第1話 竜と天使が出会うとき - 1
この物語は全て母から聞いた物語だ。この大陸の歴史と運命を背負った英雄たちの、母がその目で見た物語だ。
その頃、イーストリアム大陸は5つの国に分かれていた。大陸の中央にその全てを統治する“央国”と呼ばれる巨大な国が横たわり、その周りには央国から自治権を委ねられた4つの国が取り巻いていた。大陸の北、極寒の海を渡った先には“絶望の島”と呼ばれるヤアス島がある。その島は断崖絶壁に囲まれ、一年のほとんどは雪と氷に覆われ、雪と氷から解放されるわずかな季節も、まともな作物はほとんど育たないような痩せた地面が顔をみせるだけである。魔物が棲み、生きるために殺し合い喰い合うだけの世界だ。重い罪を犯した罪人は絶望と共にこの島に送られる。
だが、この絶望しかないはずの島に、ある日突然“破壊の王”を名乗る男が現れた。破壊の王はヤアス島に棲む魔物や罪人、先住民を統括し、海を挟んで島の真南に位置し島を統治していたシュトライト国に攻め込んだ。恐るべき軍事力と戦闘力で、沿岸の街や村を次々と攻め落とし戦火を拡大している。その波紋は広がり大陸中で混乱と混迷が広がりつつあった。
戦禍の只中にあるシュトライト国と、その南、大陸の南西に位置するブントハ国の国境には広大な森が広がっている。大陸の人々から「迷いの森」「不帰の森」などと呼ばれ忌み嫌われているその森から小川が流れだしていた。森の出口になっているその場所は小高い岸壁になっており、小川から流れる水は岩肌から注ぎ落ちて小さな滝になっている。柔らかな日差しの中で滝の飛沫は光輝いていた。森の向こう側で起こっているであろう数々の悲劇を知ってか知らずか、自然が生み出す美しさは変わらない。
滝つぼに次々と水が吸い込まれ、吸い込まれたところからきめ細かな泡がはじけては消える。その泡に混ざって大きな気泡が次々と湧き上がってきたかと思うと、大きな水飛沫を上げて一人の少女が浮かび上がってきた。赤みがかった茶色い長い髪を頭の後ろで一つに束ねている。大きな瞳とその輝き、体の一つ一つの動きが少女の快活な性格を物語っていた。数日ぶりの水浴びに気分も爽やかになり自然と笑顔が滲みだす。川べりには恐らくその少女のものであろう服や外套が脱ぎ捨てられ、肩から斜めにかけることができるタイプの白い旅用の鞄が転がっていた。
その時森の奥の方から何かが爆発したような音が聞こえた。微かに地面が振動しているように感じたのは錯覚だろうか。少女は濡れた肌着から水を滴らせたまま、脱ぎ捨てていた服をひっかぶり、荷物を背負って、まるで野生の鹿のような軽やかな身のこなしで滝が流れ込む岸壁を飛ぶように駆け上がっていった。岸壁を登りきるとさらに手近な背の高い木を見繕って登り始めた。太い枝が伸びている辺りまでくると、今度は枝に足をかけ、更に上の枝に飛び移っていく。登っていく間にも先ほどの音が断続的に聞こえてくる。音は少しずつ近づいているようにも思えた。ある程度森の奥が見渡せる高さまでくると、音がしたと思われる方向に眼をやった。
少女の位置から北に向かって約1リーグ程先に微かに土煙のような靄がかかっていた。どうやら土煙は少女のいる方角に向かって進んできているように見える。「思ったより近かったな。」と呟きつつ、何が起こっているのかを正確に把握するため、さらに土煙の向こう側を見ようと目を凝らした。土煙の中では木っ端や枝葉が舞い散り、時折大きな木の幹までが舞い上がることがあった。その影になってはっきりとは見えないが、人の形をした影が見えた。1リーグも先なのに大路を挟んだ向こう側に人が立っているくらいの大きさに見える人影。人間とは異質の者なのは明確だ。「巨人族かな。こんなところに?」この迷いの森で巨人族を見たなどという話は聞いたことがない。土煙の流れが変わった。上昇気流に乗るように土煙の一部分が上に向かって流れ出した。その後を追うように巨大な大槌が煙を纏って振り上げられるのが見えた。「巨人族が武器?」巨人族は本来戦いを好まない温厚な種族のはずだ。少女の中に大きな疑問と少しの不安が生まれたが、その感情は沸き起こる好奇心によってあっという間に流れ去ってしまった。天高く振り上げられた大槌が無造作に振り下ろされた。爆発音と衝撃とともに、圧倒的な力を叩きつけられた地面からは木々がなぎ倒され、さらに濛々と土煙が巻き起こっていた。
少女は木々に飛び移りながら少しづつ土煙の立つ方向に近づいていった。破壊から逃れた小鳥が2羽、少女に向かって飛んでくるのが見えた。手ごろな木で立ち止まり、腕を伸ばすと鳥たちは上に向けて開いた手のひらに止まって、騒がしく鳴き騒いだあと、また飛び立っていった。
「誰かが巨人たちに追われている…。」
