母と娘と
若い頃、”騙し騙し”と言う言葉が、どうにも好きになれなかった。
なんだか、ずるいことをしているようで。みっともないと思っていた。
けれど、体調不良の波を”騙し騙し”やり過ごしながらの五十代を終えてみると、これはこれで意味があるような気がしてきた。
父との関係も、感情とかいろいろなわだかまりを”騙し騙し”過ごす。
法事には顔を出して、ついでに実家の片付けを手伝って。時折、近況報告の手紙や写真を送る。
それだけのことでも、うっすらと親子の縁はつながり続ける。
そんな私が還暦を迎える年。
大学の四年生になった明海は、そのまま関西で就職を決めた。
「一人暮らしを始めるときに、お母さんが言ったじゃない?」
帰省した明海と、並んで夕食の支度をしていた夏休み。
我が子ながら、意外と鮮やかな手つきでアジを三枚に下ろした娘が言う。
「家計簿は、ちゃんとつけなさいね、って」
「言ったかしら?」
隣で揚げ浸しを作りながら、記憶を手繰る。
「もう。覚えてないの?」
「うーん。そう、だった?」
「そうなの。でね、家賃とかも含めた収支を見てると、『これは小説家では、食べてはいけないなぁ』って思って」
「ふぅん?」
「芥川賞とか、直木賞とかをとるような作家でも、最初は兼業だったってエッセイを書いていたりするわけ。お母さんが昔、言っていたみたいに先生をしていたりとか」
「……それは、言った気がするわね」
バットにかぼちゃを引き上げて。次は、シメジを揚げて、と。
「だから、ちゃんと働いて。その上で、お話を書こうかなって」
「なるほどね」
そうか。
成長したなぁと、隣で玉子を溶いている娘を感慨深く眺める。
明海は春から、食品関係の会社に勤める。
「それに、社会に出るのが勉強になると思ったのもあるし」
「社会勉強?」
「ほら、私って、会社勤めをしている身内がいないでしょ?」
確かに。
私も暁も学校関係だし。朔矢は、いわゆる”勤め人”ではない。
「会社で働く人の生活なんて、完全に想像でしかないから。今の私が書いたら、そういう人を主人公にした話は、嘘っぽいって」
公募に出した作品の講評で言われたらしい言葉に、娘が顔をしかめる。
『若いうちに、色々な経験をさせてやりたい』
朔矢の言葉に、合点が行く。
なるほど。インプットか。
「もっと早く。高校生の間にそこまで考えていたら、違う道も有ったかもしれないけど」
千晴みたいに、と言いながらアジをフライにするための衣をつけている。
千晴はといえば『看護師になる』と言って、朔矢の通っていた大学の近所にある看護大学に通っている。甘えん坊の末っ子は相変わらずで、兄姉とは違って自宅からの通学を選んだ。
「それでも、大学に行かなかったら見つからなかった”未来”よね?」
「まぁね」
衣を付け終えたフライにラップを被せた明海が、少し前にメロディーを奏でていた端末に手を伸ばす。
そっと画面をタップした娘の表情に、ほのかな色が乗る。
ほら、朔矢。
明海の未来は、もう一つ、見つかったみたいよ?
明海の未来が、はっきりと一つの形になったのは、それから三年後だった。
会わせたい人がいる、と、連絡があって。互いの仕事の休みを融通しあって、日取りを決める。
「娘の父親、っつうのは、こんな気分になるんだな」
朝からソワソワしている朔矢が呟く。
「自分が挨拶に行った時より、落ち着かねぇ」
「大丈夫よ。あの時みたいに、殴られたりしないから」
「普通、ああいう場合、殴られるのは俺だろうがよ」
改めて無茶苦茶だったな、と、私の実家に挨拶に行った日の顛末を思い出して、苦い笑いが溢れる。
結婚の挨拶に行って、当の娘が殴られて。挙句に、二十年の絶縁、だ。
それでも、押し通したから。
今の私が。
私達、家族がいる。
『緊張する』とは言いながらも、朔矢はさすがに長年ステージに立っているだけあって。
インターフォンがなった瞬間に、表情が変わった。
織音籠のSAKUの顔に。
明海と一緒に、『お邪魔します』とドアをくぐって入ってきた青年は、上がり框に立つ朔矢の顔を見た瞬間、限界まで目を見開いた。
あ。明海。
彼に、言ってないわね?
