09 商人の王
「叔父さんだってアメルハウザーなんだろ? だったら、商人ギルドと交渉して、この屋敷やリリイの身柄を接収することだってできないか?」
「そのための、この屋敷なの。この屋敷の使用権限はね、財産とは別に登録されている。お父様もお母様もお兄様も亡くなった今、この権限を持っているのはわたしだけ。本家の正当後継者じゃない叔父様はこの屋敷に入れない。そして、ここ、アスムスにおけるアメルハウザーの証明は――」
「この屋敷の使用権限をもって行われる、ってことか。なるほど、理解した」
というか、父だけじゃなくて母も兄も亡くしていることは初耳だった。
アスムスにいる限り、叔父は暴力沙汰には及べない。
アスムスの商人ギルドはアメルハウザーの味方。
アメルハウザーの証明はこの屋敷の運営権限で行われる。
したがって、この街に限っては、リリイはアメルハウザーの正当後継者として認められ、商人ギルドの後ろ盾を得ることができる、というわけだ。
「ここにたどり着いたからには、もうあとは力を蓄えるだけ。そして、十分に準備が整ってから、最適かつ最善の方法で、わたしはわたしの家を取り戻す」
「継承戦の、ここが本拠地ってこと?」
「そういうこと。そう言うには、ほんのちょっぴりだけ、古びちゃってるけどね」
天井を見上げる。穴が開いている。埃だまりに水の流れの跡があるのは、きっと雨漏りのせいだろう。
このありさまを、「ほんのちょっぴり」と表現するのは詐欺に近い。
「まあ、とにかく状況は理解した。これから先の、やるべきことも」
「そう、だからまずは商人ギルドに行って、情報を収集して――」
「あー、リリイ、違う違う」
首を振る。気合いが入っているところ、たいへん申し訳ないのだが、そんなことより先にやるべきことがある。
「違うって?」
「そういう作戦行動の前にさ」
俺はぐるりとあたりを見回して、両手を広げる。
「掃除と補修しなきゃ、ここ、眠れもしないぜ?」
森の中の野宿のほうが、まだましってことさえある。
が、結局俺の提案は却下された。
「レオンの言うことはもっともだけど、修理するにも掃除するにも、先立つものと時間が必要だわ。まずはそれを調達しないことにはね」
ウインク付きでそう言われてしまえば、従わないわけにはいかない。
結界内に立ち入れる者はこの街にいない、というわけで、荷物はここに置いていくことになった。
ただし、リリイの指示で、包みをひとつ持たされた。俺たちの持ち物の中で、もっとも値打ちのあるものだ。
***
そうして訪れた、街の中心地の、そのさらに中心。放射線状に街中を貫く十の大通りの、すべての起点になる場所。
白亜の、屋敷というよりも、もはや城だ。
衛兵に身分を名乗ると、意外にもすんなり通しくれた。いわく、「主人からご来訪を予告されました。速やかにお通しせよ、との命令でございます」。
よくわからんが、俺たちが来ることはお見通しだったということだ。
自然、肩に力が入った。
来訪を予期していたのであれば、奇襲の算段もしようと思えばできたはずだ。一瞬たりとも気が抜けない。
建物の門をくぐり、案内されたのは応接だった。
部屋中が七色の宝石で満ち、壁には微細な彫刻が象嵌されている。絨毯に使われている深紅の毛皮は、希少なことで知られる炎駒のものだろう。三百年生きてきて、生きている炎駒に出会ったことは一度もない。この絨毯一つで帆船が一隻贖えるだろう。
部屋の中央に据えられた深い椅子に、その女は足を組んで腰かけていた。
頬杖をついている。
「よく来られた。アメルハウザーの屋敷の権限が行使されたのは観測済みだ」
響く声だった。女性にしては低い。大音声、というわけではないが、腹にまで届く。
顔は、英傑の相と言っていいかもしれない。眉が濃く、目が大きく、鼻梁はとがり、唇はあつい。額がわずかに盛り上がっている。
一種の奇相ではあるが、全体に調和の取れて美しい顔だ。
「クラウディア・アスムスである」
体躯も女性にしては大きい。そして、ものすごくスタイルがいい。とにかくボンバーだ。
