親離れ
千晴が無事に暁の母校である高校への進学を決めた翌年。
明海は、関西の大学を受験した。
「ホンマに、家からは絶対に通えん所、選んだなぁ」
YUKIの言葉に小さく相槌を打ちながら、差し出されたタッパウェアを受け取る
中身は、暁の妊娠中から毎年分けてもらっている小魚の佃煮。YUKIの故郷の特産品で、通知表の作成の合間を縫うように部屋探しに訪ねた街は、丁度この佃煮を炊く匂いで満ちていた。
あの街で育ったYUKIが、かつてこの街に来て。
この街で育った明海が、今度はあの街で未来を探す。
明海が新しく住む所は、YUKIの実家から『歩いて歩けんこともない』距離らしい。
「歩けるとは言うても。歩きたくなんか、ないけどな」
「歩いたこと、あるのかよ?」
居間のテーブルへ煎茶を運んできた朔矢が、ソファに座ったYUKIの言葉に突っ込む。
「震災の三日後に俺、市を横断したもん。もっと長い距離、歩いたで?」
今は、無理やなぁ、若かったなぁ。
そんな事を言っているYUKIを、奥さんの悦子さんが隣で痛そうに眺めている。
災害に壊れた街は、”若かった”YUKIの心を傷つけて。
その傷を、彼は”詩”を書くことで癒した。
一月と三月。
かつて、大きな災害に揺れたこの月の間だけ演奏される”幻の曲”は、織音籠でただ一つ。”作詞 YUKI”の曲。
そして。JIN以外が、メインボーカルを務める唯一の曲。
当の明海はといえば、大学生活と一人暮らしを満喫しているらしい。
ほぼ毎日、近況報告のようにネットに上げている彼女の記事は、さすがに自身の写真は載せていないものの、『物書きになりたい』というだけあって、彼女の日々の暮らしが手に取るように伝わってくるから、『ああ、今日も元気に楽しんでいる』と、見る度にほっとする。
そして、バイトやサークル活動を通じて新しい友人もできたらしく。
『あの引っ込み思案が、頑張ってるじゃねぇか』と、朔矢は目を細めている。
ほどなく暁も、大学の在る笠嶺市での採用が決まった。
あとは、千晴の次の受験まで、一休み、できるかしら。今度こそは。
そう思っていた、矢先。
朔矢のお母さんが亡くなった。
仕事で東北にいた朔矢は、死に目に会えなかった。
お通夜も、ちょうどコンサートの当日で、帰ってこれなかった。
ステージを終えてから、新幹線を乗り継ぐようにして、かろうじてお葬式には帰って来れたけれど。
悲しむ暇もなく喪主を務めて。斎場で最後の別れをした後、骨上げを待たずに次の仕事へととんぼ返りをした。
『この仕事を選んだ時から、覚悟はしていた。オヤジだけでもきちんと見送れたから、良いとしないと』
そう言いながらも、節高いその手を力の限り握り締めていた朔矢。
そんな彼の想いを断ち切るように、タクシーのドアが閉まる。
納骨は四十九日を終えてから、朔矢の休みが取れる日にと、朔矢のお姉さんとの間で話は纏まっていたので、それまで我が家でお骨を預かる。
朔矢が帰ってきたのは、お葬式の三日後だった。
彼は帰ってくるなり、居間に設えた簡易の祭壇の前に腰を下ろした。
お灯明とお線香を上げて。
手を合わせた朔矢の肩が、小さく震えだす。
「おふくろ、ごめん。ごめんな」
嗚咽だけが響く静かな部屋の片隅で、私もじっと息を殺して彼を見守る。
実の母親を見送った時には流れなかった涙が、零れそうになる。
両親に縁を切られた私を、実の娘のように可愛がってくれたお義母さん。
目頭をそっと拭っていると、廊下に通じるドアが開いた。
顔をのぞかせたパジャマ姿の千晴に、静かにするようにジェスチャーで示して。
座り込んでいる父親の姿に、全てを了解した、という顔で、私の隣に座る。