「明海のお父さんって」
「うん?」
「大きいなぁ」
って、そこ? そこに驚くの?
夫婦で、唖然と顔を見合わせて。
朔矢が噴き出した。
「でかい図体の人間が住むには、狭い家ですが。どうぞ」
先に立って、居間へのドアを開ける朔矢に、恐縮したように体を縮めながら靴を脱いだ青年と明海がスリッパを履くのを待って。
お茶を淹れに、私はお台所へと向かう。
ソファーに青年と明海を座らせて。彼の自己紹介を聞く。
明海の一歳年上で、藤江 司と名乗った彼とは、サークル活動をきっかけに知り合ったという。
「サークルっつうと、食べ歩きとかだったか?」
「最後の方は、手料理研究会、かな?」
安くておいしい店を紹介しあうような食道楽のサークルが、いつしか自炊自慢、のような形に進化を遂げたらしい。
「じゃぁ。藤江さんも自炊を?」
「ええ、まあ」
「私よりも、ずっと上手よ? 魚のさばき方も、教えてもらったくらい」
なるほど。
そんな所で……。
「父が、釣りを趣味にしてまして。見よう見まねの自己流ですが」
そう言って、お湯呑みに手を伸ばす。
小一時間も話しただろうか。
暖かさが滲み出るような彼の人柄に、『明海はいい人と出会えた』と朔矢が二人の結婚を認めた。
”結婚は、両性の合意のみに基づき”だから。認めるも認めないもないと、私たちは知っているけど。
でも、だからこそ。
両親が祝福して、新しい家族を作り上げさせてやりたい。
「で、だな。父親の俺が、ちょっと特殊な仕事をしているんだが……」
「はい、聞いています」
「そちらのご両親は、問題にされませんか?」
尋ねた私の方を見て、藤江さんの一重の目が、静かに微笑んだ。
「話したときには、さすがに驚いてはいましたが。それとこれとは別問題と」
「そうですか」
「『できれば、サインの一枚くらいもらってこい』と」
「ちょっと、司くん」
慌てたように口を挟もうとする明海の手の甲を、軽く叩くようにしてなだめる藤江さん。
その手を、そっと返した掌で受け止めた明海が口をつぐんで、朔矢の顔を見つめる。
「そう言ってくれるなら、俺たちも安心だが。明海も家族として、いろいろと悩んだ時期があった、ってことだけ、覚えておいてほしい」
「はい」
明海の手をぎゅっと握った藤江さんが、まっすぐな目で私たち夫婦を見返す。
こんな視線は、何かを決意をした子の視線。
よろしく、藤江さん。
これから、明海と末永く幸せに。
翌年、暁も結婚相手を連れてきた。
その頃、甘えん坊の千晴も何やら思うところがあったらしく、一人暮らしを始めた。
子供たちが次々と巣立って行って。朔矢と二人の生活に戻る。
年度末に定年を控えた年あけ。
明海のおめでたが、知らされた。
[予定がいつって?]
[七月の半ば]
[どっちかの家に、里帰りする?]
私自身は、朔矢のお母さんに手伝いに来てもらったりしたけど。明海は、どうするつもりだろう。
[うーん。ここを離れたら、司くんが赤ちゃんに会えないし」
「じゃぁ、お手伝いに行こうか?」
司くんのご実家は、お祖母さんの介護をされていると聞いたから。あまりご迷惑も掛けられないだろうし。
[でも、お母さん。通知表の季節だよ?]
忙しい時期じゃない?
電話口で軽やかに笑う娘の声に、『そんなことで、遠慮するなんて』と、仕事と子育てを両立してきたつもりでも、彼女に我慢をさせてきた事実が、ずしっとのしかかる気がする。
[この春で定年だから。後一回で通知表はおしまい]
[えぇ? 今年、そうだっけ?]
