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父と娘と

 遠くのほうから聞こえた話し声に、ゆっくりと目を開く。

 畳の上で横になっている自分に気づく。


 ああ、いけない。

 こんな所で寝転がっていて、うたた寝でもしたら風邪をひくし、頬に畳の跡も……。


 ゆっくりと起き上がる私の肩を抱くように、背後から大きな手が支える。

「知美? 気がついた?」

 そう言って兄が、私の前で膝をつく。

 あれ?

 兄が、ココにいて私を覗きこんでいるなら。後ろにいるのは……暁?


 でも、暁とは、手の感じが違う気がする。 

 男性らしきこの手は

 誰の手?



「いきなり倒れるから、驚くじゃないか」

 背後から聞こえるのは……父の声。

「薬は? 何か飲んでいるのか?」

「いえ……」

「去年から調子が悪いとか、言っておいて。病院にも行ってないのか。全く。いつになったら、自分でちゃんと出来るんだ。いい歳をして、子どもじゃあるまいに」

 そう叱る父の声に、診察は受けた事とハンドバッグに非常用の薬を入れてあることを話すと、『取ってくる』と、兄が立ち上がる。


「そういえば」

 軽く咳払いをした父の手が、座りなおした私から離れる。

「去年、暁が来た時に言っていたが」

「はい」

「今時、ふろしき残業なんてしてるのか」

「ええ、まぁ」

 父の言葉に、『そろそろ通知表の季節も近い』と、忙しくなる仕事を思い出して、ため息をつく。

 暁が小学校に入学したあたりから、私の勤め先である楠姫城(くすきのじょう)市でも通知表の電子化が行われて、慣れるまでの数年は特に大変だった。

 ここ五年ほどは、やっと楽になった気がするけど。それでも通常の授業や校務の合間を縫っての作業には変わりなく、学期末の一ヶ月は仕事と家事に追われる。


「過労死が問題になって、何年経つと思うんだ」

「それを、私に言われましても……」

「ちゃんと、残業の手当てを申請しなさい、と言っている」

「……そもそも、残業という概念がないのですけど」

「タイムカードとか……」

「ありません。勤怠表があるだけで」

 うーむ、と唸った父がブツブツと呟いたのは、新聞で時折目にする言葉だったけど。

 長年、人事に携わってきた父には、私たち教員の勤務形態というのは理解の範疇を超えているらしいことだけは、伝わってきた。



「お母さん。ほんとうに大丈夫?」

 明海の声に振り返ると、薬袋を手にした娘と兄が部屋へと入ってくるところだった。

 薬の所在を兄に尋ねられた明海が、ハンドバッグの中から探してくれたらしい。

 薬を受け取って、PTP包装から一錠取り出して。


「知美は、相変わらずそうやって薬を飲むんだ」

 水で流し込んでいると、兄の笑いを含んだ声がする。

「おかしい、ですか?」

「おかしくはないけど。小さい時から、薬を飲むときは必ず目をつぶるから」

 変わってないな、と言いながら差し出された手に、戸惑いながら空になったグラスを渡す。

「お兄ちゃんもそうだよ」

 薬袋に薬のシートを片付けていた明海まで笑う。


「親子なんだから、似てるのは当たり前だろう」

 そう言った父と、私たち兄妹は。

 何か似ているのだろうか。



「今日は片付けはいいから。しばらく寝てなさい」

 立ち上がった父が、押し入れから肌掛布団を出してくる。

「あ、りがとうございます」

「そんな無茶な働き方をしてるなら、具合が悪い時くらい体を休めなさい。それくらい常識だろうが」

 ほら、その座布団を枕代わりにするといい。

 父の言葉に、足元に置いてある二つ折りの座布団を手に取る。さっきまで横になっていた私の足がこの上に乗せられていたのは、頭を低くするためだったのだろう。

 父らしからぬ気遣いに戸惑いながら横になって、座布団に頭を乗せる。

 その私の上に、意外なほど優しい手つきで布団が掛けられる。



「あの、お父さん」

「うん?」

 部屋を最後に出ようとして、襖を閉めかけた父が振り返る。

 ”お父さん”と呼んだのは、いつ以来だろう。

「さっきの、着物ですけれど」

「ああ」

「もしかしたら、明海達が着ることがあるかもしれないので、このまま置いておいて頂いても……」

「何だ、持って帰らないのか」

「置き場所もないですし」

 そう言ってしまってから、後悔した。

 今のは、絶対に言い方が悪かった。

 