「お祖母ちゃん、ね。お正月に言ってたんだ」
小さい声で、千晴が思い出を語りだす。
「お姉ちゃんや私の結婚式まで、元気でいたいなぁって」
「そう」
「私も、いつか。花嫁さんになる所、見て欲しかったなぁ」
それから一年も経っていない、と思うと、あまりにも儚い。
体調を崩して入院した時には、『またきっと元気になってくれる』と、私達は信じていたのに。
「寂しくなったお祖父ちゃんが、呼んだのかもしれないわね」
「うん」
隣で、千晴が目をこする気配がする。
「千晴たちが『来てください』ってお願いしたら、きっと二人で花嫁姿を見に来てくれるわよ」
「うん」
焦らないでいいから、自分の人生を見つけなさい。
そんな思いで、風呂上がりの娘の湿った髪を撫でる。
半分ほどになったお線香と、遺影と無言の会話を交わしているような夫とを見て、私達がこれ以上ここにいるのは、親子にとって邪魔でしかないような気がしてきた。
千晴を促して、部屋から出て。
私も入浴を済ませる。
朔矢の明日の仕事は、午後からと聞いている。
邪魔をしないように、私達は先に休むから。
一晩、ゆっくりとお母さんと語り明かして。
翌朝、起きてみると、朔矢は祭壇の前で丸くなって眠っていた。
タオルケットを手にそっと覗くと、泣き疲れた子供のような寝顔で。側には、作詞の材料を書き貯めているノートと鉛筆が落ちていた。
開いたままのノートを閉じようと、手を伸ばす。
流れるような朔矢の手蹟が、いつになく乱れて、大きな字なのは……老眼鏡も掛けずに書いたせい?
『つらいことから逃げてたんじゃ、物書きになんざなれねぇよ』
明海に言っていた朔矢の言葉を思い出す。
YUKIの心の傷が、”詩”になったように。
朔矢の哀しみもいつか
何かの形に生まれ変わるのだろうか。
翌週、お義父さんのお位牌も祭壇に並んだ。
『誰もいない家に、ぽつんとオヤジだけ置いとくのも、どうかと思ってさ』と、お葬式をしてもらったお寺と相談して、移動をさせてもらった。
以来、毎朝。朔矢は起きるとまずお茶を淹れて、供える。
『朔矢のお茶を、久しぶりに飲みたいわ』
お見合いの時にそう言って微笑んだ、お義母さんの声が聞こえる気がする。
千晴も、私も、当然朔矢も。学校や仕事に出かける前と、帰ってきた時に手を合わせる生活が、自然と出来上がる。
納骨を済ませる前に、ささやかなお仏壇を用意して。
朔矢の両親のお位牌に見守ってもらいながら、日々を過ごす。
この年の暮れ。私達は銀婚を迎えた。
とはいえ。
結婚記念日は、毎年恒例となっている織音籠のクリスマスコンサートの日でもあるし、喪中だったこともあるので、特にお祝いなどはしなかった。
ただ、冬休みで帰ってきていた明海が『せっかくだから。ご飯、作ってあげる』というので、翌日の夕食をお願いした。千晴と二人でワイワイと言いながら、楽しそうに手を動かしている様子が、居間からもうかがえる。
メニューは朔矢のリクエストで、チキンステーキとコーンスープ。
その日は、暁も帰ってきた。
二十五年前のクリスマスの日。二人っきりで届けを出して、指輪を交換しただけの結婚だった私達。
あの日の夕食を再現したようなテーブルを、この夜、家族五人で囲んだ。
「あのさ。父さん」
「うん?」
朔矢のグラスに赤ワインを注ぎながら、暁が口を開いた。明海の住む街の名前が冠された、このワインを見つけたのは、この秋。近所のスーパーに朔矢と行った時だった。
『これも一つの縁、だな』そう言って、籠に入れたボトルは、しばらく戸棚の隅で眠っていたけど。せっかくの明海の手料理に合わせようと、昼から冷蔵庫で冷やされていた。
