プロローグ
まったく、ひでぇババアだった。
むかしは傾国の美貌とうたわれたものさ、なんて偉そうにほざく。その口元には渓谷のようなシワが寄っている。これで美貌と言えるなら、その辺の岩肌だって美女になる。
魔術師としても一流だった、とつまらなそうにほざく。こちらは真実だろう。なにしろ本人は千年を生きていて、俺を三百年生かし続けた。
一年を通して雪に覆われた霊峰シュヴァルピッツェの山頂近くに居を構えて三百年、俺たちはともに生きた。
大地に敷かれた魔方陣にいかなる効能があったのか、俺は知らない。それでも、家の周囲にだけは草花が萌え、果物の恵みが豊かで、獣たちが歓びを交わし合った。
魔力は途方もなかった。ババアにとって、奇跡の執行は、そこらのバーゲンで売られている林檎よりも安いものだった。
その力の限界を見たことは、三百年、ついに一度もなかった。
この日が来るまでは。
――ババアは死ぬ。
希代の大賢者、千年に一度の知の巨人、自称を含めていいのなら世界一の美貌の主が、死ぬ。
「よっしゃ、ついに死ぬんだな、ババア!」
「うるさい小僧だねえ。キスしてやろうか」
「それだけはやめろ」
「ハグか?」
「謝る、すまんかった。許してください」
おどけて見せると、ババアはわずかに口元を緩めた。笑顔だったのだろう。もう見わけもつかない。
ババアには、ほとんど表情がない。死の気配ばかりが、彼女の周囲を満たしている。
「なんて顔してんだい、馬鹿だね」
「うるせえ」
「泣くんじゃないよ、みっともないね」
「泣いてねえよ、クソババア。目が見えねえのか」
「そうかい、じゃあ、そういうことにしておこう」
「ふざけんな。泣いてるよ。泣いてる。よく見えてんじゃねえか、殺すぞ」
「どうしろっていうんだい、ワガママなやつだねえ」
雲の裂け目から、一条の柱となった光が降っている。小鳥のさえずりが木々をわたり、風が花の香りを運んできた。遠くに見える峰は雪化粧をまとっているのに、ババアの魔術のせいで、この辺りだけが春だった。
大地、天気、運命にさえ干渉する大魔術。凡庸な魔術師を百人集めたところで、生涯なし得ないほどの奇跡を軽々と実現しながら、ババアは細く息を吐いている。
「死ぬな。大賢者じゃなかったのかよ」
「大賢者さ。けれどね、教えたろう、何事にも限界ってもんがあるんだ」
「知らねえよ。もうちょっとくらい、生きられるだろう」
「生きてどうするんだい?」
「俺を、ひとりにするなよ」
ババアは驚いたように目を見開いて、しわがれた声を切るようにして笑った。久しぶりに聞く笑い声だった。
細めた目で見つめられる。
ああ。
こうして見つめられれば、本当だったのかもしれない、という気がしてくる。
この女はたしかに、若いころ、悲しいほどに美しい娘だったのだろう。
「奴隷の分際で主人に意見するのか。こりゃあ、教育を間違えたかね」
「知るか。だったら再教育しろ。付き合ってやるぞ、あと百年でも、二百年でも」
老いた喉から、はは、と乾いた声が漏れた。なんだよ、と俺は思った。なんて声で笑いやがる。
「出来損ないの教師役も、いささか疲れちまった。ここらでお前を解放してやる」
「いらねえ!」
三百年前、奉公先でへまをして、死ぬほど棒でたたかれた。失明して、両手足がぐちゃぐちゃに砕けた。内臓もいかれてた。背中には今も、そのころに彫られた奴隷の証が入っている。
数年、魂をすり減らして奉公した主人は、俺をぼろ雑巾になるまで痛めつけてから、路上に捨てた。用済みの布切れを放るように。
冬だった。路上で凍えていた。声も出せずに死を待つばかりだった俺を、ババアは拾い上げ、二束三文で買った。それまでもそれからも、ずっと奴隷だ。飯炊きから火起こし、狩り、掃除、洗濯、按摩、一発芸まで何でもやった。
ババアは決して動かず、働かず、仕事をしなかった。俺はババアのために働いて働いて働いた。死ぬほどつらい労働をして、死ぬほどつらいしごきを受けた。今日まで生きてこれただけ奇跡だった。
奇跡だったのだ。あの日、俺が生き残れたのは。
「お前はいい奴隷だった。よく働いた。まったく、得な買い物だった。たった今、奴隷から、解放する」
ババアの唇が微動する。その調べは、ただの奴隷に過ぎない俺には聞き取れない。なんらかの呪文が終わると同時に、俺の手足を縛めていたババアの魔力が霧散したのがわかった。
「これで自由だ。あたしとお前は、無関係だ」
「やめろよ、そんなこと言うな」
「山を下りて、世間に出ろ。もう契約は解いたからあんたは不死でも不老でもない。六十年かそこらで死ぬだろう。それまではせめて、好きに生きろ。あたしには合わなかったけどな、世の中、そんなに悪くない」
「やめろ。お前は俺が殺すんだ。こき使ってくれたお礼に、俺がぶち殺すんだ」
「そうかい」とババアは笑った。「そいつは、怖いねえ」
それが最後の言葉になった。
ババアは死んだ。
その死を悼むように、あるいは嗤うように、家に雪がやってきた。冷たくなったババアの亡骸の横で二日泣いた。それから、家を燃やした。ババアの亡骸ごと。
煙を巻いて燃え上がる炎を見ながら、山を下りよう、と思った。山を下りて、町で暮らすのだ。
だって、俺はもう、奴隷ではないのだから。