一周忌
あの夜、私を駆け抜けていった動悸は、”通り道を間違えただけ”だったかのように、再び現れることなく日がすぎる。
そして、眠れない夜を時折数えながら、法事の日を迎えた。
他県に住む兄たちは、前日の夜から実家に戻っているらしい。
隣の市に住んでいる私は、当日の朝に家を出ても、十一時からの法事には十分間に合った。
去年の葬儀は駅前の葬儀場で行われたので、実家の最寄りのバス停で降りるのは、二十年ぶり、になる。
この二十年で、この界隈にもマンションらしき背の高い建物が増えて、景色が違って見える。久しぶりすぎて、元々何があったところかまでは覚えていないけど。
とりあえず。バス停の横、にコンビニは無かった気がする。
それでも、三十歳まで住んでいた町並みに、自然と足が実家への道を辿る。
以前は白かったはずの塀が苔むして、暗い緑の斑模様になっていることにも時間の流れを感じつつ、インターフォンを押した。
そういえば。このインターフォンも私が住んでいたころはただの玄関チャイムだった。
応えがあるまで、深呼吸を一つ。二つ。
左隣に暁が並んだのを感じて、軽く見上げる。
「今日、僕は父さんの名代だから」
あえて”名代”と、古臭い言葉を使った息子の微笑みが、朔矢とよく似た雰囲気で。
身長だけでなく中身も大きくなった、と頼もしく思っていると、右手を握る感触がする。この手のつなぎ方は……千晴。
末っ子だからか、この子は自然と手をつないでくる。よちよち歩きの頃から、今に至るまで、ずっと。
その滑らかな手の甲に指を滑らせて、自分の”過去”に思いを馳せる。
亡くなった母の手の感触が、どんなだったか思い出せない。ごつごつしていたのか、柔らかかったのかすら、覚えていない。
私は、いつまで母と手をつないでいた?
千晴みたいに、中学生になって、はあり得ない。そんな”みっともない”ことを許す人ではなかった。
小学校の中学年? 低学年?
スーパーで迷子になって、こっぴどく叱られたのはいつだっただろう。
そんなことをぼんやりと思い出している私の前で、玄関ドアが開く。
無意識に千晴の手を握り締める。
暁の向こう側に並んでいる明海が、小さく咳払いをしたのが聞こえた。
「知美叔母さん、お久しぶりです」
「美雪ちゃん。帰ってたの?」
「はい、先週」
ドアを開けてくれたのは、姪だった。
恐竜の研究をしている彼女は、夏にかかってきた兄からの電話では、アメリカのどこだかの発掘現場に行っていると聞いていたが。
「法事の為に、戻ってきたの?」
「いいえ。最初からの予定通りです。発掘そのものをしに行ったわけじゃないですから。見学、みたいなもので」
そう言って、日に焼けて茶色くなった髪を揺らしながら私たちを招き入れる。
玄関に足を踏み入れて。
淀んだ空気に押しつぶされる気がした。
嫌だ。帰りたい。
そう思ったせいか、一瞬視界が揺れる。
あ、立ちくらみが来る。
握った千晴の手を支えに、ぎゅっと目を閉じる。
「おかあさん?」
「ちょっと……」
「また、立ちくらみ?」
『大丈夫、平気』そう言おうとした私に向かって、声が飛んできた。
「いつまでもそんな所で、何をグズグズしている。早く上がりなさい」
二十年前と変わらぬ、父の居丈高な声に……身がすくむ。
いつまで経っても
何一つできない
劣等生の子供に心が戻ってしまう……。
「お母さん、帰る?」
目を閉じた闇の中に、柔らかいソプラノの声が響く。
「私も、お兄ちゃんと同じように”名代”、するよ?」
そんな明海の声に、目を開く。俯いた私を覗き込んでいる長女の顔が……不安に固まっているのを感じる。
