親切に付け込まれたのか、恩を仇でかえされたのか、それが問題だ
親切に付け込まれたのか、恩を仇でかえされたのか、それが問題だ
習慣って怖いわね。
オーリィ・アレリードは、昨日までの毎日を欠かさず歩いていた道に足を向けた時、もう二度と行くことなどない場所に向かおうとしている自分に自嘲した。
この先に何があったかといえば、オーリィの素晴らしい未来のはずだった。
それがたった一言でがらがらと音を立ててくずれさり、瓦礫もなにものこらなかっただなんて誰が信じるというのだろう。
昨日散々泣いて枯れ果てたと思っていた感情が、通い慣れた道を無意識に選んでしまったことによって再び溢れだし、オーリィの蒼色の瞳に滲み出た。
早く、立ち去らなければ、―――――が来てしまう。
それを見たならば狂おしい感情が自分を支配してしまうとばかりに固く目をつむってくるりと踵を返したが、少し遅かったらしい。
「オーリィ」
背中越しに聴こえるのは、少し戸惑いを隠せない低い声だった。
呼び止められたのなら振り向くしかない。
オーリィは気持ちを押し込めるようにぱちぱちと二度瞬きをしてからゆっくりと振り向いた。
そこには昨日まではオーリィの隣で柔らかにほほ笑んでいた人とオーリィの背中にいつも隠れるようにしていた人が当たり前のように並んでいた。
二人の手はオーリィの前だというのに、いや、前だからこそ固く握られていた。
手と手を取り合って、という言葉を不意に思い出したオーリィだったが、皮肉に口の端が上がった。
力を合わせるだとか、庇い合うという意味を持つその言葉は、オーリィが二人にとって手と手を固く取り合わさなければ立ち向かえない人となったということだ。
だったら、わざわざ声をかけることもないでしょうに。
小さな嘆息をひとつ落としてから、オーリィはこれ以上にないほどに礼儀を正して挨拶をした。
「御機嫌よう、バーリクヴィスト様」
「……アーロンとは呼んでもらえないのか」
ぐ、と握られた手に力を入れたのは、アーロンの横に並ぶ彼女だった。
昨日までならオーリィの背中でおどおどとしていた娘は、まるで人が変わったように燃え盛る瞳でオーリィを睨みつける。
口上のなかに彼女の名前を入れなかったこと、彼女に対して礼を取らなかったことが彼女の小さなプライドを揺さぶったのだろう。
それとも大切な恋人が自分以外の女に名を呼ばせようとしていることがお気に召さなかったのか。
もの言いたげに握り合った手を何度か引いてアーロンの意識を自分に向けさせようとしているが、当のアーロンはといえばオーリィから目を外さない。
アーロン様はいったい私に何をお望みなのかしら。
アーロンは昨日まではオーリィの婚約者だった。
婚約者とはいっても婚約式を挙げたわけではなかったので正式なものとは看做されてはいないが、オーリィの成人、つまりデビュタントを待って婚約式を挙げる予定になっていた。
オーリィの家とアーロンの家は格が違っていた。
オーリィの実家であるアレリード家は男爵であり、バーリクヴィスト家は伯爵だ。本来であれば同じ貴族とはいえ婚約に至るには遠慮する格差があった。
だが双方の親が学生時代からの友人であることと、仕事上の好取引先であることから、年齢も釣り合いのとれた二人が双方の強固な絆となるように示し合わされた結果が結婚という形になり、両家の繁栄が約束されたはずだった。
それを覆したのは他ならぬ目の前のアーロンだ。
「好きな人ができたんだ」
使い古された陳腐な言葉と一緒に紹介されたのは、オーリィを慕ってどこに行くにもついてきた同じ男爵という位の親を持つアデラ・ディクスゴードだった。
その時の衝撃は言葉にできないほどだ。
なにせ彼女は中央から随分と外れた地方の男爵領の出身で、入学当初は人馴れせずにおどおどとしていたため、クラス代表であったオーリィが面倒を見ていた経緯があったからだ。