 結婚前に、朔矢のことを散々『自称ミュージシャンのヒモ男』呼ばわりしていた父のことだ。着物の一枚や二枚、置く場所を取れないなんて言ったら……どれほど彼を馬鹿にするだろうか。


 言ってしまった言葉を、飲み込めないかと息を吸い込む。 

 そんな私をジロリと見下ろした父は

「子供が三人もいたら、部屋数もいるだろう。箪笥も安いもんじゃない」

 そう言いながら、左手で腰を叩いている。

「はぁ」

「母さんの着物も残っているし、置いておけばいい。そのうち、お前自身が母さんの着物を着ることだってあるかもしれないしな」

 この家だって。もう一人子どもが居たりしたら、狭かったと思うぞ。

 そう言いながら閉められた襖を、ボンヤリと眺める。


 昔の記憶とは違う襖の模様。

 下の方に、小花を散らしたようなクリーム色の襖を眺めているうちにここ数日の疲れのせいか、まぶたが下がる。


 明海に起こしてくれるように頼んだ時刻まで、一時間ほど。

 どこか懐かしい”実家の香り”のする布団に包まる。



 その日は、帰り道に倒れることを心配した暁も一緒に家へと帰って、そのまま予定外に一泊していったり。

 明海からメールを受け取った朔矢が、電話をかけてきたり。


[で、本当に大丈夫なんだな?]

 大丈夫、だと、何度言っても、信じてもらえないのは。

[そりゃ、実家に帰るたびに倒れてるっつったら、心配するのが家族じゃねぇの?] 

[それは、そうだけど……]

[暁だって、心配だからって帰ってんだろ?]

 今日の俺は帰れねぇんだから、心配くらいさせろよ。

 そんな朔矢の言葉に、今年も心の中で『明海のおしゃべり』と、恨み言を呟く。


 それでも。

 黙っていれば判らない、なんてことを子供たちにはさせたくないから。

 敢えて、娘には口止めしなかった。


 それに。

[明海からメールが行くのは、ちょっと意外だったわ]

[だろ?] 

 夏に『SAKUの娘なんかに生まれたくなかった』と叫んだ娘は、それ以来、朔矢と微妙に距離を置くようになっていた。

[俺も、端末見た時には思わず『をおぉ?』みてぇな声で叫んじまったぜ]

 目じりに皺を寄せて苦笑するのが見えるような朔矢の声に、電話のこっちで私も小さく笑う。

[これがきっかけで、明海との仲が戻るといいわね]

[まぁな。でもまぁ、そろそろあいつも親離れの年だろうし。いつまでも、父親べったりっつうわけにはいかねぇよ]

[でも、寂しいじゃない]

[それは、親のエゴだろうがよ]

 電話の向こうで、何かを飲む気配がする。

 こちらも、飲みかけの番茶を口にする。


[暁は上手に距離をあけたけどなぁ。明海はそういう意味でも、不器用だな]

[そうよねぇ]

[お前みたいに、三十歳まで引きずらせないようにしないとな]

