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誘い

 電話の鳴る音に意識が

 引き寄せられるように覚醒へと向かう。



 肩を叩かれて、はっきりと目が覚めた。

「電話、鳴ってるぞ」

「ありがとう」

 夫の手から受け取った端末に表示されているのは、三歳年上の兄の名前だった。


[もしもし? 兄さん?]

[久しぶりだね。今、時間、大丈夫?]

[あ、はい]

 返事をしながら眺めた時計は、そろそろ三時になろうとしていた。

 昼食の後片付けをして。『ちょっと、うたた寝』のつもりで、ダイニングテーブルに伏せてから、結構長い時間が経っていたことに驚く。

 夏バテ、だろうか。最近、どうも体が怠い。


[で、話なんだけどね]

 互いの近況などを話した後、兄は本題に入った。

 母の一周忌の法事が秋に行われるらしい。

[知美は、来れそう?]

 と訊かれて。

[いえ。それはちょっと……どうかと……]

 二十年近く前、両親に親子の縁を切られた身としては、行くわけにいかない、と思う。去年の通夜と葬儀には、陰ながらお参りさせてもらったけど。

[”あの人”が]

 私が結婚した頃からの呼び方で兄が、父のことに話をむけた。

[知美と、子どもたちに会いたいって]

[はぁ……]

[春のお彼岸に、(あきら)がお参りに行ったそうだよ。家まで]

 出てきた息子の名前に、驚いた。

 いつの間に。あの子ったら……。


 考えておく、と返事を保留にしたまま、通話を切る。

「お兄さん、なんだって?」

 そう尋ねる夫の朔矢が差し出す麦茶のグラスを受け取って、おおまかに電話の内容を話す。

「暁が実家にお参りに行ったらしいのだけど。朔矢は知っていた?」

「ああ。まぁ。一応、交通費は俺が出したし」

 大体の道順と住所も教えた、と言いながら向かいの席に腰を下ろして麦茶を飲んでいる朔矢につられるように、私もグラスに口をつけた。

 思っていたよりも喉が渇いていたことを、麦茶の冷たさが教えてくれた。



「俺のオヤジの墓には、毎年お参りに行っているだろ? 春休みに入る前くらいに、暁が『お祖母さんのお墓には、行かなくてもいいのか?』って、訊いてきてよ。だったら、我が家を代表して行って来い、っつうことで、な。さすがに、俺はお墓の場所までは知らねぇから。仏壇の方にお参りさせた」

 確かに、朔矢の言うとおり。

 五年前に他界したお義父さんのお墓には、春と秋の二回、家族揃ってお参りしている。ミュージシャンをしている朔矢の仕事の都合や、子どもたちの学校行事との兼ね合いを見ながらなので、お彼岸の期間に行けないことも多いけれど。


「せっかく向こうが呼んでくれたんだ。行ってきたらいいんじゃねぇの?」

 朔矢の言葉を聞きながら、麦茶のグラスに冷えた掌をそっと左頬に当てる。最後に父と会った時に殴られた所が、痛むような気がして。

 そんな私を、朔矢は右の握りこぶしを口元に当ててじっと見ている。結婚当初から変わらない、何か心配している時の朔矢のしぐさ。

「敷居が高い、か?」

「うん。『二度と敷居は跨ぐな』って言われたし」


 見合いで出合った私達は、二年の時間をかけて互いの想いを育てて、結婚の決意を固めた。

 けれど、その見合いの裏には、朔矢に”会社勤め”をさせようとした彼の叔母の思惑があった。朔矢の仕事が気にいらなかった私の両親もそれを知っていたから、結婚を機会に父の勤め先へと就職させようとした。

 それに抵抗した結果、私は両親から親子の縁を切られている。

 去年の母の葬儀の時は、兄から連絡をもらった朔矢に『最後くらい顔を見せてこい』と、背中を押されて、親族としてではなく近所の人に紛れるようにお焼香と見送りをした。 


「それに」

 空いた二つのグラスを両手に持って、わずかに抵抗してみる。

「子どもたちも、って言われても、今年は暁も明海(あけみ)も受験でしょう?」

 暁が大学受験、明海は高校受験を控えた受験生。その下の娘 千晴(ちはる)も今年から中学生だから、部活動の予定もある。

 現に夏休みの今日も、暁は予備校の夏期講習に行き、千晴もバスケットボール部の練習試合で留守にしている。

「半日くらい、どうってことねぇだろうが」

「秋はほら、私の仕事も忙しいし」

「……それは、そうか」

 小学校の教師という仕事をしていると、二学期は運動会と音楽会がある分、授業も駆け足で。毎日の仕事も詰め込みになってきてしまう。


「だいたい、命日が平日だから……」

「関係ない、わけがねぇか。お前の家の”常識”なら、命日に法事をするんだろうな」

「でしょ?」

 誰が決めたのかも分からない”常識”に縛られた両親だったから。きっと私や兄の仕事の都合なんて考えもせずに日取りを決めるに違いない。

 葬儀は忌引き休暇を使って、参列したけど。

 法事のために有給を使う気はないし、子供たちの学校を休ませる気はもっとない。


 ”仕事”を理由にしたら……断れるかな。うん、きっと大丈夫。

 そう思いながら、グラスをすすいでいると、玄関ドアの開く音がして。

 帰宅を告げる下の娘の、疲れたような声が聞こえた。



 そんな私の願いもむなしく。

 法事の日取りが十一月の上旬に決まった。三連休の中日で、音楽会の翌日。ピンポイントで狙ったかのように、仕事を理由に逃げることすらできない日だった。

[どうして、そんな日になったんですか?]