同じ男爵位を親に持つというのに、アデラは何も知らなかった。
言葉遣いはもちろん、礼儀作法や上位貴族に対する振る舞い方も何もかも知らなかったのだ。オーリィは入学早々アデラを押しつけられたことに教師を恨んだ。
それまで人を叱責することなど人生において皆無に等しかったオーリィだったが、アデラの面倒を見るにあたって躊躇はなくなっていた。
部屋に入れば大声をあげて叫び、椅子に座れば上位貴族の息女がいようが平気で上座に座る。おどおどとしているのに粗野な一面を見せるアデラにオーリィは振り回されっぱなしだった。
そのくせ、マナー以外の成績は学年上位なのだから苦笑するしかなかった。
莫迦な子ほど可愛い。
いつしかオーリィのアデラを見る目が温かくなった。
アデラもオーリィのことを好いてくれたのか、いつもオーリィの後を追ってついてくるようになった。
それを嬉しいとは思いこそすれ疎ましいなどと思ったことはオーリィにはなかったはずだった。
アーロンととる昼食の席に彼女が現れるまでは。
オーリィとアーロンの通うエイデン校は数ある王立学園の中でも特に規律が厳しく、男子校舎、女子校舎と学び舎自体が性別に独立している。敷地内の中央に講堂とそれに付属する庭園が唯一男女同席を許される場所で、それ以外は講堂を中心に左翼を男子、右翼を女子の校舎と区別され、校内の使用する道すらも男女が交えないように厳しく定められている。
エイデン校に通う恋人たちは規律を守りながらも昼休みになると校内の中心である講堂に面した庭園に足を向け、所々に配置されたベンチに腰を掛けてはつかの間の逢瀬を楽しむのだ。学校側もそれくらいは大目に見ている。
オーリィが入学するとアーロンは早速中庭に来るようにと手紙をしたため、それ以来授業のある日は毎日昼に逢うようになった。
オーリィとアーロンの仲は良好で、このまま学園を卒業して社交界に席を置けばすぐにでも結婚することに何の不安もなかった。ただ、小説にでてくるような燃えるような恋というものに憧れはしつつも、それをアーロンとなしえるかといえば子供のころからお互いを知っている気安さからは難しいこともわかっていた。健やかな家庭は築けるだろうが、温かで愛の満ち溢れた家庭は望めない。オーリィはわかっていた。
それでもオーリィはアーロンを慕っていた。
相手からは親愛としか受け取られてなくても、幼い日に芽生えた淡い恋心は月日を重ねても完全に燃え尽きることはなかった。燃え上がることもなかったが。
だからこそ『恋人たちの庭』と陳腐な名称で呼ばれる中庭はオーリィにとってひそやかな楽しみとなっていた。
そこにアデラが加わったのはいつのことか。
オーリィは無性に痛むこめかみを押さえたいという衝動に抵抗しながら思い出そうとした。
入学当初から貴族の子女だというのに礼儀をわきまえず粗野なアデラは教室で浮いた存在となっていた。
貴族からはもちろん、平民からは貴族の中にも平民よりマナーのなっていない人間がいるなんてと嘲笑される始末。
強制的に面倒をみさされていたオーリィを除いては誰も話しかけることもない。
友人関係を育めないアデラに昼食を共にとる者などいるはずもなかった。
それでも初めの頃はオーリィが昼休みの鐘が鳴るとともに立ち上がって教室から出ていこうとするときだけはついて来ようとしなかった。
向かう場所が場所なだけに普段は生まれたてのひよこのようにオーリィの後にくっついているアデラも遠慮することを知っていたようだった。
そのはずだった。
人混みを避けて一人で昼食をとっているアデルを見つけたオーリィが、アデラのあまりにも寂しそうな姿に声をかけて昼食を一緒にとりましょうと声をかけるまでは。
たまには場所をかえて食事をとれば気分転換になると思ったのだ、その時は。
まさかアデラがオーリィの言葉の意味を自分に都合の良いように取り替えて、その日から毎日昼食を共にできるととるとは思わなかったのだ。