 そんな朔矢の言葉に、自分が親離れをした時のことを思い出す。


 親を精神的に殺さないと、親離れできないと思いつめ。

 親を殺す覚悟で、朔矢と一緒になった。


 親である私が

 次は

 殺される覚悟を。



 物騒な覚悟をしたからと言って、時が止まってくれるわけでもなく。

 仕事に追われる時期が来る。


 職員室で学年末に向けての仕事をしていた私は、凝り固まった肩をほぐそうと伸びをする。

 担任をしている三年一組は、現在図工の授業中。専科の先生が見てくれている間に、と、通知表の作成をしていた。 

 音楽室から、五年生が卒業式で歌う曲が風に乗って聞こえてくる。


 卒業式か。

 暁や明海の卒業式から、一年が経って。もう一年したら、今度は千晴だ。

 子供たちが三人とも、義務教育を終えるのか。


 長かったような短かったような、十三年間を思う。

 行事の重なることが多くて、運動会も音楽会もほとんど見に行ってやれなくて。

 元気だったころの朔矢の両親が前日から我が家に泊まって、代わりに行ってくれたこともあった。

 『今年は誰も行ってやれない』と思っていた運動会に、午後からしれっと朔矢が来ていたと、あとから同じマンションに住む同級生の子のお母さんに聞いた年もあった。

 それでも、入学式や卒業式が重なる学年の担任をせずに済んだことは、幸い、だった。



 そこからどんな脈絡を辿ったのか、自分でもわからないけど。

 この冬、の出来事を思い出した。



 『おとうさん、おかあさん。私ちゃんと勉強して、高校行く』

 千晴がそう宣言したのは、冬休みも終わろうかという日の昼食後のことだった。

 『お、選手宣誓か』と、まぜっかえして千晴に睨まれた朔矢をたしなめて。


「どうしたの、突然」

「義務教育だけで、終わるのは、嫌。高校行って、もうちょっと勉強続ける」

「それは、分かったけどね。なんで、いきなりそんな宣言をするの?」

 両手を握りしめて。

 幼いころスーパーのお菓子売り場で仁王立ちになっていた時のような表情の娘が言うには。


 法事の時に父に言われた『高校に行かなくっても、嫁に行けばいい』という言葉に、焦りを覚えたらしい。


 

 その日を境に、学校から帰ってきたら何も言わなくっても勉強をするようになった。

 この前の学年末テストの直前には、『勉強を教えて』と明海の部屋に押しかけて、『私も、試験前っ』と、追い出されて膨れていたこともあったなぁ。



 そんなことを思い出して。一人で笑っていると、横を通りがかった教頭先生が、怪訝そうにパソコンの画面を覗き込んできた。

「原口先生?」

「あ、すみません」

 軽く咳払いをして、仕事に戻ろうと座り直す。

「何か、ありましたか?」

「いえ、本当に。ちょっとしたことで……気が散ってしまって」

 と、言い訳をしてキーボードに手を戻す。

 そんな私に、教頭先生は

「もし、仕事の方がひと段落ついていたらでいいのですが」

 と前置きをして、話を切り出す。


 教頭先生と年度末に向けて必要になってくる書類の相談をしているうちに、チャイムが授業の終わりを告げる。

「じゃぁ、原口先生。よろしく」

「わかりました。では、今週中に」


 デスクへと立ち去る教頭先生の背中を見送って。

 手帳に追加になった仕事をメモする。

 今日は、帰ったら通知表よりも先にこれを片付けないと。


 父の言う”ふろしき残業”の算段をしながら、書きかけの通知表に保存を掛けていて、さっきの”千晴の主張”の続きを思い出す。



 あの日。千晴が自分の部屋に戻った後。

 「高校に行かないと”みっともない”っつうのはよ。行かせてやれない親の”後ろめたさ”が変化したモンじゃねぇの?」

 考え考えの朔矢の言葉に、なるほどと思って。法事以来、気になっていた『高校に行かないとみっともない』という価値観の正体が見えた気がした。


 だったら。

 千晴が高校生活を全うできるように。

 さらに、暁と同じように大学への進学を希望するなら、叶えてやれるように。


 私は、私の仕事を全うしよう。



 次の授業の用意をして、席を立つ。

 

 さて。三時間目は

 算数だ。   

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