帰宅
玄関ドアの開く音に、私はアイロンを掛ける手を止めた。
時計の時刻は……午後二時半。
立ち上がって部屋のドアに手を伸ばしたところで、ドアのほうが勝手に開く。
「ただいま」
「おかえりなさい」
三日ぶりに返ってきた朔矢が、戸口に大きな鞄を下ろす。差し出された紙袋を受け取ろうと右手を伸ばしたら、そのまま紙袋ごと手首を捕まれた。
「起きてて、大丈夫か?」
硬い指先が前髪をかき分けて、額に掌が当てられる。
私よりもわずかに高めの体温が額から伝わって、こめかみが緩む気がする。
「熱は、無いな」
「どうしました? いきなり」
「実家で倒れたんだろ?」
改めて渡された紙袋を受け取るなり、そんなことを言われて動揺する。
「兄さん、から、聞きました?」
「いや。昨日の夜、明海からメールが来てた」
それを聞いて、内心で『明海のおしゃべり』とつぶやく。
でも。仕方ない、か。
明海は、”お父さん子”だから。なんでも、朔矢に報告してしまうのは、いつものこと。
「何があった?」
と重ねて訊かれて。実家で目にした朔矢の手紙が脳裏に浮かぶ。
訊いてみても、いいかしら?
「ひとまず、着替えませんか? その間にお茶を淹れておきます」
お菓子らしきお土産の紙袋を、目の高さに上げてみせる。
右の握りこぶしを口元に当てた朔矢が、じっと私の顔を見つめる。
「心配しないでください。座って、ゆっくり話をしたいだけですから」
「そうか?」
アイロンのスイッチを切って、お台所へと向かう。
お湯がそろそろ沸く頃、洗濯機を操作する音がして着替えを終えた朔矢がお台所へと入ってくる。
「お土産、洋菓子ですよね?」
「いや。どっちかっつうと和菓子、かな?」
「どっちか?」
名前は、どう見ても洋菓子、な気がする。
「和洋折衷の、”和”寄り」
餡が入っていると聞いて、煎茶を淹れる準備をする。
箱から出てきたのは、餡入りのロールケーキのようなお菓子だった。五つに切り分けて、それぞれの部屋にいる子供たちにもお茶と一緒に配って回る。
「で、なにがあった?」
お台所に戻るやいなや、朔矢からの質問が飛んできた。
「実家に置いてきた荷物の片づけの話になって」
答えながら、彼の正面の椅子に座る。
少しの間考えていた朔矢が、顔をしかめた。
「……『父親の稼ぎで買ったモンを、持って行くな』って言われてたヤツか」
「はい」
親子の縁を切られた時に、自室の荷物を持って出ようとして……父にそんな言葉で、止められた。
一人暮らしを初めてから一年以上が経って、必要な物は一通り持って出ていたので、未練もない物ばかりだったけど。
「母が亡くなって、身辺整理をすることにしたそうです。それで、昔、私や兄が使っていた部屋の押入れをひっくり返して、収取がつかなくなったから、手伝いなさい、って」
「何か嫌なモンでも、出てきたのか?」
”嫌な物”ではないけれど。
どう、表現すればいいのだろう。
お菓子をフォークで切り分けて。一口、口に入れる。
柚子の香りが、口に広がる。
「朔矢。一つ訊いてもいいですか?」
「うん?」
「実家に子供たちの写真を送ったのは、どうしてですか?」
「この話に、関係あんのか? それ?」
フォークをぶらぶらとさせながら、朔矢が首を傾げる。
「暁の入学式の写真が私の机の上に置いてあるのを見て、驚いてしまって」
意識が遠くなりました。
そう言った私の言葉に、彼が低く呻いて天を仰いだ。
うーん、と、言葉を選ぶようにしばらく考えていた朔矢が、お皿にフォークを置いた。