初めての昼食はアーロンの了承を得て実現したもので、けれどもアーロンはアデラの華やかな容姿と貴族階級のしきたりに囚われない奔放さに呆れて二の句がつげないようで、オーリィに意味ありげな視線を送っては苦笑していた。
翌日の昼食では気が進まないオーリィの手をひっぱって自ら『恋人たちの庭』に進んでやってきたアデラに眉をひそめていた。
その次の日にもやってきたアデラにアーロンは鷹揚に頷いたきりで、一言も声をかけようとはしなかった。
その次の日にはとうとうアーロンはオーリィに苦言を差した。
せっかくの二人の時間をどうして他人に入らせるのか、と。
オーリィだとて断れるのなら断っている。というよりも、やんわりと婉曲に断りを入れているというのに空気を呼んでくれないのだ。
アデラは昼休みの鐘が鳴ると急いでオーリィのもとまでやってきて、華奢で白い腕に浅黒い腕をからませながら中庭にせかせるのだ。
オーリィがどれほど厭がっているかなどお構いなしだった。
アデラを突き放すことのできないオーリィにアーロンが痺れを切らしたのは、アデラが二人の時間に割り込んでから一カ月たとうかとしている時だった。
「君、そろそろ遠慮してもらえないか」
いつもは温厚なアーロンが珍しく顔をしかめながらアデラに伝えると、アデラは大きな目をぱっちりと広げて不思議そうに問い直した。
「なぜですか。私はオーリィが好きですし、オーリィだってそうでしょう?誰とどう食事をとるかはその当人たちが決めるのであって、部外者であるあなたが指図するようなことではないと思いますが」
「部外者……?それは君だろう」
「いいえ。それはあなたです」
「まさか。君はこの庭の意味を知らないわけではあるまい」
「別名は存じておりますが、それが事実ではないこともまた存じております。それが何か」
オーリィの見ている前で二人は口論を始めた。
きつい言葉の応酬はそれだけを聞いていれば相性が悪く感じられるが、その実二人はとても楽しそうに瞳を輝かせている。
いつにない笑い声をあげたアーロンに、オーリィはそこはかとない不安を感じた。
そしてそれは間違いではなかった。
いつしか、アデラが二人の間に座るようになり、話の中心はいつもアデラ。話しかけられるのはアーロンだけで、オーリィはただそこにいるだけの存在となっていった。
つらくないわけはない。
中庭の入り口で二人の訪れを今か今かと待ちわびるアーロンの瞳の輝きの先にいるのはオーリィでなければならなかったのに実際はオーリィの横にいるアデラに向けられ、ベンチに座るときに敷かれていたハンカチはオーリィのためであったはずがいつしかアデラのものとなり、オーリィは自分でハンカチをベンチに敷くこととなった。
だが、いくらアデラとアーロンが仲よさげに話し込んでいたとしても、アーロンはオーリィと婚約する身であることには変わりがない。
そう思わないと、心の奥底でくすぶり始めた黒いものが口から零れ落ちそうで恐ろしかった。
どんなに教えても、叱責しても、頑なに自分自身の在り様をかえようとしないアデラのために教室では疾走する日々を送る。
胸に突き刺すような痛みを覚え、苦しさに倒れ込むようになったのはこのころからだろうか。
青白い顔をしているわと心配する友人たちに大丈夫ですわと口元に笑みを浮かべて繰り返す。
新学年になればクラス編成され、教師から託されたアデラの御守もする必要もなくなるだろう。
もしかすれば昼食に腕を取られて、連れ立って庭に行くこともなくなるかもしれない。
オーリィは微かな希望にしがみついた。
希望は希望であり、必ず実現するわけではない。
季節が変わり、学年が変わっても、オーリィはアデラと離れることができなかった。
それどころか面倒見のいいオーリィに学校側が問題児のアデラを押しつけた恰好だ、オーリィの望みは絶たれたに等しかった。
