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最終話 定野にない物

「火事だ!」










 小便を出し切りファスナーを上げ手を洗おうとした俺の耳に、そんな金切り声が入り込んで来た。手を適当に洗ってまともに拭かず便所から飛び出すと静かだったデパートがまあ大騒ぎになってるの何の……。


「落ち着いてください!」

「出火元は!」

「イタリアンレストランです」

「やだそれ9階じゃないの!」

「大丈夫です、防火扉はすでに閉められ現在消火体制に入っています!みなさま落ち着いて避難してください!」

 当たり前だとは言えうるさいね、まったく困ったもんだ。とにかくだ、店員さんの言う通り落ち着いて脱出するしかない。


「エレベーターはいつ来るの!」

「申し訳ございませんが一時的に停止状態になっております、階段をお使いください」

「もう!」

 島村さんは騒いでるがしょうがない、こういう時は階段が頼りだ。一応エスカレーターも止まっているだけで使えなくはないようだが、幅が狭いうえに殺到してて危なくて使えたもんじゃない。エレベーターの隣にある非常階段って言う肩書がくっついた普通に使える階段を使うしかないだろう。


「太郎、お婆さんを置いてかないでかよ!」

 よく見れば定野は既に階段にいて島村さんを待っている。手を振ったり声を出したりはしてないけど、まったく中一とは思えないぐらい落ち着き払ってる。この非常時だってのにすごいもんだねえ。


「大丈夫なのかよ!」

「落ち着いて!」

「ったく今日のお昼ご飯の予定が台無しじゃない!どうしましょう」

「どうしてこうなったんだよ!」

 火災訓練とか何とか言ってみても、いざ本番になるとこんな物かもしれねえ。まあうるさいの何の……でもこんな時に昼ご飯の予定を考えられるのは幸せな事だと思う、ってかその心配してるの俺の母さんなんだけどよ。にしてもこのデパートって非常階段がひとつしかないのかね……。








 8階は紳士服売り場で、7階は婦人服売り場、6階は子供服売り場だ。下の階からも悲鳴が聞こえる。落ち着いてくれと言われた所で、火事と言われて慌てふためかない訳には行かない。そのフロアにふさわしいお客様が、状況にふさわしい行動を取っていた。


「ちょっと早く早く、うちの孫に何かあったらどうするんです!」

「………………………」


 にしても島村さんって声がデカいよな、そりゃまあお説ごもっともではあるけどデパートの人の声が聞こえやしねえ。一方で定野はまあ実にマイペースにゆったりと、島村さんに無理をさせないようなペースで一段一段階段を下ってる。実に正しいやり方であり、デパートの人の言う事を信じれば急ぐ事もないって理屈だ。


 あいつの運動神経がいい事は、俺を含めクラス全員が知っている。でもあいつは、決して廊下を走るような事はしない。俺らより早く出てとっとと目的地に付くような奴だから、そんな事をする必要はない訳だ。ましてや休み時間にも便所にさえ行かねえでじっとしている事が多いからその機会さえめったにない。その点もまた、あいつの折り目正しさを遠慮なく示してる。俺だってついうっかり走りそうになっちまうのに、あいつにはその兆候すらない。


「早く降りるわよ太郎!」

「………………」

「おかしもですよ島村さん」

「おかしじゃなかったの?」


 俺は「おかしも」って言葉を小学校時代に聞かされて育って来た。母さんに聞いたら「おかし」で、父さんは「おかしもち」だったらしい。火災訓練の時の合言葉で、まあ要するに「押さない」「駆けない」「喋らない」、「戻らない」それから「近付かない」って事だ。なるほど、定野のやつは前の奴をのけようとせず、むやみやたらに走ろうともせず、いつものように無言で、それでいてまっすぐに下へと向かっている。一方で島村さんは前へ前へと進もうと一生懸命でぐいぐいと進んでいる、少し前にいたからいいけどまん前にいたら迷惑でたまらねえ。その上に足はバタバタしてて大声を上げまくってて、それでありながら時折振り返って定野の事を呼びつけようとしてる。何だろうね本当この差は。




 7階の婦人服売り場の人たちは、実に冷静だった気がする。それなりに混んでたはずなのにどうしてなんだろう。あるいはもう逃げ切ったのかもしれないが、だとしてもあわてている人の姿は見えない。


「何やってるの、火が来たらどうするの!太郎!」

「………」

「モタモタしてるとおばあちゃんが焼け死んじゃうわよ!私が死んだらあなたどうするのよ!」


 そのせいか知らないが島村さんの声が響く事響く事、あんまり騒ぐもんで俺たちは逆に黙ってしまった。店員の注意が聞こえねえよという文句すら言う事なく、俺達は実に見事に避難していた。実に婦人服売り場らしいよなとか言う妙な余裕を持ちながら降りて来た6階は、まったく違っていた。






 5階が家電売り場、すなわちゲーム機のようなおもちゃも売っている場所であり4階は本格的なおもちゃ売り場、ベビー用品売り場。場合によっては4階→5階→6階と移動するだけで(もちろん逆の順番でも)子供に関する用件を満たせる訳だ。この夏休み真っ只中の時期だ、当然子どもは多い。俺もまだ中一にすぎねえが、定野のようなできた奴がそうそういるわけじゃねえ。


