01 出会いと気づき
まともな人と会った。三百年ぶりだ。
「何者だ」
「奴隷です」
そう誰何されればこう答えるしかない。俺は奴隷でしかないのだから。
うーん、我ながら悲しくなる。
「そのわりには、豪奢な服装だ」
「一張羅です、本当に奴隷なんです」
小屋を焼いて山を下りることにしたのはもう二週間前のことだ。それから十日かけて雪の山を下りた。時間をかけたのは、ババアへの弔いのつもりだった。ババアの残した保存食や服を勝手に拝借してきたので、道中、さほど困らなかった。
ふもとの森に立ち入ったのが三日前。道の様子からすると人里はまだ遠かろうと思っていたところで、こいつらに出くわした。三人の旅人、だろうか。
ババアやその眷属を除けば、三百年ぶりに会う人間だった。警戒心よりも喜びが勝ってしまってつい無防備に声をかけた。それがいけなかった。
いきなり槍を喉元につきつけられて、この有様なのだった。
「奴隷がなぜ、こんな森深くにいる?」
こちらに槍を突き付けている男は、年のころなら四十前後か。身に着けている武具は立派なもののようだが、身のこなしがいまいち洗練されていない。
金に任せて良い武具をあがなっただけの、戦士見習いというところだろうか。
その男に守られるようにして、ひとりの少女が立っている。美しい白絹のドレスをまとい、毛皮を羽織り、華美ではないが品のよさそうな装飾品を身に着けている。手には杖。儀仗か戦闘用のものか、ひと目では判別がつかない。
貴族か、豪商の娘だろう。
傍らに、もう少し年のいった女がひとり。ラインの際立つ細身のロングコートからすると、こちらは侍女か。
巡らせていた視線を気取られたか、喉元に槍が迫った。
「答えろ、貴様、本当に奴隷か?」
「本当に奴隷です、正真正銘の奴隷、奴隷の中の奴隷なんです、信じてください!」
世に、こんな悲しい返答があるだろうか。奴隷を自称しても信じてもらえないなんて。
言葉に偽りはない。俺こそは奴隷の中の奴隷であるはずだった。だってなにしろ、三百年以上も奴隷生活を過ごしてきた奴なんて、俺以外にはいないはずだからだ。
「しかし、奴隷がこんな森深くまでひとりでやってくることはあるまい」
「あ、山から下りてきたんです。もともと山に住んでまして」
「山ぁ?」
兵士の眉が寄る。振り返って、霊峰を仰ぎ見ている。これは失敗したかもしれない。
「……あの山から下りてきただと? その程度の装備で、一人で? そんな世迷い事、信じられるわけなかろう」
「そんなこと言われましても、真実は真実なのです」
「怪しいやつめ、身体をあらためる。ひざまずき、地に両の手をつけ」
「ええー」
屈辱的な姿勢だが、別にそれそのものに抵抗はない。なにせ奴隷だから、プライドとかあんまりないのである。三日に一度、ババアにさせられていた服従のポーズのほうがはるかにつらい。
あれは人間の尊厳を限界まで貶めるものだった……。
「おい、なにを遠い目をしている。さっさと言うことを――」
「あ、あの。それはいいんですけど」
すっと腰を折って、石を拾う。男が怪訝な顔をしている。いや、さすがに鈍すぎるだろ、と俺はあきれた。
槍を突き付けた相手が石を拾ったんだ。さっさと刺し殺さないとだめだ。
ま、おかげで命拾いした。
俺はすっと息を吸って、腰を落とす。
「その前にまず、あの獣、やっつけません?」
「なに?」
男が振り返る。俺はちょっと前に気づいていた。この男にも、この距離ならもう見えるのだろう、その顔が驚愕と恐怖に歪む。
木立を縫って、虎狼のまなざしが男を射抜いていた。
「ま、魔獣だ――!」
逃げ出さなかったのには、実は驚いた。男は叫びこそあげたものの、体勢を崩すことなく、少女を守るように槍を構えなおした。実に、忠義に厚い。
「貴様、なぜ気づいた?」
「さっき、獣が草を踏む音を遠くで聞きました。響きの重みからすれば、人間よりも巨躯であることは見当がつきました」
「足音? そんなもの、あったか?」
「ええ、かすかに」
実際、現れたのは虎の化生だった。身の丈は人間の二倍以上あるだろう。牙の長さが尋常ではないことは、ずいぶん離れたこの位置からでもうかがえた。
開かれたあぎとから、生臭いほどのよだれが垂れている。餌を見つけた、と思っているのだろう。
が、襲ってはこない。警戒が残っている。獣を警戒させるものがこちら側にある、ということだろう。
勘のいい獣だった。
ごう、と圧力を伴って音が過ぎた。魔獣が咆哮したのだ。男と侍女は体を硬直させ、情けない悲鳴を上げた。
しかし、少女。
動じない。
この娘は、男の雇い主だろうか。いや、金で雇われただけの相手に、こうも忠実なはずがない。主筋と見るのが正しいか。
その薄い唇を割って、冷静そのもの、美しい声が滑りでた。
「勝ち目は薄そうね。退路を探しましょう。少しずつ後退します、槍を構えて」
「はっ!」
