4話《二人の距離》
「おはよう、春宮さん」
「ぉ、はよぉ……ございます」
夕月にルミの護衛を頼まれて一週間。そのうち、彼女の護衛をしたのは三日間。毎週水曜日と金曜日が美術部の活動日らしく、その付き添い。日曜日に画材の買い出しで、夕月とルミと歌恋の三人で出かけた。
夕月がいるときは、ルミもそれなりに話をするが、二人っきりになると、ルミは全く喋らなくなってしまう。
「今日は補講ないから、美術室にお邪魔するね」
「ぁ、はい」
お互いにまだぎこちない。出会って一週間。当然といえば当然だが、理由は他にもある。ルミは警戒している。ストーカーをなのか、それとも歌恋になのかはわからない。
「……」
二人が会話をしたのは両手で数える程。それも挨拶する程度のもの。ちゃんとした会話は全くと言っていいほどない。
美術室に到着すれば、ルミは足はやに準備を始めて、絵を描き始めた。歌恋は少し離れたところに椅子を持ってきて、以前友人にオススメされた小説を読み始める。
護衛をしてほしいと頼まれたものの、ストーカーらしい相手はいない。いや、ストーカー以前に守る方との距離がありすぎる気がする。
ちらりと絵を描くルミの姿を、歌恋はじっと見つめて、読みかけの本を閉じた。ルミの傍まで来ると、絵の具独特の匂いが鼻を刺激する。
真剣な表情で絵を描くルミ。歌恋は、そんな彼女の顔を観察するように見つめた。
「んー」
「ぇ、あ、あの……何か?」
「いや、先輩には似てないなぁーって。目元くらいは似てると思ったけど」
「わ、私は父親似なので……兄は母親似で……」
「あぁ確かに。おじさんには似てるな。特にタレ目とか」
「父と、会ったことがあるんですか?」
「二年前だけどね。試合の応援にきてて」
「そう、何ですか」
思ったよりも上手く話せて、歌恋は何だか嬉しかった。もう少し色々と話をしたいな。そう思って口を開こうとした。
「あれ、神薙さん?」
突然美術室の扉が開いて、二人はそちらに視線を向ける。そこには、制服の上から絵の具で汚れたエプロンを身に纏った男子生徒がいた。
「椎葉」
「驚いた、てっきり春宮さんだけかと思ったのに」
「あぁそっか、椎葉も美術部だっけ」
「うん、そうだよ」
苦笑いを浮かべながら、椎葉は美術室の窓際に設置された水場で手をしっかりと洗った。
椎葉誠。歌恋のクラスメイトで、学級委員長を勤めている人物。美術の才能に恵まれ、在籍中に何度も賞をとっている。将来は美大に行くと友人に話しているのを歌恋は聞いたことがあった。
「それで、何で神薙さんがここに?今日は補講なかったはずだけど」
「うん。春宮さんの付き添いかな」
「付き添い? あぁそっか、夕月さんの妹さんだもんね」
「あれ、椎葉って先輩のこと知ってるの?」
「有名人だったからね」
確かにと、歌恋は苦笑いを浮かべる。成績優秀で運動神経も抜群。誰にでも優しくて、誰にでもまっすぐ向き合う。みんなの憧れの存在といってもいい人。楽しい事が大好きで、部活の、弓を引いてるときはとても静かなのに、全くの別人。
「というか椎葉、まだ部活してるの?」
「うん。来月締め切りの絵を提出するまではね」
「へぇー。今度見せてよ」
「気が向いたらね」
椎葉は視線をルミに向けると、にっこりと笑みを浮かべる。ルミは軽く頭を下げて、絵のほうに向き直った。
「椎葉は美大だっけ?」
「そんなところ。神薙さんは?」
「んー、行くところないから夕月先輩とおんなじところかな」
「やりたいこととかないの?」
「今のところは。弓道も、はっきりいって才能があるわけじゃないしね」
大会が終わったあたりに一度だけ歌恋は思った。もし自分に弓道の才能があれば、簡単に大学を決められたのではないのかと。才能と言える才能は一つとしてなかった。勉強もできるほうじゃなかったし、運動は好きだけど、だからと言って何か一つのことに特化しているわけじゃなかった。
「椎葉みたいに才能があればね」
「そんなことないよ。僕は好きでやってるだけだから」
「それが羨ましいんだけどね……」
誰にも聞こえない声で、歌恋はそっと呟いた。