少女は”小鳥たちが教えてくれた情報”をはっきりと言葉にしたあと、「助けなきゃ。」と口の奥で小さく呟き、巨人たちが待つ方向へさらに木々を飛び移り始めた。
少女が土煙に向かって移動しているとき、その土煙の中では一人の男が走っていた。正確には巨大な大槌を振り回す物騒な巨人と、その大槌による攻撃と舞い上がる砂ぼこりの間隙を縫って襲ってくる何者かから逃げていた。男の腰には巨大な剣がぶら下がっている。刀身が異様に大きい。その柄は龍の頭に形どられていた。あたかも本物の龍がそこにいて首をもたげているような錯覚さえしてくる。普通の人間には持ち上げることさえできそうにないほどの大きさだ。およそ腰にぶら下げて走れるような代物ではない。だがこの男はまるで何も持っていないかの如く軽やかに走り続ける。疲労は隠せないようだが、それは剣の重さではなく、逃走による疲労であろう。
と、眼前の砂ぼこりの中に細長い影が縦に走った。咄嗟に男は体を横にひねった。影は細長い刃という具体的な形に姿を変え、男の体のすぐ傍を空気を切る鋭い音を立て通り過ぎた。体をひねっていなければ男の体は真っ二つになっていただろう。刃の先には何者かの影が見える。男は走っている勢いのまま膝を立てる。自然とその膝は影のみぞおち辺りを深くえぐった。声にならない呻き声を背中に残し、男はその勢いのまま走り続ける。すると今度は左右から影が襲ってきた。その影からの攻撃からも体の動きだけで回避した。
「さすがにきついな。この森はどこまで続く…。せめて少し広くなっている場所があれば。」と男が考えを巡らせていたとき、視界の端に純白の羽が広がるような気配を感じた。はっきりと見たわけではない。だがそれは、優雅さと荘厳を兼ね備えたような気配、天使が背中の羽を広げる姿を見たら感じるであろう気高い気配だった。気配を感じた場所を眼で追うと、そこには天使ではなく一人の少女がいた。先ほど感じた神々しさとはかけ離れた普通の少女に見える。だが彼女が普通の少女であるはずがない。「迷いの森」に女の子?しかもあんなにも小高い木の上に?
ふと気付くと男のすぐ脇に一羽の小鳥が飛んでいた。「この鳥について走って。森の出口はすぐそこだよ。」という声が聞こえたような気がした。この鳥がしゃべったようでもあるし頭上の少女から声をかけられているようにも聞こえた。「罠か…?」という思いが一瞬男の頭をよぎったが、どんな形であれ今の状況が変化する方が今のままより良いと思いなおし、先を行く小鳥の後を追って走った。
森の境目で凄まじい轟音と共に爆煙が舞い上がった。巨人が再び大槌を振り下ろしたのだ。凄まじい土煙と飛び交う木の残骸の中から男が飛び出してきた。「あの声の言う通りだったな。」森を抜けたところは見通しの良い草原が広がっていて、男にとっては都合の良い場所になっていた。森から少し離れた場所まで走ったところで森の方に向かって振り返りながら立ち止まった。その時また視界の端に純白の羽が広がるような気配を感じた。その気配の正体は男の後を追うように土煙の中から飛び出してきた少女だった。少女は空中で華麗にトンボを切って男の傍に舞い降りた。木立の上からまるで鳥の羽根が地面に落ちるときのように音もなく静かに。「何だこの女は?」人のことを言える立場とは思えないが、自分の逃走劇に突然乱入した謎の少女に男は戸惑いを隠せない。
「どうして立ち止まったの。そのまま逃げていたらすぐに人気のあるところにでれたのに。」少女は少し怒った顔で問いかけた。
「お前…」と声を掛け返そうとしたその時、ようやく収まりを見せつつある土煙の中からいくつもの人影が姿を現した。森の中で身を隠すためか様々な緑色のパターンが施された服に身を包み、革製の軽量の甲冑を装備している。身を守るよりも動きやすさを優先しているような出で立ちだ。
「ラリィ・フォティア。もう身を隠す場所はない。観念しろ。」先頭に立つリーダーらしき男が威嚇するように大声をあげた。
「お前たちは何なんだ。どうして俺を追う。」とラリィと呼ばれた男は返事を返す。
「何故だと。お前が一番良く分かっているだろう。分からないとは言わせない」
「はっきり言おう。分からない。」
その受け答えに少女は思わずニンマリとしてしまう。対照的に相手の男は顔を少し強張らせた。ラリィは続ける。
「そもそもあんた達は何者で誰に頼まれてこんなことをするんだ。」
「つまらぬ駆け引きなぞ不要だ。まあいい。隠すことでもない。白金の騎士団第2師団参謀ラリィ・フォティア。貴様は二つの罪を犯した。一つは参謀でありながら師団長ディース様の命に背き、戦場のみならず騎士団から逃亡した罪。もう一つは央国の至宝である『シュヴァルトドラコーン』を盗み出した罪だ。」リーダーらしき男はラリィの腰に下がった巨大な剣を指差し口上を続ける。「よって貴様を殺し、シュヴァルトドラコーンを取り戻す。それだけだ。」