足取りが重くなる。
楽しかったはずの昼食の時はオーリィに苦痛しか与えない。
アーロンの温かだった瞳に映るのはすでにオーリィではない。
オーリィは未来をも描くことができなくなった。
家同士の約束事だ、オーリィの気持ちでどうのこうのとできることでは決してないが、だからといってこのまま婚約、そして結婚して信頼し合える家庭を築くことができるとは到底思えなかった。
「好きな人ができたんだ」
その言葉を告げられたのは、珍しくアデラが同席しない昼食の席でのことだった。
とうとうこの時がきてしまったのね。
オーリィは妙に冷めた気持ちで言葉を受け取った。
「その幸運な方はどなたかしら、と聞くまでもないですわね」
「……怒らないのか」
「怒る?怒ってどうなりますの?わたくしが怒ることでアーロン様の心が動くのでしたらいくらでも怒りますがそうではないでしょう?私のためにその方を諦めてくださいといえば叶えてくださるのかしら」
「それは、」
「ではわたくしは怒ることなどいたしません。ただ、将来を共にするはずのわたくしにその言葉を突きつけたということは、婚約の話はなかったことになさる、ということでよろしいのでしょうか」
「……」
「お相手の方はわたくしと同じくご実家が男爵だとお見受けしますが、違いますか?」
「……いいや、違わない」
「では婚礼も可能かと。そのあたりはあなたがご両親にきちんとお話してくだされば問題などないではないですか。その後わたくしの両親にも必ず伯爵家を通してお話いただければ、わたくしとの縁談などなかったことになりましょう」
どうせまだ正式に婚約を取り交わしてなどいないのですから。
皮肉な言葉は喉の奥に閉じ込めて、オーリィはアーロンにほほ笑んだ。
罵られるとでも思ったのだろうか、オーリィの毅然とした姿に明らかにほっとしたアーロンは、淡い恋心など彼方に吹き飛ぶほど許しがたい提案、という名の強制をオーリィに敷くのだ。
「ではそのようにしよう。だがオーリィ、彼女が私の婚約者に決定するまでいつも通りに振る舞ってもらえないか」
どうして、と声が震えるのを抑えることができなかった。
けれどアーロンは彼女との未来を馳せて、目の前の幼馴染のわずかな変化に気付かない。
アーロンは夢見るように言う。
婚約という形式をとってはいないものの、アーロンとオーリィは対だと思われているゆえにオーリィがアーロンのそばを離れれば途端にアーロンに縁談話が舞い込むだろうこと。
彼女が親に認められるまでの間、オーリィがいつも通りアーロンのそばにいることで無用な縁談話を避けられ、なお且つ間髪をいれず彼女がオーリィがいた位置に入ることでオーリィも彼女を認めていることになり、醜聞を回避できるだろう。
アーロンの口からは彼女に対する思いやりと自分に降りかかるだろう火の粉を避けることしかでてこない。
そこには捨てられるオーリィに対する一片の優しさも感じられないどころか、オーリィを駒、もしくは踏み台としか見ていない様がありありとうかがえる。
すぅっと血の気が下がる。
小さなころから何度も顔を合わせ、入学してからはほぼ毎日を一緒に昼食をとってきたのはいったい何だったのか。
少しでもお互いを知り、愛とは言わないまでも信頼し合える仲になればという判断ではなかったのか。
それともただ単に将来の妻に相応しいかどうか、男癖の悪い女になりはしないかと監視するためのものだったのか。
何も言わないオーリィを了承したものだと勘違いしたアーロンは、追い打ちをかけるように彼女との幸福であろう日々をオーリィに話して聞かせたのだった。
苦行が始まった。
話し相手がオーリィしかいないアデラは掴んだ幸運に舞い上がって被害者に等しいオーリィに高揚した頬をさらに染め上げて自分がいかに幸せ者か語るのだ。
それだけではない。
昼の鐘がなればそそくさと支度をし、気鬱なオーリィの遅れがちになりそうな歩みを諌めるように腕を強く引っ張って歩く。