[そうよ。春からは、専業主婦なの]
そんな会話を交わした結果。
出産予定日の一週間前から、七月の終わり辺りまでの予定で、私が明海たちの家に泊まることになった。
そして、明海のところへと向かう日の朝。
駅まで送ってくれる朔矢と、まだ涼しい時間帯に歩いている時だった。
端末が着信を告げる。
「あれ? 明海?」
「うん? どうした?」
荷物を朔矢に預けて、端末を操作する。
【陣痛が始まって病院に向かうので、直接病院に来てほしい】という内容のメールに、久しぶりに動悸が走る。
深呼吸をして、動悸を逃がす。
「大丈夫かよ?」
「う、ん。ちょっと、驚いただけだから」
「お前が倒れるなよ?」
「判ってる」
『俺も行ってやれたら、いいんだけどよ』と、呟く朔矢もきっと心配をしているのだろう。荷物を持っていない、右の握り拳が口元に添えられている。
さすがに古稀が近くなって、織音籠の活動も『趣味の延長』と本人たちが冗談交じりに言う程度にまばらになっては来ているけれど。
それでも、”織音籠のSAKU”との縁を隠すように暮らしている娘の元へ、見舞いに行くわけにはいかないと、留守番をすることにした朔矢。
朔矢の分も、しっかり明海を支えてやらないと。
私は経験者、で。
明海のお母さん、なんだから。
足踏みをしたくなるような心を落ち着かせながら、新幹線で西へと向かう。
暁の時は昼過ぎに陣痛が来て、生れたのは翌朝だった。生まれたての息子と対面した後、病室に戻った朔矢が夜明けの空を見て、名前を付けたと聞いたから、確かそうだったはず。
それなら、まだ、生れない、よね?
ああ、そうか。
朔矢のお母さんはこんな気持ちの中で、あの夜、朔矢の産まれた時の話をしていたのかもしれない。
乗り換えだの、最寄駅からの地図だの。
新幹線の中でネット検索した結果を駆使して、病院までたどり着く。
詰め所で病室を聞いて、そっとドアをノックする。
うめき声のような返事を聞いて、お腹にキュッと力が入る。
「明海?」
「お、母さん」
陣痛のさなからしい、特異な呼吸の合間に明海が私を呼ぶ。
「腰、摩ろうか?」
「うん」
少し強いくらいの力で、押し気味に腰を摩ってやる。
今年のお正月も例年通り、司くんの実家へ二人揃って帰省をしていた娘は、去年の夏に会ってからの一年でどっしりとした”母親の腰”になっている。
ふっと、明海の呼吸が落ち着く。波が過ぎたのを、感じる。
「司くんは?」
「仕事。フレックスで、病院に送ってきてはくれたけどね。午後から三泊の出張で休まれへんって」
手がベッドサイドに伸びるのを見て、ペットボトルを渡してやる。
まだまだ間隔の広い陣痛をやり過ごす娘を見ながら、ふと『つらいな。生みの苦しみとは言うけど、痛いな』と、朔矢の声を思い出す。
つらいね。見ている方も。代わってやれなくって。
この三十年で、技術はいろいろ進歩したけれど。
人は、人からしか生まれない。
母親の”生みの苦しみ”を、誰も代わってやることはできない。
陣痛の合間を埋めるように、明海と色々な話をした。
神戸のコンサートには大学時代から毎年、司くんと二人で行っていたとか。
「さすがに、しばらくは行けへんかなぁ。お父さんたち、次に行けるようになるまで頑張っとってくれたらいいけど」
一月の神戸と、クリスマスの地元。この二か所のステージを務められなくなったら引退と、朔矢たちは言っている。
「今年も行けんかったし……」
さすがに身重の身では危ないと、司くんに止められたと恨めしそうな娘を団扇であおいでやる。
心地よさそうに目を細める明海の額に、ぽつぽつと汗の粒が浮かんでいる。
空調が効いていても、陣痛によって体内にこもる熱を思い出す。暁の時も真夏だったから、暑かった。朔矢のお母さんが付き添ってくれて、扇子であおぎ続けてくれた。
「だったら、来年は子守りに来てあげようか?」
「本当?」
