04 名前と武器
腕を組んで、低くうなる。そうか、名前か。
「なぜ、そこで黙るのです? なにか名乗れない理由でも?」
「もう、ユリアナ」
リリイが制してくれるが、それを気にせずユリアナは鋭くにらんでくる。やっぱり信用はされてないらしい。全裸がまずかった。
しかしまあ、俺が何かを企んでいるのだと疑っているのだとすればそれは完全な誤解だ。
名を問われ、答えられない理由は実にシンプル。
「その、ないのです」
「なにがですか?」
「名前が、です」
沈黙。
一同、ドン引きである。
無理もない。仕方ない。俺だって、あんまり言いたいことではない。
が、自らが作ってしまったこの沈黙に耐え続けるのも、それはそれで楽しいことではない。
「そ、その、生まれてからずっと奴隷でして。番号や識別の記号で呼ばれることはあっても、誰かから名前を賜ったことはなくてですね」
「…………」
「な、なので、特段あやしい事情を持っているわけではないのですが、その、本当に、名前というものを持ちませんで」
必死に言いわけをする。その俺を見るリリイの顔が、だんだんと険しくなっていく。
あらためて、俺のあまりの身分の低さに驚いているのだろうか。このままでは解雇されてしまいかねない。
焦ると、言葉はよりたどたどしくなった。
「で、ですから、俺のことでは石とでも糞とでも、なんとでも呼んでいただければ――」
「ふざけないで」
ひい。
めっちゃ怒られた。怖い。リリイ、完全に目がキレている。
「私に、自分に仕えるものを、そのような名で呼ばせる気ですか」
「す、すみませんすみません!」
頭を下げる。下げながら、考える。でも、だって。
それならほかに、なんていえばよかったのだろう。
考え込む俺の頬に、小さくて、優しい手が添えられた。
「ごめんなさい、怒ってしまって。でも、そう。名がないのであれば、わたしがもらっていいかしら?」
「な、なにをですか?」
「あなたに、名前を与える栄誉を」
「へ?」
栄誉?
俺に、名前を与えることが?
「いや、そんなもの、いくらでも差し上げますけれども」
「そう、それはよかった。じゃあ、一晩ください。きっといい名前を考えるから」
頬から離した手を、今度は俺の手に重ねる。なんでだろう。その手の柔らかさとやさしさが、不思議と心地いい。
ぐっとこみあげてくるものがあった。その感情の正体を、その感情の名前を、俺は知らない。
「今日まで、つらかったでしょう。よく頑張ったわ。大丈夫、あなたはもう、わたしの大切な家族だから」
何を言われているのかはわからなかった。つらかったのだろうか。頑張ったのだろうか。俺はこれまで?
答えるべき言葉はなかった。瘧のように震えだした体を両腕で抱いて、俺は頭を下げ続けた。
頭を抱かれた。そのリリイを、ユリアナもヴァルターも、止めはしなかった。
「もう奴隷じゃないの。胸を張って、顔を上げて、ともに生きていきましょう」
「はい」
少女の胸で、俺はひとしずくの涙を流した。
自らのその涙の意味も、俺はまだ知らない。
***
朝焼けがやってきた。冬枯れの木立を縫うように、曙光が差し込んでくる。
他の誰も起こさないように、ゆっくりと動き出す。
「今日も、天気は大丈夫そうだな」
雨の匂いはなかった。降られれば道が悪くなる。天候不順は女連れには重大事だ。
昨日は結局、たき火を起こした川のふもとで夜を越すことにした。
今日からの旅程はヴァルターに案があり、旅に詳しくない俺としては異論がない。食糧の乏しさを心配しているようだったが、それは俺がいれば問題ないのだ。
振り向くと、リリイはユリアナに抱かれるようにして眠っている。こうして見れば姉妹のようだ。ヴァルターはさすがに横にはなっていなかったが、槍を杖代わりに目を閉じている。