木々の間を抜け、中庭に続く小道にでるとアデラを今か今かと待ち構えているアーロンがいる。
オーリィが待ち合わせしたときには見せたことのない幸福に酔いしれた顔で。
そして二人は手を取り合って、中庭までの短い逢瀬を堪能するのだ。
後ろにオーリィがいることなど眼中にはないのだろう、互いを狂おしいほど見つめ合って歩いていく。
中庭に着く直前に名残惜しげに手を離すと、アデラは悔しそうな瞳をオーリィに向けながらオーリィの後ろに下がっていく。
アーロンはアーロンで横に並んだオーリィに一瞥もくれることなくいつものベンチまで歩みを速める。
なぜ、どうしてわたくしが。
アーロンの家が伯爵でなければ、オーリィの家が男爵でなければ、こんな馬鹿げな芝居をうつ必要などないというのに。
早く終わりにしたいという願いもむなしく、実家からは何の連絡もない日々が続く。
理不尽さに眠りが浅くなり、食も細くなっていく。
誰かに言えば楽になるだろうが、後ろに伯爵家が控えるアーロンとの約束を違えることなどできるはずもない。
苦しみや痛みを一人きりで消化するしかなかった。
季節が移ろぎ、日差しを浴びて青々と生い茂っていた葉がはらはらと舞い落ちる様子を見せ始めた頃、待ちに待った朗報がオーリィの元にやってきた。
実家からの手紙を舎監から受け取ったオーリィは、逸る心を押さえ自室に戻った。
一音もなく静かに扉を閉めると、蝋で封印された手紙をせわしげに開封しようとするが手が震えて上手くいかない。
びりびりと破られた封筒からはらりと落ちた手紙を拾い上げ、忙しなく目を動かし読み終わると、オーリィは手紙を胸に抱いて天井を仰いだ。
流れおちるのは温かい涙だ。
とめどなく落ちる涙は我慢に我慢を重ねて心の奥底に押し込めていた感情が火山が噴火する勢いのごとく溢れだした結果だった。
もう、いいのだわ。
オーリィの心に燻った黒い感情が涙を落とすたびに晴れていく思いがした。
だというのに、この失態。
オーリィは自分がまぬけでないと信じたかった。
相変わらず教室では味方のいないアデラがオーリィに纏わりついてこようとしたのを何とか躱したのは僥倖だったが、昼休みの鐘が鳴るとともにがたんと大きな音を立てて椅子から立ち上がり、皆の視線を集めた状態でオーリィに「早く」と詰め寄られたのは辟易した。
もう一緒に『恋人たちの庭』に行く必要などないはずよと声を潜めて言えば、わかりやすいほど顔を赤らめて教室をでていった。
これで二度とかかわらなくて済む。
感慨深い一瞬を過ごしたせいか、立ち上がるのも億劫になってしばらくじっと座っていたが周りの奇妙な視線に晒されていることに気が付いた。
重くなった体を無理やり奮い立たせて微笑んで周りを見れば、誰もが視線をそらすのには内心笑ってしまったが。
それでもアデラとアーロンの二人の影となって行動を共にしなくて済む昼食は、久しぶりに味のあるものとなった。
その後、折角の一人の時間を潰すのも勿体ないと図書館に足を向けたはずだったというのに。
無意識で向けた先が中庭だっただなんて、本当になんと間の抜けていることか。
その上、二度と言葉も交わしたくない人から声をかけられるなんて、自分の間抜けさ加減を恨みそうにもなった。
「オーリィ」
「いいえ、バーリクヴィスト様。婚約者でもないわたくしが、男性の名をお呼びすることなどできません。礼儀に反することですわ」
「だが、昨日までは確かに、」
「昨日までは昨日まで、今日とは事情が変わりましょう?それにあなた様のそばには可愛らしい婚約者がおいでではないですか」
「……アーロン様」
縋りつくようにアーロンの手を握り締めるアデラは、昼前までに見せていた覇気が全く感じられなく不安げな様相だった。
そんなに心配しなくても、もう名実ともにあなたのアーロンとなったでしょう?
