18 裏切り者の哀歌
屋敷の修繕と掃除は、一週間で終わった。
力仕事は主に俺、ヴァルターには買い出しなどを担当してもらい、細かい作業は、権限を付与されて出入りが自由になったゲルタが請け負ってくれた。
リリイとユリアナは情報収集のために市場や食堂に繰り出したり、街の有力者と顔をつないでコネを作ったりと、政治的活動にいそしんでいた。
驚いたのは、ゲルタの有能さだった。
さすがにメイドを務めていただけあって、細かいところに気が付くし、勤勉で、作業が丁寧でよどみない。
正直、ゲルタがいなければこのスピードで作業を終えることはできなかっただろう。
「ゲルタってすごいんだな」
「は?」
近場の食堂でのことだ。最終日になるであろう日の昼飯を、いつものようにヴァルターと三人で取っているとき、まじまじと見つめて言ってしまった。
「なにそれ、嫌味? 誰がどう考えても、あたしよりレオン君のほうがすごいでしょ。あのレベルの補修、ほとんど一週間で済ませるって、怪物の類よ」
ジト目でにらまれる。
セキュリティを考えて、屋敷の修繕を他人に任せることはできなかった。結界の権限はやみくもに付与するべきものではない。
だから自然、作業はほとんど俺ひとりでこなしたのだった。
「でも、俺はゲルタみたいに細かいところに気が付かないし、あんなに繊細な作業を丁寧に根気よくもできない」
「だってあたし、メイドだもの。それが仕事だもの。メイドなら誰だってやるわよ、それくらい」
「それは嘘だ」
笑って手を振ると、ゲルタがこちらをにらんできた。
「嘘って、どういう意味よ」
「メイドならだれでもできるなんてのは、絶対に嘘だ。俺はゲルタ以外にメイドを知らないけど、あんなことを笑顔で腐らず黙々とやれる人間が、そうそういるわけがない、ゲルタはすごく上等なメイドだったんだろう?」
「馬鹿ね」
こちらの質問に答えないまま、ポテトにフォークを突き刺して、口に運んだ。もぐもぐと咀嚼している。
リスみたいでかわいいのだった。
「ゲルタは、褒められることになれてないのか?」
んぐっ、とポテトを詰まらせそうになって、慌ててグラスの水を飲む。顔が赤いのは、喉が詰まったからだろうか。
軽くせき込んでから、下からにらみあげられる。
「いきなり、何を変なことを言い出すのよ」
「変なことか? 一週間、一緒に作業してたけど、お礼を言ったり褒めた時に限って、なんか冷たかったろ? もしかして、そういうの嫌いなのか?」
「なっ」
絶句している。ヴァルターはにやにやしている。
なんかまずいことを言ったのだろうか。
「嘘でしょ、気づかないわけ? あんた今まで、どういう人間と暮らしてきたのよ。社会性なさすぎない?」
俺の顔を見ないまま、ぶつぶつ言っている。半分くらい人間を辞めたババアと三百年、ふたりきりで暮らしてきた。
社会性なんてものが俺にあるはずないのだった。
「そうだな、その点は俺の落ち度だ。もしも不快にさせていたらすまなかった。今後は、あまりゲルタに話しかけないようにする」
テーブルに額をくっつけるくらいに頭を下げる。
「わ、ばか、そういうことじゃないんだって、だから!」
「そういうことじゃないって?」
頭を上げると、ばちっと目があった。ゲルタの目は、青みがかって、湖水のように淡い。
その青がたゆたうように揺らいで、あらぬ方向を見た。唇が、小さく動く。
「その、照れてるだけよ」
「なに?」
「だから、照れてるんだって! レオン君、まっすぐにこっち見て、恥ずかしいことばっかり言うもんだから、まともに受けあってたらこっちの身がもたないの!」
テーブルに手をついて立ち上がり、顔を赤くしてまくしたてる。嘘は言っていないようだった。