「早く早く!」

「落ち着きなさい!こっちから降りないとダメなの、エレベーターは止まっちゃってるの!」

「えっ何なの……なんでみんな騒いでるの?」

「火事なの!こっちに来なさい!」


 幼稚園児や小学生たちが早く逃げなきゃとあわてている。逆に親の方だけ慌てている家族もあったが、いずれにせよ7階に比べるとずいぶんと騒々しかった。


 俺達がなるべく整然と階段を降りていると、ひと際あわててた女の子がいた。お母さんらしき女の人を置き去りにして階段に向かって顔を泣きはらしながら走っている。足取りはまったくおぼつかない物であり、このまま言ったら転びそうなほどだった。


「よそ見しないで階段を降りるんだ」


 俺が女の子に気を取られているとお父さんから声がかかり、そして階段を降りようとすると定野の姿が目に入った。俺たちよりやや後ろを整然と歩きながら5階までたどり着き、4階への階段を降りようとしていた。


「あっ!」


 そこでさっきの女の子が足を滑らせて転びそうになり、手すりをつかんでいた定野の方へ右手を伸ばした。その結果階段を降りようとした定野のズボンに女の子の右手がかかり、そしてそのままズボンを引きずり下ろしながら倒れ込んでしまった。女の子は泣きながら立ち上がったが、その直後にその女の子はたぶんこれまでの人生で一番大きな悲鳴を出した。その金切り声につられて俺が振り向くと、定野の股間がはっきりと見えた――――――付いてなかった。




 俺ははっきりとその目で定野のあそこを見てしまった。まさかと思い一瞬目を閉じてまた開けると、やはり付いていなかった。一体何がどうなってるんだろう。付いてるはずなんだがと思いながら俺が両眼を見開くのと


「このお兄ちゃん、おしりの穴がないよ!」


 とその女の子が叫んだのは同時だった気がする。しかしよく見てみると棒はやはりなかったが、玉の方はきちんとあった。そう思うと同時に定野の肌が白く見え始め、無言で定野がズボンとパンツを引き上げると共にドサンという音が聞こえ、また悲鳴が鳴り響いた。


 今度はさっきの悲鳴と違う、太く重たい声。6階と5階の間の踊り場に集まっていた避難者たちの中で、一人の女の人が倒れ込んでいた。やたらと目立つ紫色の服を着たその女の人。煙でも吸い込んでしまったかのようにぐったりとしたその女の人、島村さんは顔をデパートの硬い床に押し付けながらその体を横たえていた。


「もしもし!もしもし!」


 定野は無言でお婆さんの肉体に近寄り、そのままその手を握り父さんたちと共にお婆さんの手足を握りながら救急隊員の人の合図でタンカに乗せた。まるで避難訓練のような調子でタンカを扱う定野に釣られるかのように、俺たちもまた元のように整然とした避難を再開する事になった。










 火事は俺らが外に出てほどなく鎮火した。防火扉の閉鎖とスプリンクラーの作動、そういう応急処置が早かったせいで火元の店が少し焼けちまった以上の損害はほとんどなかったそうだ。全然責任のない1階の雑貨店の店員の人が平謝りを繰り返してたけど、本当にこの人にとってもえらい災難だったんだな。


「煙を吸い込んだんですか?」

「いいえその時は私たちと一緒に8階にいたんです、そこから階段で避難する際に突然こうなってしまいまして」

「とにかくとりあえず病院へ運びたいと思います、どなたか関係者は」


 俺は定野を呼び、救急隊員の人にお孫さんですと言って引き渡した。あいつはこんな時でも、あるかないかわからない表情をおそらくは変えないまま淡々と歩いてる。おそらくは助からないだろう自分の身内を前にして、なんかもうちょいある気もするんだがな。


 なぜ、男には二つの玉があるのか。それは学校ではこれから詳しくやる事ではあるけど、俺はすでにその理由を知っている。ある奴とない奴がいて、あるのが男でないのが女だって事もとうの昔に知っている。地球上の生物の大半が、このどちらかに属している事も知っている。しかし製造器官があった所で、それを出す器官がなきゃ意味はねえ。まったくもって不自然なほどの玉だ。首がなくて、尻の穴もなくて、それでも玉だけが付いている。もし玉がなくなろうもんなら、定野の奴はその肌の白さと相まっていよいよマネキンその物になる。改めて遠ざかって行くあいつの姿は、実に白かった。











 その後聞かされた話だが島村さんはあの火災でたった一人の犠牲者になり、またしても頼る場所を失った定野は三年間ほど身を寄せていた伯父さんの義理のお姉さん、つまり奥さんのお姉さんの一家に引き取られる事になったらしい。

 俺らの中学校からも転校する事になると言う。定野はこれで、三度帰る家を失った事になる。不可抗力としか言いようがない災難、それによるあまりにも痛々しい人生……ああやんなっちまうよな。


 俺だってそんな事が続いたら頭をなくすかもしれねえ。自分の体にとって何かがある方が好都合だからその方向へと発展していく、生物の進化ってのはそんな物のはずだ。もしあの進化が定野にとってベストだとしたら、俺は定野に全力で同情せざるを得ない。

 それと多分だけど、あいつの印象はクラスに案外残らない気がする。だからだとしてもせめて俺だけでも定野太郎って奴の事を全力で覚えておいてやりたいってのは、いつも通りのケンカ屋の本能なんだろうか。でもそれでも別にいいじゃねえかよ、その結果一体どこの誰がどんな損をするんだか。まあこれからも俺はたんと勉強するんだろうけど、さっきの疑問に対する答えについては多分一生勉強なんかしねえ。だってつまらねえんだもん、定野太郎って人間と違ってさ。

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