夜半、見張りを交代したのだが、まだ俺のことを完全には信用できてはいなかったのか、それから数時間は起きていたようだ。
ちなみに、俺は一日三時間も寝れば全快する。悲しい奴隷の特性である。
「これ、結構いい知恵だな」
懐に抱いていた石を取り出す。寝る前にあぶっておいたものだが、とっくに熱は失せている。
火を起こすと、こわばっていた肌が少しずつほぐれていった。縮こまっていた血管が開き、体の隅々まで血が流れていった。
ヴァルターの語るところによれば、猛獣にも種類があるらしい。火を恐れるものと、好むもの。夜の冷え込みは相当なものだが、火を残しておけばそれを目印に襲われる。いままで俺が襲われなかったのは偶然だったということだ。
というわけで仕方なく、いくつかの石を焼いてから布で包み、懐に抱くことで暖を取って夜を越した。
昨夜は月がなかったから、余計に襲われるわけにはいかなかった。ひとりならまだしも、守るものがあるのに闇夜での戦いは、間違いが起きやすい。
「ん、朝か」
「いや、もう少し寝ていてください。火を起こしたので、温まるはずです。横になってください」
「う、む。そうか」
少し悩んだ様子を見せてから、ヴァルターは俺の提案に従った。
この男とて、豪華な邸宅かあるいは城で貴族たちに仕えていたのだ。こうした過酷な旅路になれているわけがない。
それでも、まだ少女のリリイのために経験豊富なふりをして、気を張ってきたのだ。疲労が蓄積していないわけがない。
顔のしわは深かった。おそらく、この十日ほどで数年分も老けただろう。苦労を、肌は決して忘れないものだ。
「さて」
石を手に取る。空には鳥の群れ。目をすがめて、そのうちの一匹に照準を定める。
「よっ」
投げた石が鳥の脳天を砕く。ほいほいっと二度三度同じことを続けると、数匹の鳥の死骸が落ちてきた。拾い集めて羽をむしる。
こきこきと骨をねじり、食べやすいサイズに切り分ける。
一羽、焼いてみる。
「うまい」
骨までしゃぶる。特に問題なさそうだ。三人が起きてきたら焼いて食わせてやれば、朝食としては十分だろう。
こうして調達していけば、食糧不足なんてのは問題にならない。一週間やそこらは何とかなる。
荷物の中には、羅羅の毛皮と牙を入れてある。襲ってきた二十頭分すべて持ってこれればそれだけでひと財産だったが、持ち運べる量には限度がある。
とはいえ、一頭分の毛皮でも、家の数軒は建つ、とリリイは言っていた。アスムスで金に換えれば、当面の軍資金にも困るまい。
差し当たっては、この森を抜ければいいだけだ。
手ごろな枝を数本折って、ヴァルターの槍を借りて加工する。即席の弓と槍をこしらえてから、矢を数本。背に負えるように弦でまとめる。
それから、あまった弦を編んで腰かごを作った。石を数個入れておく。
「よしよし」
これで、奇襲されても対応できるし、遠距離からの奇襲もできる。森を抜ける数日程度なら、十分すぎる装備だろう。
「あ、そうだ」
東の空を見る。朝日はまだ山の端にかかっていた。まだ時間はありそうだった。
河辺に歩き出す。
***
リリイとユリアナが起きてきて、顔を洗いたいというので、河辺まで護衛に立った。
「顔だけと言わず、水浴びをしたらどうです?」
「そうね。そうしたい気持ちはあるけれど、さすがに冬の川では難しいわ」
「リリイ様に、そのような苦行を強いるわけにはいかないでしょ」
いや、昨日その冷水で身を清めさせられたのは俺なんですが、とは言わない。
自分と同じ基準で他人を測っちゃいけない、なんてことはわかってる。
なにしろ俺は奴隷で、リリイは貴族のお姫様だ。
「そう思って、準備しておきました。よろしければ、という程度のものですが」
「え?」
「これ、は?」
「風呂です」