「お母さんだって夏休みには、お祖母ちゃんの所にあなた達を泊めてもらって、織音籠のライブを見に行っていたんだもの」
「えぇー。あれ、そうやったん?」
この街の方言がところどころに交じる娘の言葉に、十年暮らしたこの街に彼女が根付いた気がする。
小説は、ゆっくりとしたペースで書き溜めては出版社の新人賞などに応募していること。まだ入賞には程遠く、落選した原稿を手直ししながらネットで公開しているという。
「お父さんが言うてたでしょ? 最初に書いた詩が歌われた時、気持ち良かったって」
「”わかる日”が来た?」
「うん。ネットで、最初に感想を貰った時、嬉しかったぁ。モニタを見とって、手が震えるんよ」
「そんなに」
「うん。お母さんには悪いけど、学校で書かされる感想文とは、わけが違う。もうね、あれ見て実感した。私は、小説家になりたいんじゃなくって、お話を作りたかったんだなって」
本になってくれれば、一番うれしいから、出版社にアプローチは続けとるけど。
そう言った明海が、ペットボトルのお茶を飲み干す。
空いたボトルを受け取って、ゴミ箱へ入れる。
「最近はね、子供向けのお話、書いてて」
「へぇ。童話?」
「うーん。もう少し、大きい子向けかな。自分でネットを触れる、小学校高学年から中学生くらい?」
「学校の情報授業、のおかげ?」
「まぁね。私達も、授業をうけたよね」
「先生の方は、準備が大変だったのよ」
デジタルネイティブと呼ばれた明海たちの世代と違って、私たちは大学を卒業するころにやっと個人がパソコンを持つのが普通になった世代だ。
私なんて、朔矢と出会うまで、携帯電話すら持っていなかったし。
「でも。次のお話は、童話、かなぁ」
「年齢層を下げるの?」
「この子に、お話してあげたいなって」
お布団の下でお腹を撫でているらしく、肩が動く。
「育児は忙しいわよ?」
「書き起こす暇はなくっても、話すことはできるから。思いつくまま、お話をしてあげたいなぁ」
「それもいいわね」
「でしょ? お父さんみたいで」
生老病死や愛別離苦。
四苦八苦の全ても”詩の材料”へと昇華する朔矢を思って頷いた私の手を、明海が握った。
「お母さん」
絞り出すような声で呼ばれる。
深く息を吸う娘。
ああ、次の陣痛だ。さっき陣痛からの間隔は……少し縮まったか。
「なに?」
「子、守唄、歌っ、て?」
「子守唄って、アレ?」
無言で頷いた明海に、朔矢が作った子守唄を歌ってやる。
暁が生まれた時に作られた
織音籠で、ただ一つ
彼らの奥さんだけが歌う、わが子の為の歌。
数時間後。分娩室に明海が移動した後も、廊下で一人、子守唄を口ずさみ続ける。
何度目の繰り返しの時だっただろう。
真夜中近い廊下に、産声が響く。
卒寿を迎えた頃からケア付きマンションに住むようになった父には、夜が明けてから報告することにして。
『何時でも構わない。電話してこい』と言っていた朔矢と『遅くなったら留守電に入れてもらえれば』と言っていたらしい司くんに、無事に女の子が生まれたことを報告する電話を入れたあと。
後処置を受けている明海が分娩室から戻ってくるのを、一人静かに待つ。
仮眠用に貸してもらった毛布と並んで病室のソファーに座って。
さっき抱かせてもらった孫のぬくもりを染み込ませるようにに、両手を握り合わせる。
『生田さんのお母さん、寂しいわね』
暁が生まれた夜。朔矢のお母さんが言ったという言葉が、手に残るぬくもりとともに、染み込んでくる気がする。
娘の生んだ孫を抱くことなく、逝った母。
親子の縁を切られても朔矢を選んだこの人生を、後悔なんて、しないけど。
それでも。
自分が”祖母”になったこの夜。
母の”寂しさ”が、胸に落ちた。
お母さん。
今日、私も”お祖母ちゃん”になりました。
お母さん。
無性に、あなたの声が聴きたいです。
お母さん。
今夜、夢に出てきてくれませんか。
そして、お母さん。
私にも子守唄を……聴かせて。
END.