「昔、な。暁が生まれた時の事なんだけどよ」
確かに昔、か。十八年前、になる。
「お前が分娩室に入っている間、おふくろと廊下で待ってただろ? その時に、俺が赤ん坊の頃の話なんかをしててさ」
「赤ん坊の頃の話?」
「右手の親指を吸ってた、とか。二人目だったけど大きかったから、生むのが大変だったとか」
「朔矢って、生まれた時から、大きかったんですねぇ」
『四月生まれで、人より大きくて』と、いつだったか言っていたけれど。百八十センチを超える身長は、生まれ持ったものだったんだ。
「まぁな。で、そん時に、おふくろがポツンと言葉をこぼすように言ったんだよ。『生田のお母さん。寂しいわね』って」
彼の口から出てきた”生田”という自分の旧姓に、肩が跳ねる。
縁を切って、二十年。
こんなところで出てくるとは思わなかった。
「暁が産まれてしばらくは、そんなこと、忘れてたんだけどよ。こう……『子を持って知る親心』っつうのかな。ジワジワっと、おふくろのその言葉が染み込んでくる感じでさ」
改めてフォークを手にした朔矢がため息をつく。
「俺の両親が暁をあやしている姿とかを見てたら、写真くらい送ってもいいかなってな」
「そうだったんですか」
「二回送ったところで、やっぱり止めたほうがいいかとも思ったんだけどよ。お兄さんが」
視線を落とすようにしてお菓子を切り分けた朔矢が、再び口を開くのを待つ。
その間に、私も一口お茶を飲む。
「『正月に帰省したら、知美の部屋で写真を見つけた。アルバムにきちんと整理してあった』っつって教えてくれたから、そのまま続けたんだよ」
「兄さんも、知っていたんですね」
「二回目の時に、結婚式の写真も入れたからな。お兄さんに一枚、焼き増しをしてもらった」
確かに。
片付けの合間にパラパラと捲ったミニアルバムには、結婚式の写真も混ざっていた。
「じゃぁ、置いてあった便箋の日付が、母の倒れた年が最後だったのは?」
「それも、お兄さん情報だな。お前の部屋に置いてあるっつうことは、多分父親は写真の存在を知らないだろうってよ」
「はぁ」
「美雪ちゃんの写真は、居間に飾ってあったんだろうがよ」
「そう、でしたか?」
「らしいぜ? さすがに俺は、お前が殴り飛ばされた”あの日”に行っただけだから、知らねぇけど。お兄さんが言うには、あの家で撮った写真が飾ってあったとよ」
そう言われれば、美雪ちゃんが初めて来たお正月に、嬉しそうに父が写真を撮っていた覚えが……。
「でも。それが、どう関係するのですか?」
「母親宛に写真を送ってたからな。受け取り手が倒れたら、送るわけにいかねぇよ」
風圧で鼓膜が倒れるほどの勢いで私を殴って絶縁を言い渡した父が、それから十年ほどで写真を受け取ったら……捨てられていたかもしれない。
我が子の写真が燃える”絵”を想像して。
背中が寒くなる。
「で、そのアルバムは持って帰ってきたのか?」
「いえ、父が置いておいて欲しいと」
昨日、実家から持って帰ってきたのは、卒業アルバムと成績表だけだった。
床に散らかされた物たちは、片っ端からごみとなって、今週の回収に回される。
「そうか」
「できればまた、時々でいいから、送ってほしいそうです」
うん、と軽く相槌を打ちながら、朔矢がお茶を飲んだ。
「それはそうと。知美」
「はい」
「さっきから気になってたんだけど」
テーブルに肘をついた朔矢の右手。
軽く握られた拳が、彼の口元に添えられる。
「なんで、敬語に戻ってんだよ」
「え?」
敬語?
