21 憤怒の鐘
「屋敷の補修が終わっていることは、もうファビアンの耳に入っているの。だから、明日の夜までにあたしがイエーナに戻って結界の権限を渡さないと、エッダを殺すって言われてる」
まあ、妥当なところだ。それくらいの脅しはするだろう。
考える時間を与えれば、人間は知恵を働かせてしまう。ファビアンにとっては望ましくないことだろう。
「だけど……もう」
エッダを見捨てるしかない、そして裏切り者の自分もここで果てるしかない。ゲルタの考えていることはそんなところだろう。
くだらない。
泣いて詫びるゲルタを無視して、俺はリリイに視線をやる。
「時間も選択肢もない。俺が行ってくるけど、それでいいか」
「お願いできる?」
「妙なことを言うなあ」と俺は笑った。「リリイは俺の主じゃないか。どんなお願いだってできるし、命令もできる」
「そうね、じゃあ言い方を間違えた」
リリイもまたゲルタから身を離し、俺と向かい合う。それが、せめてもの礼儀だとでも言うように。
「夜明けまでにイエーナに向かい、ファビアンの屋敷に侵入、エッダを救い出してアスムスまで戻ってきて。そして、レオン、あなたが致命傷を負ったりすることを、わたしは許さない。できる?」
「朝飯前だ。そうだな、ちょうど時間もそれくらいだろ。朝食にリリイの手料理でも準備しておいてくれると、さらにやる気が出る」
「約束するわ。味の保証はしないけど」
ころころとリリイは笑う。
本当のところ、報酬なんて、その笑顔だけで十分なのだった。
「え、え?」
ゲルタは話の展開についてこれていない。このままにしておくのはあまりに不憫だったので、俺は言わでものことをあえて口に出した。
「リミットが明日の夜までなら、まだ十分に余裕がある。俺がこのままイエーナに駆けて、ファビアンの屋敷を奇襲して、夜明け前までにエッダを奪還して帰ってくる」
「そんな、そんなこと……」
「できる。その代わり、約束だ」
どんなことを言われるかと、おびえた目でゲルタは俺を見た。
「俺が無事にエッダを救い出したら、この件のことは忘れろ。俺もリリイも、ぜんぶ忘れるから」
「……どうして」
「敵はコルネリウスだろ。仲間は多いほうがいい。目端の利く、熱心なメイドがいなくなると、生活の質が下がっちゃうからな」
にこっと笑って見せる。涙でぐしゃぐしゃになった顔をいっそう歪ませて、ゲルタは嗚咽した。
「お願い……レオン君。エッダを……助けて」
「任された」
言葉は、もう不要だった。立ち上がって、門に向けて駆け出す。
馬より、俺の足の方が速い。イエーナまでは街道を一直線だ。風より早く、闇に溶けて、影のように、走る。
筋肉が躍動する。一足ごとに加速する。夜、街道に人通りがないことが幸いした。腕を振って、呼吸を深く、もっともっと、可能な限りに速く。
リリイたちの前では、あれでも必死に平静を保っていたのだ。
ゲルタは、身を責めて泣いた。リリイは、痛ましそうな顔をしていた。彼女たちは傷つけられたのだ。
自分でも不思議だった。たった十日ほどの付き合いだ。来し方も行く末も知っているわけではない。
でも、居心地が良かった。楽しいと思えた。不安ばかりの世間での暮らしに、希望を与えてくれた人たちだった。
仲間だと言って、許してくれるだろう。
それを、傷つけられた。
だから、この感情は当然のものだ。
夜が、ほてりをわずかに慰めてくれる。足を動かしていなくとも、血は沸いた。
怒りに。
――ファビアン。
「許さん」
***
一呼吸の間に見えなくなったレオンの背中を見送って、リリイは息をついた。勢い、任せるしかなかった。しかし、近頃では下手な貴族よりも商家の方が護衛が固い。
自信満々に請け負ってくれたが、果たしてレオンと言えど、制限のある戦いの中で、十全に役目を果たせるだろうか。
結局、レオンのことは何も知らないのだ。陽気で、純粋で、無垢。並外れた強さに比べて、あまりにも世間ずれしていない。
この復讐のために天から使わされた助っ人のように、いつの間にかリリイは思いはじめていた。
しかし、レオンにはレオンの意思があり、過去があり、きっと目的があり、感情がある。天使扱いは、あるいは彼に対して失礼にあたるだろう。
特に、今夜は猛りはものすごかった。対面すると、尻もちをつきたくなるほどの迫力があった。
「怒っていたわね、レオン」
「はい」
ゲルタは、相変わらず背を丸めている。薄絹のような雲が天をゆったりと流れている。風もない。明日は晴れる。
暁を迎えれば、夜襲は失敗するだろう。馬であれば片道三時間のイエーナまでの道を、レオンならばどれほどの時間で到達するだろう。
「リリイ様、あたし、どうすれば……」
「そうね、レオンはああいったけれども、何のお咎めもなしってわけにはいかわよね」
リリイがそう告げると、むしろゲルタの瞳には生気が戻ったような気がした。人は罰されたいのだ。罰が罪の意識を軽減してくれる。
「はい……覚悟の上です……」
リリイは、くすりと笑った。
「じゃあ、手伝って。朝餉を準備しないといけないんだけど、ちょっと手が足りないし、わたし、そういうことには慣れてなくて」
「え……?」
「メイドでしょ。食事の準備、頼りにしてるから」
返答を聞かずに歩きだす。本当に、宿に戻って朝食の準備にかかろうと思っていた。
やるべきことはやった。あと、信じて待つほかに、なにかできることがあるだろうか。
おずおずと立ち上がり、歩き出すゲルタの足音を聞いた。今頃、レオンは風のように街道を駆けているだろう。
その姿を思い浮かべながら、さて、芋と豚を煮込んだスープとパン、新鮮な果物あたりを、まずは準備しなければならないな、とリリイはすでに献立のことを考えていた。