この女の第一印象は、迫力の一言に尽きる。
存在感だけでこんなに圧迫してくる女、ババアの他にもいたのか、と俺はひそかに驚いている。
対面には、リリイだけが座った。俺たちは、後ろに控える。
このきらびやかな部屋の中では恥じ入るほどに汚れた出で立ちを、しかしリリイは気にすることなく座っている。
「先に、当家の湯でも使われるか? お望みなら、替えの衣装も用意させるが」
「ありがとうございます、しかし、今はほかに優先させるべきことがございます」
「そうか、それならばいいが」
「身なりなど、どうでもいいことでしょう? わたしのこの皮を一枚剥げば、そこに流れるのはアメルハウザーの赤い血です。お目にかけたほうが?」
「結構だ。すまない、そちらの誇りを傷つける気はなかった」
商人がおさめる街の王。商人の中の商人。権力でも軍事力でもなく、ただ金の力だけでその地位まで上り詰めた人類最大の金満家。
その尊大な態度に一片の不遜もなく、その豪奢な装いに欠片の虚栄もない。
この女は本来、その身に、なにひとつの装飾を必要としない。満身に壮烈なほどの自負がみなぎっている。はちきれんばかりの英気。
なるほど、アスムス。
まつろわぬ者。不羈。それこそが、誇り。それこそが、自由であるということ。そういう信念を背負って、この女はここに座っている。
浮世に、そうして生を刻んでいる。
当代アスムス。クラウディア・アスムス。
齢三十二になる女傑の、それが名前だった。
「お会いできて光栄です、クラウディア・アスムス。リリイ・アメルハウザーです」
「一度、合っている。十五年前。覚えていないか、まだようやく歩き出した頃だ」
リリイの肩がわずかに震える。
「わたしが、ですか?」
「ほかに誰が?」
「いえ、申し訳ありません。覚えておりません。その際は、父と?」
「ああ、父君がいらっしゃった。そうか、覚えてないか。父君はその際、私の父にこうおっしゃられた。――あなたにとって、この娘がそうするに値すると思ったとき、可能な限りの力を貸してやっていただきたい、と」
言葉が、そこで一度切られた。
「リリイ・アメルハウザー。お父上のことは、気の毒だった」
「天命でしょう。父も、納得してのことだと思います。備えが足りなかったのは、我らの落ち度です」
「そうか。実は当家にも書簡が届いた。後で写しを持たせよう。内容は「先代の領国経営は民をいたずらに苦しめるばかりで、天意に背くものであった。よって、討った。これよりは、我が身、コルネリウス・アメルハウザーの名をもって、家をおさめること、ご承知おき願いたい。王府より墨付きもいただいている。なお、情けなくもリリイ・アメルハウザーの逃亡を許した。もしも貴家を頼ってくるようであれば、速やかに身柄を引き渡されたし」だそうだ」
クラウディアは手をひらひらと振って、眉を寄せた。
はじめてその手紙を読んだときに感じた不快を、胸中によみがえらせたように。
「苦い唾を飲まされた気分だったよ。いい祐筆を抱えているのか、筆跡だけは見事だったが、文章からは品性の卑しさしか感じない」
「左様ですか」
「まったく、アスムスも軽く見られた」
「かわって、わたしが頭を下げたほうがよろしいでしょうか」
クラウディアは乾いた声で笑った。
「思ってもいない申し出をするものではないな、リリイ・アメルハウザー。さて、では本題だ。御身、アスムスでの安住を求めてここに? であれば当家は――」
「まさか」
言葉をさえぎって、リリイは笑った。クラウディアの目が見開かれる。
炎のような微笑だった。
「父は彼岸にて、みずからの死をみずからの不徳として納得しているでしょう。しかし父の納得は父のものです。わたしのものではありえない」
「…………」
「わたしは、父を弑したものを許さない」
声には断固たる響きがある。
なにものの邪魔も許さぬ、不退転の決意。
「安住など考えの埒外。いかなる戦を開いてでも、この命に代えて、わたしはわたしの持ち物を取り返すつもりです」