「戻ってま……すね」
「だろ?」
無意識だった。
あの”家”の空気に気圧されるように、私は朔矢と結婚した頃の言葉遣いに戻っていた。
「やっぱり、キツイか。あそこに行くのは」
「空気、が……」
「そうか」
「昔に比べたら、父のことは怖くなくな、ったけれど」
敬語に戻りそうな語尾を意識して、”普通”に戻す。
「具合が悪くなったのは、ストレスかもな」
「義姉さんとも話していて、『歳のせいかな』って言ってたのだけど。とりあえず明日、一度病院に行ってくる」
「歳って、お前なぁ」
私よりも五歳年上の彼が、目尻にシワを寄せるようにして笑う。
「千晴が大人になるまで、まだまだ頑張らないと、ね?」
「そうだな」
朔矢の返事に重なるように、洗濯機が終了のメロディーを奏でるのが聞こえた。
翌日、診察を受けた結果は、特に異常もなく。
ホームドクターの先生に
「人間だって、生き物だから。実をつけた後の草が枯れるように、次世代を生む役目を終えたら、ガクっと弱るもんだよ。そこに天候の変化とかストレスが影響したら、てきめんだね」
と言われて、改めて、自分の歳を感じる。
お守り代わりに、と、頓服で薬をもらって。
毎日の生活に戻る。
”お守り”が効いたか、実家に戻るストレスから開放されたおかげか。
時々立ちくらみがする程度で、年が明け。
子どもたちの受験も無事に終わった。
暁は、朔矢の実家のある笠嶺市の教育大学に進学した。中学校の先生を目指す、という。通学するには、少々不便なので、一人暮らしを始めた。
明海は、歩いていける距離の高校へ。彼女の成績では、少し背伸びをした感のある学校だったけれど。彼女にとっては小さい頃から見慣れた”高校生の象徴”である制服に身を包む。
私よりも少し背が高くなった千晴も、中学二年生になった。
そんな子供たちの写真を、桜の樹の下で、それぞれに撮って。
朔矢がしていたように、短い手紙とともに実家へと送る。
リターンアドレスは書かないままで。
私自身も通知表の作成で忙しくなる一学期末を目前に控えた頃。
イレギュラーなオフで昼過ぎに帰宅していた朔矢が、明海の帰宅を迎えた。
通常ではありえない、午後二時の帰宅だったという。
「どうも、サボリくさい」
職員会議のある日で、遅くなった私を待っての夕食の後。
食洗機にお皿を入れながら、朔矢が声を潜めるように言う。
「サボリ?」
「俺と目が合うなり、逸らしやがった」
明日の明海のお弁当用に戻した高野豆腐を絞りながらそんな話を聞いて、眉間にしわが寄るのを止められない。
イジメか。それともちょっと無理めなランクの高校だったから、勉強についていけてないのか。
「本人は、なんて?」
「風邪気味でしんどいってよ」
「確かに、今日はあまり食べていなかった気はするけれど」
早めに寝る、と本人も言ってはいたけれど。
そもそも、毎朝きちんと登校しているのかしら?
朔矢が朝から仕事に行っている日は、高校生の明海が最後に家を出ている。
全く学校に行っていなくっても、私たちにはわからない。
「来月辺りに個人懇談があるだろうから。その時にちょっと先生にも相談してみたほうがいいかも」
「だろ? 頼むな」
受験も終わって、一安心と思っていたのだけれど。
本当に、”親”の仕事は、何が起きるかわからない。
その個人懇談では、出席状況について相談するよりも先に、担任の先生から進路の話題が出された。
「大学は、行きません」
明海が言い切った言葉に驚いて、体を捻るようにして隣に座る娘の顔をマジマジと見る。
「ええっと。それはご両親とも相談して?」
先生の伺うような言葉に、首を振って否定する。
私と同年代の女の先生と一瞬顔を見合わせて。
「明海?」
「進学はしません」
頑なな表情で、先生の手元を睨むようにしながら繰り返す明海。
「原口さんは……成績的には、今のところ問題無いですし。授業態度もいいので、行けるなら大学には行ったほうがいいと思いますけど」
手元の資料を眺めながら、先生が言うけれど。明海は無言で首をふる。
授業態度が”良い”ということは、無断欠席とかはないと考えて。
この前のサボりの件は、ひとまず胸に納めておく。