『怖いっていうのはな。相手がわからないから怖い、んだぜ? 怖くってもぶつかってみろ。意外と柔らかかったりするんだぜ』
朔矢の声がする。
引っ込み思案な明海に、彼が何度も繰り返し言い聞かせていた言葉。
ああ。
そうだ。
私は、”お母さん”だ。
逃げちゃいけない。
三人の子の中で一番の怖がりなこの子の前で、逃げるわけにはいかない。
「もう大丈夫。お寺さんも来られるし、上がりましょうか」
明海を安心させるように笑いかける。
『笑わないと、老けるぞ』記憶の奥で、朔矢が目じりに皺を寄せて笑った。
私が実家にいた頃には”客間”だった一階の和室が、今では”仏間”になっていた。
「ご無沙汰しています」
座卓を挟んで、父の前で正座をした私の横で、暁が同じように頭を下げたのが見えた。後ろに座った娘たちの立てる衣擦れの音も聞こえるから、多分、彼女たちも同じようにしているのだろう。
『ウム』とも『ああ』とも取れる父の返事を聞いてから、子供たちを促して仏壇の前へと向かう。
持ってきたお菓子を供えて四人で手を合わせてから、お茶の支度をしてくれている兄嫁を手伝いにお台所へと向かった。
「お義姉さん、お手伝いすることはありますか?」
声を掛けながら、ドアを開ける。
片付いてはいるものの、くすんで感じる流し台周りに、この家の”主婦”の不在が刺さる。
「丁度良かった。知美さん、お客様用の茶碗とか茶托って、どこにあるか判る?」
「あ、はい。多分……」
流し台の上。吊り棚の左側の扉を開ける。視力検査をするように、箱に書いてある母の文字を眺めて……。
あった。一番上の段。
でも、あれは私や義姉の身長では届きそうにない。割れ物だから、無理をすると危ない。
踏み台の置き場所を思い出そうとしている横で、義姉が腕組みをしている。
「あれは、カズ君でないと無理かなぁ。先月、ぎっくり腰をしたから、ちょっと不安なんだけど」
「兄さんが、ぎっくり腰、ですか?」
「そうよ。聞いてくれる? お米の袋を持ち上げようとして、ギクッて」
「もう大丈夫なんですか?」
「三日ほど寝てたけどね。そのあとは、普通に仕事も行っているし」
でも法事の間、座っているのって、つらいのではないだろうか。同僚も『座るときと立ち上がる時が怖い』とか言っていたように思う。
「暁に取ってもらいましょうか。多分、兄さんと身長も変わらないでしょうし」
「変わらないどころか、抜かされてるでしょ? 暁くん、生れた時から大きかったし」
「そうでしょうか?」
「そうよ。あの頃って、”小さく生んで、大きく育てる”のが、流行だったじゃない?」
そんな会話の合間に、暁を呼ぶ。
長い間使われた形跡のない茶碗を洗い直して。布巾で拭いているところに、お寺さんが来られた。
すぐにお茶が出せる様にだけ用意して、私たちも仏間へと戻る。
読経、焼香、説法と進んだ法事は。予定通りの時間に終わった。
お茶を一杯飲んでから帰って行かれるお寺さんを、玄関まで見送って。
『邪魔にならないように』と、お寺さんが来られる前に部屋の隅へと片付けられていた座卓を元の場所に移動させる間に、義姉と二人で皆の分のお茶を淹れなおす。
「もう少ししたら、寿司が届くから」
部屋の中央に運び直された座卓の前で、壁の時計を見上げながら父が言う。
兄の前にお茶を置きながら、そんな父の言葉を意外な思いで聞く。
それはかつて、母の仕事だった。
自分の飲むビールの栓を抜くこともお茶を淹れることも。何一つすることのなかった人なのに。
人は、変わるもの、だと。
私自身もお茶を飲みつつ、改めて眺めた父は、この二十年で一回り小さくなった気がした。
この人が、長い間、怖かった。
いつ、殴られるかと。
いつ、貶されるかと。