こういった事態には疎い。少女の下した指示が的確だったのかどうかはわからない。けれども、と思いながら、少女の顔を盗み見る。
美しい、と言っていいだろう。三百年の間に浮世の美醜の価値観が大きく崩れていないのであれば。
白に近い金髪を背に流している。まつげは扇のようだ。唇は薄いわりに色鮮やかで、額にはいまだ丸みが残り、そのせいでかえって鼻梁が際立っている。
その青ざめた顔は、いかなる表情も浮かべてはいなかった。恐怖を表に出さない。人の上に立つ者の資格を持っているようだった。
それはともかく。
「あ、あの、俺は?」
目の前に突き付けられていた槍がなくなってしまうと、逆に戸惑う。なんかこう、命令してほしい。奴隷気質が根っこのところに染みついているのだ。
「貴様は――」
「好きにしなさい」
言いかけた男を遮って、少女が言った。鈴のような声、とはこういうのもののことか。
「姫様、しかし」
「あの魔獣の狙いはわたしたちでしょう。あなたまで犠牲になることはありません。はやく、どこへなり行きなさい」
少女は俺を見ない。全滅を覚悟している口ぶりだった。見立てに誤りはないだろう。この男では、魔獣には勝てない。
「いや、でも――」
「ああ、もう、しつこい!」
急に年相応の声を出して、少女は地団駄を踏んだ。
「え?」
「しつこいって言ってるの、困ってるんだから空気読んでよ!」
そうしてみれば、どこにでもいそうな女の子のようにも見えた。過ぎた美貌以外は。
「わたしだってめちゃくちゃ怖いの! たいして戦力にならないってわかってても、あなたも一緒に戦ってって言いたいくらいなの! でも、狙われてない人まで巻き添えにするわけにもいかないでしょ!」
「は、はあ」
「だから、さっさと逃げちゃってって言ってるの、わたしたちがやられる前に走り抜ければ、もしかしたらあなただけは逃げ切れるかもしれないでしょ! ううー、怖い!」
震えている。歯の根も合っていない。それでも、取り乱し方が見苦しくないのは生来の気品のなせる業か。
「いや、でも俺、ほかに行くところもないんで」
「奴隷なんでしょ、主人は?」
「死にました、二週間前」
「そう。それは、ご愁傷さまです」
ぺこり、と頭を下げられる。なんだか間合いの合わない娘だった。
「いや、めでたいくらいなんですけど、だから、せっかく自由になれたんで、ここで死ぬのはやだなあって思ってます」
少女は俺に一瞥をくれてから、杖を構えなおして重心を落とした。魔法のひとつくらいは覚えがあるのかもしれない。
「あの魔獣はね、わたしも文献で読んだだけだけど、羅羅。一夜にして千人を食らったっていう伝説もあるくらいの獣なの。打ち取って毛皮と牙を持ち帰ったら、家の三軒や五軒は建つでしょうね」
正直、生きてお目にかかれるとは思えなかった、と少女は言った。
「もちろん、できれば死ぬまで会いたくなかったレベルの魔獣だけど」
「たしかに、迫力がありますね」
「多少、値の張る武具に身を包んだくらいで太刀打ちできる相手じゃないわ。なぜかこちらを様子見している今がチャンス。最後よ――逃げなさい」
力の差は、見ればわかる。速さもパワーも並の獣じゃないことは想像がつく。ひくり、と俺は鼻をうごめかせた。
けれどもどうやら、この獣の厄介なところは別にあるらしい。
「逃げてもいいんですけど、でも、俺の好きにしてもいいんですよね?」
少女は一瞬の驚きを溜めて、あきらめたように無言のままうなずいた。
「好きにしなさい」
「よし、それなら」
腰を据えて、拾った石を振りかぶった。
「あなた、なにを?」
「なにをって、そりゃ」
すこしだけ持ち重りのするくらいの、拳大の石。それを、思いっきり肩を鳴らして――。
「あいつをやっつけるほかに、何が?」
ぶん投げる。
「え?」
ひょう、という鋭い音が鳴った。
石が音速を越えてソニックブームを発生させる。影絵のように重なる木立を縫って縫っていく。
羅羅は逃げようと一瞬の動作を見せた。一秒をはるかに下回る判断は、さすが魔獣と言うべきか。けれども、そんなことじゃあ遅すぎる。
弾丸となった俺の石が、羅羅の顔面をとらえている。土のついた汚い石が、化け物が最後に見たものになったはずだ。
骨が砕ける嫌な音がした。石は、見事に羅羅の額を打ち砕いていた。
頭蓋を暴かれ、脳しょうをぶちまけ、虎の怪物が木立を揺るがせて倒れ伏す。
「は?」
眼前で起こったことが信じられないのか、男が口を開けて、何度も瞬きを繰り返している。無理もない。伝説の獣が、よくわからん自称奴隷に石をぶつけられて死んだのだ。
作り話だとしたら出来が悪い。
笑っちゃ悪いのだが、なんだかおかしい。
「今の、貴様が?」
「ええ、はあ」
呆気にとられる男に軽くうなずく。軽く指を握りこんで、感触を確かめる。平常運転だ。
――まあ、うすうす気づいていたことだけど。
長らくの奴隷生活で、どうも俺、ものすごく力がついているようだった。