アデラを知ってからのアーロンの、オーリィに対する態度は決してほめられたものではなかったではないか。
オーリィという存在事実は必要としておきながら二人してオーリィをないものとしてたのを、オーリィは忘れることができない。
だからこそ今さら名を呼べなどと巫山戯たことをいうアーロンに対しては、憤りを通り越して滑稽としか思えなかった。
愛おしい、と思っていた時期もあった。
添い遂げたいと願った日もあった。
わずかな願いを唾棄した当人が、名を呼べ、などと。
貴族社会において名を呼べるのは親族、妻、そして同性の友人しかない。
婚約を前提の付き合いがあったからこそ名を呼べていたという事実をなぜわかろうとはしない。
それとも名を呼ばせることで、オーリィという手駒を手中に残しておこうという算段か。
オーリィは哀しげに眉を下げるアーロンに掛ける言葉もなかった。
「……オーリィ!久方ぶりだな」
懐かしい声は唐突に、アーロンの後ろから聞こえてきた。
小道をふさいだ格好のアーロンとアデラは驚いて道を譲る。
けれどその瞳には非難の色が強く向けられていた。
驚いたのはオーリィも同じだ。
声をかけたのはここにいるはずのないもう一人の幼馴染だったからだ。
「殿下、お久しゅうございます」
「なにを固い。オーリィならいくらでも名で呼んで構わぬ」
「いえ、こちらが構いますゆえ」
「子供のころから見知った仲ではないか」
「それはそうですが、ここは家の中ではございませんゆえ、礼儀は守らせていただかないと」
「くくく。オーリィは相変わらず固い。そうは思わぬか、アーロン・バーリクヴィスト」
オーリィを名呼びする不快な男に急に名指しで話しかけられてアーロンは眉を潜めたが、かといってオーリィが殿下と呼んでいたことに引っ掛かりを覚えてもいたようで、肯定の意味もこめて失礼のない程度に頭を下げた。
「見よ。もう一人の幼馴染もそなたが固いと思っているようだ」
「……殿下」
綺羅綺羅しい黄金の髪はまるで彼の覇気を表しているように輝き、緑柱石の瞳は面白そうに細められている。
イリスの悪い癖が出始めたようだ。
オーリィは顔には出さないもののひそかに嘆息した。
オーリィを幼馴染と呼ぶ黄金の美丈夫はイリス・イェンネフェルトと言い、隣国インネフェルトの第三王子に当たる。
第一、第二王子と違い表に出ることのない第三王子は妾腹で、王妃が産んだ第一、第二王子がいるものの二人の脅威とならないわけではない。
暗躍がうごめく王宮に恐れをなした側妃がいとこであるオーリィの母を頼って息子を密かに預けたこともあった。
本来王族の御前に直接まみえることのない男爵位の者が隣国の王族と幼馴染になる理由はそのせいだった。
同じ幼馴染とはいえイリスとアーロンが出会ったことがないのは、秘するべき滞在だったからにほかならない。
イリスが王位を放棄できる十歳となり、王の承諾の元、王位を放棄したことでやっと本来あるべき王宮に戻ることが叶った。
それで縁が切れたかといえばそうではなく、堅苦しい王宮にうんざりとしたイリスは度々アデリード家に忍んでやってきた。
最後に会ったのは、入学前の夏だった。
成長期の男性はたった一年逢わないだけイリスはぐんと身長を伸ばし、その男前をあげていた。
少し見惚れてしまったことは黙っていましょう。
やっと見つけた獲物に狙いを定めるようにギラギラとアーロンを睨みつけながら不敵に嗤うイリスにオーリィは肩をすくめるだけにとどめた。
「オーリィ。この方は」
「イェンネフェルト国第三王子イリス・イェンネフェルト様です」
「なんっ……」
