10 交渉の行方
青白い王気のようなものが、リリイの全身から立ち上っていた。
俺は、勘違いしていた。
リリイの父は病か何かで鬼籍に入ったのだろうと。その隙に叔父が立ち、リリイを陥れたのだろう、と。
どうやら違ったようだ。今の話を聞く限り、先代アメルハウザー、リリイの父は殺されたのだ。その地位を襲うべくした、実弟、リリイの叔父によって。
知らず、拳を握っていた。
世の中には、想像も及ばぬくらい、醜いことがある。
そのすべてとはいかずとも。
せめて、この目の届く範囲に限っては、過ちは正されなければならない。
「――ご立派な心掛けだ。ではあらためて、当家に来た目的をお伺いする」
「アスムスは商家。商人を訪れるのに、商い以外に目的が?」
「ほう?」
予想外の返事だったのか、クラウディアの眉が上がった。面白いものを見つけたと、表情が語っている。
「買い取っていただきたいものがございます。いくらの値になるか、教えていただけますでしょうか」
「拝見しよう、ものは?」
「レオン」
「了解」
両手に持っていた風呂敷の包みをほどく。
クラウディアの目が見開かれ、左右に控えていた従者たちも目を剥いて嘆息を漏らした。
ひと目でこれがなにかわかるだけ、アスムスの従者は優秀だ。
「羅羅の牙と毛皮でございます。当代随一、アスムスのお目にかなう代物かどうか。いささか心もとないものですが」
反り返った極上の牙と、琥珀を溶かしたような濃い蜜色の毛皮。持っているだけで眠くなるほどの手触りだ。
くは、と音が鳴った。それがクラウディアの大哄笑の先触れだったのだと気づくのに、すこし時間がかかった。
爆発するように、クラウディアが笑った。あたりを圧する笑い声だ。びりびりと皮膚にまで響く。
「なるほどなるほど。リリイ・アメルハウザー。そちら、まことに保護ではなく、商談に来たのか」
「みすぼらしい身なりで恐縮ですが、持参したものの質にかけては保証します」
「他所にはこの逸品、見せたのか?」
「いえ、まず第一に、目利きのアスムスを頼るべきであろうと、まっすぐにこちらへ伺いました」
にっこりほほ笑んでいる。
度胸がすごい……どうやったら十代でこんな役者ができるように育つんだ?
貴族の教育ってすごい。
「我々の負けだ。言い値で買い取ろう。これだけの品、アスムスが買わずに他所に持っていかれたとあっては当家の名折れになる。いくらいる?」
よし、と小さく拳を握る。交渉は成立した。あとは、アスムスが支払えるぎりぎりの額を見積もって吹っ掛ければいい。
と思ったのだが。
リリイはこんなものでは満足しなかった。
「わたしが先にお聞きしました。いくらの値を付けられますか、と」
声にはわずかなためらいもない。あくまでも値付けを向こうに強いる真意を読めず、俺は首をかしげた。
クラウディアはリリイの腹を読むように少しだけ沈黙したあと、鋭く叫ぶように言った。逡巡の時間がないのはさすがに商人だ。
「百万」
リリイの返事は、間髪入れない。
「では、五十万で結構です」
もちろん、返答はこの場にいるすべての人間の慮外にある。
それを代表して、クラウディアが問う。
「残りの五十万はいらないと?」
「お金以外もので、支払っていただければ」
「はっ、なるほど」
最初にクラウディアが、遅れて俺を含む何人かが、リリイの意図を読み取った。
これはたしかに、ほれぼれするような交渉だ。隣で、ほう、とヴァルターとユリアナも嘆息している。
保護も庇護も、求めるものではない。あくまでも交渉で勝ち取るものだ、ということだろう。
お願いなどをすれば地位が安くなる。五十万で安全を買えば、その関係はあくまで対等。
正当な取り引きだ。
貴族のプライド、などという下らない話ではない。
リリイはクラウディアに、みずからを守ることを義務付けたのだ。懇願するのではなく、交渉することで。
