***
「ねえ、レオン」
三日目の朝、順調にいけば翌夕には森を抜けるだろうという頃のことだ。
出立前、恒例となった鳥のたき火あぶりを平らげた後、残り火を踏みにじっていると、リリイに肩を叩かれた。
「はい、なんでしょうか」
「それ。それ、やめよう。うん、いま決めた」
「それ、と言われますと?」
「敬語」
弾けるような笑顔である。俺のほうは「ケイゴ」の響きがすぐに「敬語」に変換できずに、反応が遅れた。
足元では、いまだくすぶって煙を吐き出し続ける木々が唸りを上げていた。
「ど、どういうことでしょう?」
「言葉通りの意味だけど。そんなに難しいこと言ってないでしょ。ねえ、ヴァルター、ユリアナも聞いて」
荷物をまとめていたふたりが、リリイの呼びかけに応じて寄ってくる。リリイの笑顔を見て、ふたりは即座に眉を寄せた。
またぞろ、このお嬢様が無理難題を言い出すぞ、という顔だ。
品性の高貴さには疑いもないが、清楚なお嬢様、という最初の印象は、どうも外れていたらしい。この二日で、俺はそのように見当をつけた。
なかなかのじゃじゃ馬のようだ。
「わたし、もうアメルハウザーじゃないでしょ? ああ、そうね、たしかにわたしはアメルハウザーの正式な後継者で、簒奪者は叔父様のほう。だけど、公的な身分はいまはない。ただの平民か、悪くすると逃亡の犯罪者。それで合ってるわね?」
何事かを言いかけたユリアナが口を閉じる。先に反論を封じられた形だ。
なまじ頭の回転が速いだけ、このお嬢様の相手は骨が折れる。
「だから、わたしが敬語を使われるのは変だと思うの。というわけで、今日、この時より、わたしへの敬称と敬語を禁じます」
「ばかな。そんなことを、わしらができるはずが――」
「これはね、戦略的な意味もあるの。明日にはアスムスに着くわ。どこにどういう目があるかわからない。わたしの正体を大声で言いふらして歩くような不用心、したくないの。ただの旅の小娘に敬語を使う年配はいない。違う?」
正論だった。ぐうの音も出ない。
俺にはさしてこだわりがない。奴隷の性で敬語は身に沁みついているが、ババアに敬称をつけたことは、この百年ない。
ぶしつけな態度を取れと言われるのであれば、従うまでだ。
が、長年仕えたふたりは、一筋縄ではいかない。
「で、できません。主に対して、そのような言葉遣いなど」
「だめ、やるの。これは命令」
「拒否します!」
「だめー、やだー、だめー!」
地面に転がって、手足をバタバタさせかねない。こういうところ、温室で育てられたお嬢様、という感じはする。
要するに、自分の思う通りにことが運ばないことに、あまり慣れていない。
「ねえ、レオン。レオンはどう思うの?」
「俺ですか? はあ。先ほど、リリイ様がおっしゃっていたことには、一定の理があると思いましたが」
「じゃあ、敬語と敬称やめてくれる?」
目がきらきらしている。
「それは……」
言いよどむ。だって、背中に針のような視線が刺さっている。物理的に痛いくらいだ。ユリアナとヴァルターも頑固なのだ。
「強情だなあ、三人とも」
「どっちがですか」
ふたり、見事にハモるのだった。
「まあ、俺はそうしろと言われればそうしますよ。奴隷ですから、主の命令であれば、どんなことでも聞きますし」
「ほんと」
うれしそうに顔を上げてから、リリイはすぐにうつむいた。何か気になることがあったらしい。
「それ、わたしが死ねって言ったら死ぬの?」
「? はい、死にますけど?」
奴隷ってのは、そういうものだ。
が、リリイの機嫌は急激に悪くなる。
「そう。じゃあ、そういうわたしの命令は聞くなっていう命令、いま下しておくわね」
「なんですかそれ?」
自分の命令を自分の命令で打ち消すなんて、なんか器用なのか不器用なのかわからない。
「いいの、ただのケジメ。レオンは素直に「はい」って言えばいいの」
「は、はあ。はい」
「よろしい。では、先ほどの議論に戻ります」
正論で臨むリリイに、ユリアナは泣き落としで、ヴァルターはおのれの信念で対抗した。
しばらく眺めてから、無視することにした。この調子だと、今日は出立が少し遅れる。
その分、昼か夜に距離を伸ばさなければならなくなる。戦闘での時間ロスを最小にとどめるために、武器の新調をするのだ。
どうせ、結論は見えている。短い付き合いだが、その程度のことは俺にもわかるのだ。
二時間ほど侃々諤々やりあった末、案の定、折れたのはふたりのほうだった。
まあ、もともと理屈では勝ち目がなかったのだから仕方ない。
「ぐ、ぐぬぬ」
「やむを得ませんね」
かくしてヴァルターとユリアナは深い深いため息をつくことになった。少なくともひと目のあるところでは、リリイへの敬称と敬語をやめるらしい。
「俺は、使い分けるなんて器用なことをすればボロが出ますから、不敬を通す形でもいいですか?」
「うん? どういう意味?」
「つまり、ずっと敬語と敬称を省略します。いいですか?」
「いいけど、レオン、ぜんぜん実践してないじゃない」
「あ、そうか」
うっかりしてた。
「それでいいんだな、リリイ」
と呼ぶと、意外なほどに嬉しそうに頬を緩めて、
「うん」
と勢い込んでうなずくお姫様なのだった。
つくづく、よくわからん性格の女の子である。