アーロンは即座に姿勢を正して最大限の礼を取る。
なぜオーリィと隣国の王子が幼馴染なのだと訝りながら。
横に控えるアデラといえば、きょとんとしてアーロンの腕を引っ張っていたが。
慌てたのは礼を取り続けているアーロンだ。
アデラにしか聞こえない小さな声で叱責したが、打てば答えるアデラではなかった。
「アデラ、礼を」
「なぜ? ここは校内じゃない。校内では身分の上下はないはずよ。……はじめまして、私はアデラ・ディクスゴード。国の南西に位置するアルメアン領を治めますディクスゴード男爵家の長女でございます」
「これは面白い。今たしか、校内では身分の上下がないと申したその口でどこぞの誰だと名乗るのか」
「え……。でもこの挨拶の仕方はそこにいるオーリィが私に教えたのだけれど」
「ほお。オーリィが教えたか。これはおかしなことを言う。礼節など幼いころに覚えるべきものを親に男爵位を持つものが入学してから知り合っただけの人間に教えてもらわなければ知りえなかったことなど、よくも恥ずかしくもなく口に乗せるものよ」
ちら、と意味ありげな目くばせに、オーリィは苦笑する。
アデラといえば王子に馬鹿にされたことに顔を真っ赤に染め、皺ができるほどきつくアーロンの服の端を握っている。
アーロンはアーロンでアデラの失態に眉を潜め、やんわりときつく握ったアデラの手を解して距離を取った。
アデラの手はしばらく空を彷徨い、力なく降ろされた。
「ところで今回はどうされたのです? 学園に興味がおありでしたか」
「何だ、知らぬのか。今日よりこの学園に通うことになったのだ。オーリィを昼食に誘うと庭で待っていたというのに一向に現れないそなたにしびれを切らしておったところよ」
「知りませぬ。母からは何一つ知らせは……いえ、近々我が国に来られるようなことは手紙にございましたが」
「では了解は得られたというところか。いやまったく、時間がかかったものよ」
「……は?何のことでしょうか」
意味を掴み兼ねたオーリィにイリスはしてやったりと笑みを深めた。
「慶べ、オーリィ。私とそなたの婚約の儀が整った」
この時、予鈴の鐘が鳴らなければ、オーリィは場所も弁えずイリスに詰め寄っていたに違いない。
けれど鐘の音はオーリィに理性を取り戻させ、にやりと笑うイリスに幼馴染ゆえの黒い笑顔を向けて別れの挨拶を交わすと、はしたなくも小走りでその場を後にした。
その後を慌てて追いかけるのはもちろんアデラだったが、こちらは言葉一つお辞儀一つせず王子とアーロンの前から逃げるように立ち去った。
慌てて戻った校舎は華やかで温かな空気に包まれていた。
恋人たちの庭から戻った子女たちが口々に小道での出来事を友人たちに語って聞かせたからだった。
オーリィは知らなかった。
オーリィの置かれた立場を皆が理解していたことに。
茶番は茶番でしかなかったが、オーリィを助ける手立てを持てないことに皆が苦悩していたことを。
そんな中、彗星のごとく現れた隣国の王子が我らの慈愛に満ちた姫を悪から救い出してくださった。
ハッピーエンドは物語のお約束だった。
オーリィは姦しいほど浮かれた子女たちからおめでとうと口々に言祝がれ、なんて素敵なのでしょうと羨ましがられた。
今日から針の筵だわと想像していたオーリィは、考えとは真逆の展開に目を白黒させて皆からの祝福を受けていた。
かたやオーリィから遅れて戻ってきたアデラには、誰一人声をかける者はいなかった。
それどころか今まで多少なりとも話をしたことがある人からも全く言葉を交わしてもらうこともなくなった。
曰く、アデラと話をしただけで将来の夫となるべき人を盗まれてしまう。