丁々発止、戦場では俺の独壇場だが、こういう場では、リリイにはまったくかなわない。
これが生まれ持った人間の器か。
俺と同じ評価を下したのか、破顔一笑、クラウディアは立ち上がり、右手を差し出した。
「お父上のお言葉、いま、我が腑に落ちた。アスムスの名にかけて、この街、商人ギルドはリリイ・アメルハウザーを保護しよう。佞臣の天下など、長くは続くまい。ここに真なる星がいる」
「ありがとうございます。何よりも心強いお言葉をいただきました」
その右手を握り返し、リリイが笑う。
両者の同盟はこうして結ばれ、俺たちは当座の軍資金と、強力な庇護者を手に入れることになったのだった。
「ところで」
クラウディアが、リリイから視線を外し、俺たち三人を睥睨した。
油断のならない目つきだ。
「羅羅の牙と毛皮、紛うことなき本物と見た。どこでこれを?」
リリイ、ヴァルター、ユリアナの視線が俺に集まる。
本当のことを言っていいものかどうか、こういうケースで取るべき態度がわからない。
間違えれば、リリイの見事な交渉を水の泡にしてしまいかねないと思えば、軽々には返答できない。
クラウディアが俺の目を見つめている。
「羅羅は、生息数としては少なくないが、警戒心が強く、死骸は仲間が喰らうか埋めるかする習性を持つ。毛皮や牙など、そうそう手に入るものではないはずだが」
視界の端で、本当にかすかに、リリイがうなずくのが見えた。
それに静かにうなずき返して、クラウディアの目を見つめる。
とび色の瞳が、すっと細められたのを確認して、息を吐いた。
「道中、俺が仕留めました」
「仕留めた? 羅羅を?」
「森の中で襲われました。それを返り討ちにして、皮をはいで牙を抜きました」
クラウディアが視線をリリイへ移す。本当か、という意味だろう。
「レオンの言うことに、偽りはありません」
「これでも商人だ。私をたばかろうとしているかどうかくらい、目を見ればわかる。しかし、だからこそ解せない。レオン、と言ったな」
視線が俺に戻る。
「はい」
「我々の間でも最近明らかになったことだが、羅羅は集団で狩りをする。単独行動をとることは決してない。知っていたか?」
「先日、身をもって」
「では、どういうことだ。羅羅の群れを仕留めるには、失礼だが、君たちの戦力は十分とは思えないが」
まあ、ふつうはそう思うのだろう。
けれど、俺はふつうではない。
それだけのことだ。
「いえ、十分でした。俺一人で、二十の羅羅を仕留めました。ここに持参したのが一頭分のものであるのは、持ち運ぶための俥がなかったからです。惜しいことをしました」
「なに?」
「ここから三日の距離です。もう死骸はほかの魔獣に処理されているでしょうが、痕跡くらいは確認できるかもしれません。場所をお伝えしたほうが?」
ヴァルターが懐に手を差し入れる。必要であれば地図を広げて見せる、という意思表示だ。
それを片手で制して、クラウディアが続ける。
「……羅羅は、一頭でも、手練れの傭兵団が手こずるほどの魔獣だ。それを、ひとりで?」
俺は答えない。その質問への答えは、先ほど済ませている。
直立不動のまま、無言を貫く。
クラウディアが喉の奥を鳴らすようにして笑った。
「なるほど、無意味な問答は好まないか」
「要人に対しては無用な言葉を慎むべきだと教わりました」
「悪くない教育を受けている。後で少し、話をさせてもらいたい」
「俺と、ですか?」
リリイではなく? と問うと、面白そうな表情を浮かべて、今度はクラウディアが沈黙を貫いた。
無意味な問答は好まない、ということだろう。
であれば、質問するべき相手はクラウディアではない。俺はリリイに仕えている。
「リリイ、構わないか?」
「せっかくのお言葉なのだから、謹んでお受けするべきね、レオン」
「そうか、わかった」
リリイは、どこか好戦的な笑みを浮かべている。なにか考えがあるのかもしれない。