 連絡してきた兄に文句を言っても仕方のないこととは、分かっている。でも、どうしても……文句が出てしまう。

[連休だったら、僕たち一家も移動が楽だろ、だって]

[そんなこと……命日はいいの?]

[いいらしいよ]


 苦笑交じりの声で兄が説明してくれたところによると。

 法事でお世話になるお寺さんに『命日より早めに法事をする分には、問題ない。むしろ、生きている人の都合に合わせて、一人でも多くにお参りしてもらえた方が、仏様が喜ばれる』と言われた父は、今までの人生で知らずに過ごしてきた”お寺の常識”に従うことにしたらしい。


[朔矢さんは、来れそう?]

 朔矢のスケジュールを気にした兄の言葉に、カレンダーをめくってみる。

 あー。これは、ダメだ。

[無理、ですね。前日から、四国です]

[全国ツアー? 今年は、予定あった?]

[いえ。そこまで長い留守では……]

 今年、朔矢のバンド”織音籠(オリオンケージ)”はアルバムを出していない関係で、大掛かりなツアーの予定は入っていない。今回は、とあるイベントへのゲスト参加と聞いている。

 まぁ、年末には恒例のクリスマスコンサートが地元で行われるし、年明けすぐには神戸だけど。

[だったら、子供たちと知美の四人って、伝えておくよ]

[は、い]

 仕方ない。

 覚悟を決めて、敷居を跨ごう。

 二十年ぶりになる、実家の敷居を。



 覚悟を決めたものの。

 九月、十月と日が過ぎるにつれて気が滅入る。

 子供たちの受験への心配も重なって、眠れない日が続く。


 その夜もなかなか寝付けなかった私は、『ホットミルクでも飲んでみようか』と起き上って、お台所へと向かう。壁の時計は、そろそろ日付が変わる事を示していた。


「おかあさん?」

 冷蔵庫から出した牛乳をマグカップに一杯分、片手鍋に移したところで声を掛けられた。

「千晴。どうしたの、こんな時間に」

「うーん。ちょっと……」

「また、本を読んでいたの?」

 明日、授業中に居眠りするわよ、という私の小言を聞き流した次女が、

「ミルクティー? おかあさんだけ狡い」

 私の手元を覗き込んで騒ぎ出す。

「夜中にミルクティーを飲むわけないでしょ? ホットミルク作ったら一緒に飲む?」

 一杯も二杯も変わらない、と、尋ねた娘は、幼いころと同じ顔で頷く。


 そろそろ額にニキビが出てきているのに。

 私と同じくらいの身長になったのに。

 いつまでも変わらないものってあるのね。


 そう思いながら注いだ牛乳は、カップに半分ほどしかなく。

 千晴に冷蔵庫から新しいパックを取ってもらって。

 

 受け取るために手を伸ばそうとした瞬間、だった。


 なんの予兆もなく、いきなり鼓動が走った。

 息苦しくなって、目の前も暗くなる。

 このままだと……倒れる……。



 暗くなった視界に感じる不安を、目を閉じることでごまかして。そろりと床にしゃがむ。

「おかあさん?」

「大丈夫。立ちくらみだから」

 心配そうな声に返事をしながら、息を整える。


 いきなり走った鼓動は、それ以上”悪さ”をすることなく、平常に戻った。



 『牛乳を温めるくらい出来る』と、代わりにコンロの前に立った娘の背中を眺めながら、ダイニングテーブルの椅子に座り直して、ゆっくりと胸をさする。

 

 何だったのだろう? 

 今のは、いったい? 


 不安に波立つ心を深呼吸で宥める。

 『息が詰まると、心も詰まる』と聞いたのは、一体誰の言葉だったか。


 そんな私の前に、湯気の立つマグカップが置かれた。

「ありがとう」

「いーえぇ。どういたしましてぇ」

 戯けたように言いながらも、千晴の目が心配そうに揺れている。

「本当に、大丈夫?」

「ちょっと疲れすぎたかな。今週末が、運動会だから」

「来週の体育祭、無理に来なくってもいいからね」

「せっかく、日程がかぶらなかったのに。お弁当、一緒に食べなくってもいいの?」

「そんなの、お姉ちゃんか友達と食べれば済むじゃない」

 『小学校の時だって、そうだったでしょ?』と言って一口ミルクを飲んだ娘は、カップをテーブルに置いて正面に座り直す。

 テーブルに肘をついて。

 ドングリを食べているリスのように、両の拳を口元に当てて、じっと私の顔を見る。


 その仕草に、赤ちゃんだった頃の千晴を思い出す。


 そういえば。

 千晴は、両手の親指を一度に吸う子だった。


 フッと、心の奥の”何か”が溶けた気がした。   

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