そして、いつ
この家から、追い出される日が来るかと。
『知美。お前の”家”はここだ。”家族”は、俺たちだ。忘れるな』
一昨日、朔矢に言われた言葉を思い出す。
そんな言葉をお守り代わりに残して、朔矢は昨日から二泊三日の仕事に出かけている。
朔矢。私は大丈夫。
もう、怖くない。
私は、大丈夫だから。
お寿司を待つ間、父に連れられて、兄と三人で、二階へと向かう。
仕事の関係で一人暮らしを始めた時に半ば物置にされた自室が、完全に物置になっていることを覚悟しながら、西側の部屋のドアを開ける。
閉め切った部屋特有の埃くさい匂いに、この部屋が長い時間忘れられていたことを知る。
窓を開けなきゃ。
そう思いながら、長年の習慣で壁のスイッチを押す。
「泥棒、ですか?」
足の踏み場もないほど散らかされた部屋の惨状に、背後の父を振り返る
「いや、それが……」
「いったい、何があったんです?」
ウロウロと視線をさまよわせる父は、まるで職員室で叱られている子供のような表情だった。
その父の向こうでは、東側のドアを開けた兄も、呆れたような顔でこっちを見ている。
おそらく、兄の部屋も似たような状態なのだろう。
手近に落ちていた箱を拾い上げる。
母の字で”知美、小学校”と書かれている。
これは、確か……押入れの天袋にあった。作文とか通知表の入った箱の蓋。
その横には、中学校の卒業アルバムが落ちている。これは小学校や高校のアルバムと一緒に、本棚に置いていなかったかしら?
「そろそろ、身の回りの整理をした方がいいかと、思ってな」
父の小さな声が聞こえる。
その頼りなさは、悪戯の言い訳をする小学生のようだった。
「整理、になってないですね」
「……母さん任せだったからな。一度出してしまうと、私にはどこにあったか判らないし、必要な物がどれかも……」
「で、僕達に片付けろ、と?」
「今度のゴミで出すから、捨てる物を仕分けしておきなさい」
「いまから、ですか」
「昼からでいいだろう。十分や二十分で終わるものでもないからな」
なるほど。
片付けをさせるために、珍しく昼ご飯の手配もしたのか。
聞こえてくる兄と父の会話にため息をつきながら、とりあえずアルバムを手に取る。その下から、案の定、高校のアルバムの赤い表紙も見えた。
今日、来なかったら。
この部屋の惨状は、父が死ぬまで放っておかれたのだろうか。
見なかったことにして。
私は、居なかったことにして。
「おかあさんたち。お寿司来たよ」
千晴が二階に上がってきた。
「じゃぁ、一度降りるか」
助かった、みたいな声で言った父が一番に階段を降りようとする。
その父に通り道を開けた千晴が、目聡く私の手に持ったものに目を輝かせる。
「あ、アルバム。おかあさんの? ねぇ見てもいい?」
「あとでね」
そう答えながら、制服を着た千晴と手の上のアルバムを見比べる。
そうか。明海も千晴も中学生。
このアルバムの頃の私と、かわらない歳になったのか。
高校のアルバムと一緒に手に持って。
なんとなく、部屋の明かりを消す前にぐるりと部屋を見渡した。
窓際の学習机の上。昔は教科書を置いていた本立てに、数冊のミニアルバムがある。
こんなところに? いつの写真だろう。
千晴に卒業アルバムを預けて机に歩み寄る。
不思議なほど埃をかぶっている感じのしないミニアルバムの、右端の一冊を手に取る。
ヒラリと、数枚の紙が落ち。
一拍遅れて、写真が一枚。
暁?
写っていたのは、中学校の入学式の朝。
学校の校門を背にした、詰襟姿の息子だった。
どうして、こんなものが、ここに?
疑問が渦巻く。
息が、詰まる。
動悸が走って
目の前が
く ら く な る。