『時間はあるから、ゆっくり家で相談を』との先生の言葉に送られて、教室をあとにする。
「お母さん、スーパーに寄って帰るから、ご飯炊いておいてくれる?」
「うん。今日はお父さん、食べるの?」
「泊まりになるって聞いているから、少なめでいいわよ」
「判った」
そんな言葉を交わして、校門前で別れる。
進路のことは、今夜私一人が明海の話を聞いたとしても、もう一度朔矢とも話すことになるだろう。
それなら、明海も私も今夜一晩、互いに考えを整理して。
明日、改めて話しあおう。
その夜の間に、朔矢に電話で事情を説明して。
翌日の夜、三人で話し合うことにした。
ダイニングテーブルの椅子に向かい合って座った、夫と娘の前にお茶を置く。私も、朔矢の隣に腰を下ろす。
「明海。大学に行かずに、何をするつもりだ?」
「……」
問いかけに無言のまま俯く明海が、口を開くのを待つ間。
チラリと横目で私を見た朔矢と目が合う
「明海。お母さんたちが高校生の頃は、大学進学率って三十%くらいだったのね」
「うん」
「それでも、お母さんの通っていた学校では、進学しない子はクラスで数人だったと、思う」
大学進学率が五十%を超える現在。楠姫城市ではトップレベルの進学校である明海の高校の進学率は、百%に近い。
「その状況で、『進学しない』と言われたら、お母さんたちが『なんで?』って思うのは、判る?」
「……うん」
ソロリと上目遣いに私達を見て、また目を伏せる明海にため息を押し殺す。
「で、最初の質問にもどるぞ。高校を卒業したあと、どうする気だ?」
「……小説家になりたい」
「は?」
「お話を書きたいのっ」
消えそうな声を聞き返した朔矢に、叩きつけるような勢いで明海が答える。
唖然、としか言いようのない思いで、夫婦で顔を見合わせて。
しばし、互いに視線で譲り合いをする。
「明海」
下手に刺激しないようにと、そっと呼んだのに。
ギューッと口を噤んだ娘は、泣きそうな顔で私を睨む。
「さっきも言ったように、あなたの高校は進学重視の学校でしょ? 周りが進学に向けて勉強する中で、こんなに早いうちに”進学しない”って決めてしまったら、三年間、勉強を続ける気力が続かないんじゃないかしら?」
「だった……める」
「え?」
「高校、辞める」
何を言い出すやら。
どこで、私達の子育ては
何を、間違えた。
「高校だけは、出ておいた方が」
「それは、お母さんが”先生”だから、そう言うんでしょっ」
「”先生”じゃなくっても、言いますっ。高校を卒業してないと、就職が大変なのは、ちょっと考えればわかるでしょ?」
バイトの求人だって、高校生と大学生では時給が違うことくらい、アルバイトの経験のない私にだって、判っている。
「だぁかぁらぁ。就職するんじゃなくって、小説家になるって言ってるじゃないっ」
「明海っ、いいかげんにしなさいっ」
相手の言葉にヒートアップしていく自分を、抑えることができない。
高くなっていく私の声に反応して、明海も興奮しているのが判っていても。
「知美。ストップ。落ち着け」
朔矢の声に、肩で息をしている自分に気づく。
「血圧、上がるぞ。ちょっと、お茶でも飲んどけよ」
言われるままに、お湯のみに手をのばす。
小休止、と言った感じで、明海も一息に冷めたお茶を飲み干す。
「明海。お父さんも、高校を辞めることには反対だけどよ。小説家になりたい、だけじゃねぇだろ。辞めたい理由が、他にもあるんじゃねぇの?」
「……」
「先月、だったか。お前、変な時間に家に帰ってきてたよな? 何があった?」
重ねて尋ねる朔矢の顔を見返した明海の目から、涙がこぼれ落ちた。
「明海?」
「……か、……った」
「うん?」
「織音籠の……なんかに……った」
娘の口から出てきた言葉で、かろうじて聞き取れたのは、朔矢が四十年近くベースを弾いているバンドの名前だった。
「織音籠が、どうしたって?」
「織音、籠の、」
「うん」
「SAKU、の」
「うん」
「娘なんかに、産まれたくなかった」
「は?」
「え?」
間の抜けたような私たちの声が、お台所に落ちて。
真っ赤な目で、明海が私たちを見据える。
肩で息を吸い込む。
「織音籠のSAKUの娘なんかに、産まれたくなかった!!」