05 振り絞る勇気
意を決してデートに誘ったときの文句は、ごくありふれたものだった。それでも俺には、相当な勇気が必要だった。
「あの」
気だるい昼下がり、店内は客もおらず閑散としていた。二人でレジに入っているとき、俺はついに口火を切ったのだった。
「品川の水族館で、イベントやってるって知ってます?」
「水族館?」
ヨンさんはきょとんとして、首を傾げた。あまりこういう話題には詳しくないのかもしれない。勉強やアルバイトで忙しく、情報をチェックする暇がないのだろう。作戦を誤ったか、と一瞬焦ったが、気を取り直して続ける。
「今、開園十周年記念で特別なイルカショーをやってるらしいんです。友達と行く約束をしてたんですけど、彼、都合がつかなくなったみたいで」
そこまで話して、俺は自分の心臓が早鐘を打っていることを自覚した。頑張れ、川口真吾。ここからが本番なのだ。不自然にならない程度に間を空けて、言う。
「良かったら、一緒に行きませんか」
ちょっと驚いたように、ヨンさんは軽く目を見開いた。少し考えた後、彼女は嬉しそうに微笑み、頷いた。心なしか、頬がほんのりと赤く染まっていたような気がする。もっとも、俺も人のことを言える立場ではなかったはずだが。
「うん、いいよ」
やった、と思わず叫び出したくなった。舞い上がって小躍りせんばかりの俺に、彼女は少し申し訳なさそうに付け加えた。
「学校のこともあるから、もしかしたら日にちによっては行けないかもしれないけれど……大丈夫?」
「いやいや、ヨンさんの都合の良い日でいいですよ」
首を振り、俺は笑って応じた。
スケジュール帳を取り出した彼女はしばし考え込み、候補となる日をいくつか俺に示してくれた。小さな赤い丸印のつけられたカレンダーから、俺はお互いがシフトを入れていない日付を選んだ。
その日は勤務終了時間ギリギリまで、俺はヨンさんと談笑した。幸福感に包まれて有頂天になっていたので、詳しい会話内容まではあまり覚えていない。
待ち合わせの時間とか、デートプランの細かい部分を話し合って決めたような記憶はある。
品川駅の改札を抜けて、俺は辺りを見回した。人だかりの中に彼女の姿は見えない。側にある柱にもたれかかって、しばらく待つことにした。
予定していた時刻を五分過ぎても、ヨンさんは現れなかった。少々不安になってきた矢先、俺の耳にぱたぱたと慌てた足音が飛び込んできた。
「ごめんね、遅れちゃって」
気づけば、白いワンピース姿の彼女がすぐ前に立っていた。普段よりも清楚さが際立ち、美しさに磨きがかかっている。すまなさそうに両手を顔の前で合わせたヨンさんは、俺の肩くらいの高さから上目遣いでこちらを見ていた。
「いえ、俺も今さっき着いたところです」
実際は待ち合わせの十分前に到着していたのだが、俺は常套句を使うのに徹した。というか、一段と可愛い彼女にどきりとさせられて、それ以上洒落た文句を付け加える余裕すら失っていた。
「じゃあ、行こっか」
楽しげに歩き出そうとしたヨンさんの足がぴたりと止まり、恥ずかしそうに振り向いた。
「……ええと、どっちに行けばいいんだっけ」
「こっちですよ」
たまに天然な一面を見せるのも、彼女の魅力の一つだと思う。俺は苦笑し、歩くペースを早めすぎないよう注意しながら、人混みを縫って水族館を目指した。すぐ後ろをヨンさんがついてくる。
こんなとき、手を繋ぐべきなのだろうか、とふと思った。「はぐれないようにするため」という名目のある今ならば、自然なシチュエーションだと言えるかもしれない。しかし、初デートの開始直後から手を繋ぐのはやや性急な気もする。
そんなことを考えると、不意に彼女がシャツの袖をつまんできた。全身を電流が走り抜けたかのようで、俺は刹那硬直してしまった。
「はぐれちゃいそうだから」
弁明するように、ヨンさんが囁く。その声がどこか熱を帯びているように感じたのは、俺の勝手な妄想だろうか。
何かで読んだことがある。大勢の人々が早足で行き交う駅構内は、身長の低い女性にとって時に恐怖の対象となると。見知らぬ男性に押されたり突き飛ばされたりでもしたら、確かに怖い思いをするだろう。
だから、俺が守ってやらなければ。既に品川駅からは出かかっているものの、土曜日の午後というだけあって人通りは多い。
「しっかりつかまってて」
ぎこちなく腕を伸ばし、俺はシャツの袖を掴んでいた細い手を、包み込むようにして握った。