真実を含んでいるだけあって、噂は矢よりも早く学年の垣根を越えて学園中に広まった。
アデラは卒業するまで、一人きり。
針の筵の学園を卒業したと同時にアーロンと結婚しても、社交界の誰からも相手にされることはなかった。
◇◇◇◇◇
「いつまで頭を下げている?この学園の方針では身分の上下を問わないではなかったか。本鈴が鳴る前に校舎に戻らねば」
「……どうして、オーリィと」
「貴公、オーリィをなぜ名で呼ぶ?オーリィを名で呼べる栄誉は私にあり、貴公にはまったくない」
「オーリィは、私と婚約を」
「何を馬鹿なことを。貴公、先ほどの礼儀知らずと婚約したはずでは? オーリィを蔑ろにしていた事実はどこに置き忘れてそのような戯けたことをいう」
「蔑ろなどしていない」
「ほう。では蔑んでいたと言い換えようか。どちらにしろ貴公はオーリィを名で呼ぶ立場ではないことには変わりない。名で呼べるのは私のみ。弁えよ」
「婚約は……まだですが、オーリィが社交界にデビューするときにと約束を」
「まだ言うか。貴公にその権利はない。貴公は先ほど後ろにいた子女と婚約をしたそうだな。女性の名を呼ぶのは夫のみに許された特権よ、貴公は彼女にこそその特権を行使すればよい。次にオーリィの名を呼べば私とオーリィに対しての侮辱として受け取るがよいか」
「……申し訳ございません」
「わかればよい。失礼する」
この男は馬鹿か。
オーリィはこやつのどこがよかったのだ。
イリスはアデラと名乗った礼儀知らずの不快な女を選んだ目の前の男に不信感しかわかなかった。
確かな筋からの話では、この男は身分差からの圧力で言うことをきかせ、オーリィを隠れ蓑として密会を楽しんでいたとのこと。
その密会の相手があのような下種な女であることの不愉快さは言葉では言い表せないほどだった。
よくも私のオーリィを蔑んでくれたものよ。
殴りつけたくなる衝動を抑え込むことに多大な気力を必要とした。
アーロンは目の前の豪奢で傲慢な男に戸惑いを覚えた。
オーリィはまがりなりにも貴族の子女で、貞操観念は薄くなど決してない。
だというのに、婚約式はあげていないものの実際には婚約しているに等しかった自分という存在がありながら、他の男にうつつをぬかしているなどとはありえない。
アデラという存在がいなければオーリィはアーロンのものであったし、アデラがいてもオーリィさえアーロンに傾倒していればオーリィの実家であるアレリード家の事業はアーロンに手を差し伸べるだろう。
アーロンにオーリィを手放す予定などなかった。
だからこそアデラを愛しているといいつつも無理やりな理由を付けてオーリィを傍においておいたし、オーリィがその無理やりな理由を飲んだ時点でアデラを娶りつつもオーリィも欲しているのだと理解しているのだと信じていた。
それなのに突然婚約者が現れるとは予想だにしていなかった。
それも自分の遥か上を行く見た目と身分と傲慢さを備えた男が。
事業を成功させている実家しか取り柄のないオーリィを欲するなど、誰が信じられるというのか。
王子とはいっても第三であれば継承権などないに等しい。
なるほど、だとすれば幼馴染というこの傲慢な男も結局のところはオーリィの実家目当てということか。
アーロンは自分の推測に納得をして、いらぬ衝撃を味あわせてくれた不遜な男に莫迦らしくも恭しく礼を取ると校舎へと足を向けた。
真実は一つだけ。
欲に目の眩むアーロンに、真実を得る道を見つけることはないだろう。
文字訂正 「ゆう」→「言う」
ご指導くださったみなさま、ありがとうございました。