「なるほど。央国の刺客か。それでこれはディースの命令というわけか。」
「答える必要はない。」
ラリィは一つため息をつき「色々と誤解はあるようだが、言い訳は聞いてもらえそうにないな。」と呟いた。「だがこの剣を盗んだというのは間違いだ。」そう言いながら、剣を腰から吊り下げるための金具から鞘ごと剣を取り外すと、おもむろにリーダーらしき男に向かって放り投げた。軽くぶら下げていたように見えた剣は大地を揺るがすように重い大きい音を立てて地面に突き刺さった。あまりの印象の違いに相手の男たちがざわめく。
「持って帰りたいなら持って帰ればいい。こいつが俺に『勝手についてきた』だけだからな。」
「殊勝な心掛けだが貴様が死ぬことに変わりはないぞ。」何とか平静を装い男が言葉を返す。罠を警戒しているのか慎重に剣の前に歩み寄り柄に手をかけ持ち上げようとする。そしてそのまま動かなくなった。男の顔色がみるみる紅潮していく。汗が吹き出しているのが少女のいる距離からも分かった。男はついに両手を使って持ち上げようと試みる。だが剣はピクリともしない。何故という言葉が表情から隠しきれない。全く動かすことができず、一息つこうと男が力を弛めたその瞬間だった。少女の隣からラリィの姿が消え、一瞬で男の目の前に移動していた。そして剣の柄に手をかけ軽々と地面から引き抜き、横凪ぎに男の胴体を払った。鞘をつけたままだったため体は切断されることはなかったが、男は凄まじい勢いで吹き飛ばされた。あまりの凄まじさに残された男たちは茫然としている。その隙をついてラリィは次々と男たちをなぎ倒していく。あっという間の出来事だった。
残された巨人族が咆哮をあげた。巨人とラリィがしばらく睨みあう。
「お前の雇い主はこの通りだ。俺とお前が争う理由はもうない。このまま見逃してくれないか。」ラリィが声をかける。
更に沈黙が流れた後、巨人はもう一度咆哮して大槌を振り上げた。振り上げた両腕には渾身の力が込められ、槌はラリィの頭を目掛けて真っ直ぐに降り下ろされた。「駄目か。」そう呟いてラリィは真後ろに飛び退いた。
一瞬の差でターゲットを捉え損ねた大槌は地面を激しく打ち付け、周囲の土は吹き飛び、もうもうと土煙が立ち込める。砕け散った大地の破片や塊が周囲に吹き飛び、後方にいた少女にも凄まじい勢いで襲いかかった。思わぬ出来事に少女の体は硬直して動けない。
次の瞬間、破片が更に砕ける大きな音が響いた。だが音に対して少女が感じた衝撃は小さいものだった。少女は無事だった。土と岩の塊がぶつかろうとする直前にラリィが間に割って入ったのだ。少女の方を向き、襲い来る塊に背を向けている。例の剣を右肩越しに背中に回して少女を自分の体で守る体勢だ。破片はラリィの背中と剣で受け止められ砕け散った。ラリィは自分の体が衝撃で吹き飛ばされないように必死で踏ん張る。身体中から血が飛び散った。少女が顔を上げると覆い被さるように自分を守ってくれているラリィと目があった。激しい痛みと衝撃に耐える苦しそうな表情をしながらも、口元に少し笑いを浮かべている。「大丈夫か?」と唇が動いたように見えた。それを見た少女は様々な感情が一気に押し寄せ言葉を発することもできない。
驚くべきことにラリィは振り返り巨人を睨み付け鋭い眼光を放った。それは怒気なのか全身から見えない力が渦を巻き発せられているかのようだった。その迫力に巨人は一歩後退り怯えたような表情を見せた。血まみれの男が巨人を怯えさせているという不思議な光景だった。
「もう一度言う。俺とお前が戦う理由はない。」
ラリィの口から発せられたその言葉を聞くと巨人は安堵の表情を見せ、一歩、二歩と少しずつ距離を開きながら森の中に姿を消した。
巨人が姿を消したことを見届けた後で、ラリィは膝から崩れ落ちた。
「ラリィ!」悲痛な声をあげて少女はラリィに駆け寄った。「ごめんなさい。こんなことになるなんて。ユーキはあなたを助けたかっただけなのに、こんな、こんな…」最後は言葉にならなかった。大粒の涙をこぼしながらユーキと名乗る少女は謝り続けた。
「ユーキというのかお前は。無事で…良かった。」その言葉を最後にラリィは意識を失った。
「何で、何でユーキの心配なんかできるの?」倒れているラリィに体を寄せると、二人の体は光を放つ何かに包み込まれた。それは見るものに安らぎを感じさせる光、まるで光輝く天使の翼に包み込まれたかのようだった。
「ユーキ、絶対にラリィを死なせない!」
少女の叫びと共に光は周囲が見えなくなるほどに輝きを増し、そして消えた。二人の姿もそこにはなかった。
ただ純白の羽根が一枚、二人が消えた場所に落ちていた。