その様子を見て、ヴァルターは、ますますにやにや笑いを深くしている。どころか、気づくとゲルタは、店内中の客から好奇の視線を集めていた。
「あっ」
そのことに気づいて、しずしずと腰を下ろし、しばらくフォークの先端でポテトを弄り回していたが、ついに忍耐の限界に至ったのか、
「もう、やだ……」
と耳まで赤くして、両手で顔を覆ってしまった。プライドの高い娘なのだ。
「なんか、ごめん」
たぶん、俺が悪いのだろう。かわいそうになって、ついつい頭を下げると、涙目でにらまれた。
「やだ、許さない」
「えっ、困る」
「許さない」
「そこをなんとか」
しばらくにらまれるままになっていると、少しずつ瞼の険がやわらいで、やがて完全にほぐれた。
息を切るようにして、ゲルタは笑った。
「もう、いいよ。レオン君が悪いわけじゃない、あたしがわがままだった。こっちこそごめん」
「え、そうなのか。そういうものなのか」
「そういうものなの!」
なんだか腑に落ちないまま、しかしこの話題を続けることにも抵抗があり、しぶしぶ引き下がる俺なのだった。
***
修繕の仕上げを終え、宿に帰った。夕食まで間があるというので、汗を流してから部屋のベッドに横になった。
妙なことだ。
夢を見る、ということは、眠る前からわかっていた。ババアの夢だ。
夕日に撫でられた桜木の、若くはない樹皮からたくましい面付きの枝が伸びていた。その先端で、翠の葉が、不穏そうに輝きを溜めていた。
赤い光を、翠が沈めている。
凶兆だ、と俺は思っていた。
あれは、ババアが死ぬ二十年ほども前のことか。数年の一度の来客を数日もてなして、その出立を見送った後のことだ。
「裏切りは、浮世の華だねえ」
しわがれた声でババアは言った。裏切り、という言葉の不穏さに、すでに姿の見えなくなった客人の背中を思い浮かべて、なにか確執があったのかといぶかった。
「心配することはない、今のことじゃないさ。あいつはむかし、あたしを裏切ったことがあった。もっともあたしを慕っていたあいつだからこそ、あたしは、あたしを裏切るとしたらあいつだろうと見当をつけていたものさ」
おかげで事なきを得た、と窓の外の木立を見ながら、いくぶん寂しそうにババアは言った。そのときの顛末を聞いても、むかしのことでつまらないことだ、と笑って受け流すばかりで、口を割らなかった。
愉快な思い出では決してなかったのだろう。
「慕っていたやつだからこそ、裏切った? 俺にはよくわかんねえ話だな」
「理屈なんかないさ。裏切りってのは陰謀や暗殺と同じ類のことだ。じめじめした暗がり、思いもよらないところに好んで潜む。裏切られるはずがないやつに裏切られるから、意味があるんだ」
「意味がまったくわかんねえ。何言ってんだ? 耄碌したか?」
「わからないでいいさ。いまはまだ。けれども、覚えておけ」
夕日と一緒に射すくめられた。その思いがけず鋭く、優しかった眼光を、俺は今でも覚えている。
あれはババアの、ババアなりの、精いっぱいの教えだったんだろう。
「裏切り者は生かしておけば禍根になる。さあ、わかったらさっさと夕餉の準備をするんだね。それまであたしは、ひと眠りする」
「寝首をかいてやる」
「百年早いよ、小僧」
ババアには、俺には見えない何かが見えていた。いまだに、あの日、ババアが遺した言葉の意味を、俺は半分も理解していない。
でも、すこしはわかる。
裏切り。
――いやな言葉だ。
「わかってるよ、ババア」
過去の日に告げるように、つぶやきは漏れた。薄れて広まり、部屋の天井に溶けた。
遅れて目を開けると、切り取られた窓の向こうに、踊るような夕日が見えた。街の輪郭を隈取り、建物の端をかすめて燃えている。
今夜、あの夕日が落ちて月がのぼる頃。
俺は、あるいは人をひとり、殺さなければならないかもしれない。