「銀婚のお祝い、なんだけど」
暁の言葉に、明海と千晴もフォークを置いた。
「三人で、考えたんだけどさ。どうにも、父さんに何をあげたらいいのか思いつかなくって」
「お母さんとお揃いの何か、とか、いろいろ考えたんだけどね」
明海の言葉がくすぐったい。
この年で、お揃いなんて。
明海の言葉に目尻にしわを寄せるように笑った朔矢は、
「んなモン、いらねぇよ。こうやって、家族揃って祝ってくれただけで十分」
と言いながら、暁のグラスにワインを注ぎ返す。
「そうよ。まだ学生なんだから、ね?」
私の言葉に、暁がニコッと笑って。
「だから、ここからが相談」
あ。この顔。
『母さん。すっごくイイ事、思いついた』と、目を輝かせていた小学生の頃の笑い方。
「大したことはできないんだけど。二人で旅行、行かない?」
「旅行、か」
グラスを手に、朔矢が私の顔を見る。
新婚旅行もしなかった私達は、二人っきりで旅行なんて行ったことがない。
行きたい、という欲と、どこから、お金を出すの? という当然の疑問が心の中で綱引きをする。
そんな私の葛藤を見透かしたように、朔矢が予算とおおまかな計画を暁に尋ねた。
「僕が社会人になって、一年、くらい後だったら、ある程度余裕もあるかな? って考えていて」
今、初任給ってどの位だろう。
そもそも私とは採用されている市が違うから、給料体系とかも違うと思うけど。
「明海も、そのくらいの猶予があれば、バイト代を貯めれそうって」
暁の話に、千晴が言葉を足す。
「私は、さすがにバイトできないから、お兄ちゃんとお姉ちゃんに出世払いで」
「出世、するのかよ」
「するもん」
朔矢のツッコミに、千晴がべーっと舌を出す。それを、隣の席の明海がたしなめる。
「父さんの仕事の都合とかもあるだろうから、いつでもいいけど。ちょっと、考えてみて」
「そうだな」
頷いた朔矢にホッとしたような顔で、明海がスプーンを手に取る。
暁が差し出すボトルから、私もほんの一口だけ、ワインを注いでもらって。
食事が再開する。
そして、一年半の後。
千晴も大学生になった年のゴールデンウィーク。子どもたちから、交通費と宿泊代をプレゼントしてもらって、旅行が実現した。
子どもたちは知らないことだけど、私達には結婚記念日が二つある。
届けを出した日は、私が三十二歳のクリスマス。
式をあげたのは、翌々年のゴールデンウィーク。
「せっかくなら、結婚”式”から二十五年の、”もう一つの銀婚式”の時に行こうぜ」
と言う朔矢の言葉で、旅行の日が決まった。
行き先は、明海の住む街。
朔矢はコンサートで毎年、訪れている街だけど。
私は明海の入学前に、慌ただしく新生活の準備を整えに来ただけだったので、一度ゆっくりと訪ねたかった。
観光都市を謳う街を二人で散策して、朔矢のお勧めの店で食事をとる。
「知美、タイ料理とロシア料理だったら、どっちがいい?」
「タイ料理、かな?」
「んじゃ、行こうか」
そんなやり取りも、結婚前に戻ったみたいで、二人でクスクス笑いながら店へと向かう。
明海の通う大学の門まで、二人で行ってみたりもした。
『もしかして、織音籠……』そんなヒソヒソ声に、小さく首をすくめてそっと脇道へと逸れる。
「あ、明海が」
「どれ?」
「ほら、あっちの信号」
グネグネとした路地を歩いていると、ぽっかり大通りに出て。
信号待ちをしているらしい娘の姿が目に入る。
「隣の男、は……」
「彼氏だったりするかしら」
「明海がぁ?」
楽しそうに笑い合っている明海は、どこか、大人っぽい表情をしているから。
これはたぶん、母の勘。
明海
一つ、未来が見つかったのかもね?